太陽は罪な奴

この間、休みを利用して新江ノ島水族館に行ったんですけど、すごいのな、なにがすごいって江ノ島の海が。

水族館の裏手はそのまま砂浜になっていて、海の家が立ち並んでいて、水族館を鑑賞した後もひょいと海の家に行ってご飯を食べられたりするんですけど、僕が連想するようなオールドタイプの「海の家」って感じのものは少なくなっていて、なんていうかアウトロー的な店が軒を連ねていたりするんです。

その店の外にも中にもアウトロー的な方々が生息しておりまして、ドゥンドゥンという音楽が爆音でかかる中、お前絶対に危険ドラッグやってんだろって人が我が物顔で歩いているわけなんですよ。

もしかしたらなんですけど、ここではむっちゃ危険ドラッグが流通していて、下手したら2千円札より円滑に流通している可能性があるんですけど、海で焼きそば食ってかき氷食ってってイメージとは程遠く、なんかガパオライス食ってジーマ飲んで、みたいなアウトロー感があったんです。

そんな中、とびきりおしゃれっぽい感じの店に入りましてね、海の家というよりは、しゃらくさいアウトローが集まるバーみたいな雰囲気の店に入ったんですけど、もちろん店内は、ドゥンドゥンという音楽が流れてて、店員なんてバリバリタトゥー入ってて顔に金属いっぱいついててですね、注文すら取りにきやがらねえ。

たまりかねて、こっちからカウンターに出向いて注文したんですけど、この店員どもが「うっす」とか言って聞いてるんだか聞いていなんだか、なぜか厨房にいる別のアウトローにオーダー伝えた後にハイタッチしてるし、本当に意味が分からなかったんです。

そんなこんなで運ばれてきた品物を、ザザーンザザーンという波の音を聞きながら食っていたんですけど、そうすると、隣に10人くらいの大所帯のアウトローが座ってきたんです。

アウトローどもは店に入ってきた状態でビンのビールをラッパ飲みしててですね、すげえうるさいんですよ。海に来てテンション上がってるのか、すげえうるさい。大体男7、女3くらいの配分なんですけど、男は完全にエグザイル的だし、女だって、絶対に手をつないでジャンプして空中に浮いてる写真をフェイスブックに上げてる感じですよ。そいつらが会話してるんです。

「今日のバーベキュー、最高かよ」

「それな」

みたいな会話してるんですね。どうも仲間内でバーベキューに来て、それは終わったか何かで、飲みたりないからこの海の家にきた、みたいな感じなんですけど、完全にアウトローなんでしょうね、タトゥーをどこに入れるか、みたいな会話で盛り上がってるんですよ。

「おれ、今日はマジで楽しかった」

「おれも」

「安心できるメンツってお前らだけなんだよねー」

「久々に集まれてマジ感謝」

みたいな会話が展開されていて、どうやらそれぞれ別の生活を歩んでいる昔の仲間が久々に集まってバーベキューをしたらしく、近況報告みたいなものが始まったのです。

こうなんていうか、アウトローはアウトローで大変なんだなって思ったんですね。向こうだって僕のようなデブのオッサンの生き様なんて知ったこっちゃないでしょうが、それと同じように僕もアウトローの生き様は知らないんですね。で、どうも彼らを見ていると、普段いかにアウトローなのかがちょっとしたステータスみたいになってるんですね。

「この間、ごちゃごちゃうるせえ上司、睨み返してやったらマジびびったてたわ、あのハゲチャビン」

まずグループのリーダー格っぽいアウトローが、スコットノートンみたいな肉体をしたアウトローが切り出します。

「パネェ」

「さすがジャクソン」(確かにこう呼んでた)

ただ、そんな好戦的な俺もこのメンツでは牙を抜かれる、マジ落ち着く、みたいな感じで会話が展開していくわけです。すると、その横の、ガンバ大阪井手口陽介っぽい人が言います。

「俺はこの間、ラーメン屋に並んでたんだけど、行列に横入りしようとしてきたハゲチャビンを怒鳴りつけてやった」

この人たちはどれだけハゲチャビンに恨みがあるのか知りませんけど、ここでまた武勇伝ですよ。

「パネェ」

「さすがRD(アールディー)」(確かにこう呼んでた)

なんか順番にいかに自分が暴れたかをカミングアウトしていく流れになって、電車でうるせえホスト風を怒鳴ってやったとか、アマゾンの箱がでかすぎるから宅配の奴怒鳴ってやった、DVD一枚をダンボールで運んできやがる、とかですね、そういった武勇伝が続いていたんですよ。で、武勇伝の後にはそれでもこのメンツだと落ち着く、みたいな流れになるんです。

で、いよいよ、僕がちょっと注目していた一番端に座る男の順番になったんです。

「ん?どうだ?ヨウヘイ」

どうもその男はヨウヘイって呼ばれているんですけど、なんていうかあまりこのメンツに溶け込め切れてないんですね。早い話が、あまりアウトロー感がなくて、どちらかといえばこっち側っぽい。色白でもやしっ子みたいな感じですし、アウトロー列伝にもあまり心躍ってない様子がしたんです。

そんな彼でも武勇伝を言わなければならない雰囲気なんですが、彼にそのようなものがあるとも思えない。どうもグループ内でも彼の立ち位置はそうみたいで、どうせないだろ、お前に武勇伝なんてって感じでジャクソンもRDもニヤニヤしてるんです。

そしてついに、ヨウヘイが口を開く。ついに彼の武勇伝が語られた。

「おれさ、この間、AV女優のサイン会行ったんだよ。人気のある女優で4時間くらい待ったかな。で俺の番になったんだよ。でも目の前には大好きなAV女優いるんだ。でもな、俺、握手せずに帰ってきたわ」

RDとか、はあ?みたいな顔してるんです。私19歳でがんになったときいい子でいるのをやめました、って言われた時の桜井君みたいな顔してるんです。他の女子やアウトローも「ハテナ?」って顔してて、ジェイソンなんて

「それのどこが武勇伝だよ。だっせー!」

とかバカにしてて、グループがドッと盛り上がったんです。

「さすがヨウヘイ」

「ウケル。サイン会(笑)」

「見事にオチ持っていったな。全然武勇伝じゃねえ」

そう盛り上がる面々の横で僕は一人震えていた。ガタガタと震えていた。

「こりゃあとんでもねえ武勇伝だ」

まず、AV女優のサイン会や握手会に行ったら、絶対に握手する。許されるならチンポくらい出す意気込みで臨むはずだ。なのに、4時間も待って握手しない。これはもう悪魔が産み落とした闇の子と言っても過言ではない。

ヨウヘイはきっと認めたくなかったのだ。自分が夢中になっているAV女優が、初めて画面以外を通して目の前に現れたとき、その実在性を認めたくなかった。そして、その彼女が実在する一人の人間であると感じたとき、自分がどれほど卑怯な人間なのか痛感したのだと思う。

4時間待ったのだ。それもいつも抜きまくってるAV女優だ。どんなにその実在性を否定したとしても、普通なら、まあ握手くらい、となる。そこを彼は誤魔化さなかった。自分を押し通した。それは上司を睨むより、何も悪くない宅配の人を怒鳴るよりとんでもない武勇伝だ。自分を押し通したのだ。

「やっぱヨウヘイはウケるな」

「ヨウヘイおもしろい」

お前らごときがヨウヘイ様を呼び捨てにするな、そう思ったが、RDとかマジ喧嘩強そうなので黙っていた。

夏の海に集うアウトローたち、その中にもとんでもない武骨な精神力を持ったナイスガイがいることが僕にとってはとても嬉しかった。照り付ける太陽に波の音、本当に太陽は罪な奴なのだ。

夏の魔物

夏といえばホラー、という感覚が実のところよくわからない。

怖い話やなんかを聴いて怖い思いをして、ぞーっとなってなんや寒くなったわ、暑いに夏にはこれが一番やな、となるために夏はホラーなんだと思うけど、あいにくデブにそれは通用しない。

例えばお化け屋敷に行ったとしたら、怖い思いをして走り回って叫んで、出るころには汗グッショリ、なんならちょっと湯気でてる。Tシャツの色もちょっと変わってるくらいだ。涼しくなったわーとは絶対にならない。

そういったわけで、夏にホラーなんて本来なら逆に暑くなって汗だくになるのですが、世間一般ではホラー特番なんかも増えてですね、やはりそういう雰囲気になってきますから、夏はホラーなんでしょう。というわけで今日はちょっとそういう話をしてみたいと思います。

僕がまだ子供だった頃、町の片隅に見るからに恐ろし気な洋館が立っていた。それは昔、産婦人科の医院だったらしいが、とうの昔に廃業していて完全なる廃屋だった。レンガ造りの古めかしい壁にツタが覆い茂り、見るからに何か出そうな外観だった。

もちろん、もともと産婦人科だったという極上のいわくもあるわけで、夜になるとホルマリン漬けの胎児が動き出すだとか、分娩中に死んだ母親が子供を探してさ迷い歩くだとか、もっともらしい噂が独り歩きするようになっていた。

当然、知る人ぞ知る有名な心霊スポットとして日々、不良グループやカップルなんかが隣町や隣の県からやってきて楽しんでいく一大観光地になっていた。もしかしたら、誰か行くんだかしらないよく分からない記念館なんかよりも重大な観光資源だったかもしれない。

そういった有名な心霊スポットなのだけど、終わりが来るのは早かった。土地と建物を誰かに買われて取り壊されることになったのだ。やはりいわくつきの土地と建物、ということでただでさえ田舎なので安いのに、破格というレベルで安く買い取られたらしい。

いくら安いといっても地元で結構名が轟いている心霊スポットを買うヤツなんているのか、誰だよ、その物好き、頭おかしいんじゃないか、どこのだれだよって思うけど、なんてことはない、買ったのはうちの父親だった。

うちの親父は自営業をしていて、それを自宅でやっていたのだけど手狭になっていたので新しい拠点が必要だと考えていた。そこで激安だった心霊スポットを購入し、そこを更地にしてプレハブを建てることにしたのだ。

祟りとか呪いで取り壊せない、とかそういうことがあるかと思ったが、別にそんなことはなかった。単に不気味ってことで噂が独り歩きしていただけの場所なので、そういった呪いの類はなく、すぐに更地になってプレハブが建った。僕が高校生の時だ。

これに喜んだのは、実は僕だった。思春期真っただ中だった僕は、家にいるのが煩わしく、このプレハブで過ごすことが多くなった。家からも離れていて親の干渉がない。さらにはトイレも台所もあって畳の部屋まである。おまけにクーラーも完備だ。気楽すぎてここで暮らすことしか考えられなくなっていた。

親父が仕事を終えるとこのプレハブは誰も使わなくなる。そこに移動していって自由な夜を満喫する。もともとは著名な心霊スポットだった場所ということもあって最初はすこし怖い気持ちもあったが、次第に慣れていった。ただ不可解なことが全くなかったと言ったら嘘になる。

金縛りにあったり、ドアの向こうから数千人くらい歩いている雑踏のような音が聞こえてきたり、金縛りにあい、どうしようかと思っていたら、自分の周りに散乱していた書類を踏みしめる音だけが聞こえてきて、その音が螺旋状に自分に近づいてきたりと、そういった不可解なことがあった。けれども、今日はその中でも最も怖かった話をしたい。

その日は、なんだか疲れていてすぐに寝た。プレハブの中には畳の休憩所みたいな小さな部屋があり、そこに布団を持ち込んで寝ていた。あまりの暑さにクーラー全開で寝ていたのだけど、一晩中つけっぱなしは良くないので程よい時間に切れるようにタイマーをセットしていた。

ただ、その時間設定があまりよくなかったみたいで、暑苦しさに目が覚めてしまった。たぶん、カーテンの隙間から見える暗さからいって真夜中のようだ。このプレハブでこんな時間に起きてしまうと、たいてい金縛りにあう。いやだなーこわいなーと思いつつ布団の中でうだうだしていると、声が聞こええてきた。

「・・・クス」

「・・・クス」

うわー、なんかでてきたー、声が聞こえるーいやだなーこわいなーと思いながら布団の中で震えていると、その声はさらにはっきり聞こえてきた。

「・・・ックス」

「・・・ックス」

「セックス」

絶対セックスって言ってる!

どういうことだ。なんで霊がセックスって言うんだ。もしかしてなんだけど、霊って結構女性であることが多いし、僕の好きな黒髪の地味目な女性であることが多い。僕らは無意識のうちに幽霊を真面目なものだと捉える傾向にある。つまり、彼女たちはこの世に出てくる原因となった恨みだとか呪いだとかを真面目に覚えていてそれをはらすために人々を怖がらせると考えるのだ。けれども、これは幽霊の中でも優等生なのではないだろうか。つまり、もっと幽霊にも不真面目な奴がいて、例えば何らかの呪いがあるのに出てくるんだけど、でもセックスしたいや、みたいなヤリマンの幽霊が存在していてもおかしくないのである。だいたい、この現世で真面目に一つのことに打ち込める人間なんてそうそういない。みんな何か別なことに心移りする。なぜ幽霊になると真面目に呪いに打ち込めると考えるのだろうか。そちらのほうがおかしい。幽霊になったのに競馬に狂う、幽霊になったのに強いイベントの日にパチンコ屋に並ぶ、そんなことがあるようにセックスに打ち込む女幽霊もきっといるはずなのである。

なんてことだろうか、セックス狂いの女幽霊が来た可能性がある。これはちょっと一大事だ。おそらくこのまま展開していくと、僕は大きな決断を迫られるだろう。つまり、幽霊と性行為をするのか、それとも人間の女性がいいと拒むのか、その決断をきっと強いられる。

ガサガサ

声は聞こえなくなったが、明らかにプレハブの周りを動く気配がする。完全にセックス霊が来ている。プレハブ周りの雑草が描き分けられるガサゴソといった音が聞こえる。どうも、その音から察するに気配は1つではない。最低でも4つはありそうだ。

まいったなー4体のセックス霊か、どうするか。頭の中にはハーレムもののAVが予習復習のように流れ始めていた。

ガタガタガタ

この畳の部屋からは直接見えないが、入り口の引き戸を強引にガチャガチャやる音が聞こえてきた。普通なら恐怖に叫びたいところだが、セックス霊だと思うとあまり怖くない。

「よし、決めた!」

霊でもいい。そう思った。これはもう経験しておくべきだと思った。むしろ、最初に霊で練習しておくほうがプレイの幅も広がりそうだ。意を決して僕は布団から起き上がり、入り口へと向かった。電気をつけると霊がびっくりすると思ったので、暗闇の中を進んでいった。霊でも電気を消してって恥ずかしそうに言うのかなって思った。

ただ、入り口付近に霊の姿はない。なるほど、さすが霊だ、霊的にじらしてきやがる。入り口のドアを開けて外に出て、裏手に回った。本当に茂みの中に4つの人影が見えた。本当にいた。

5P

そう思った時、その人影が叫んだ。

「うわー、ごめんなさい」

「ゆるしてくださいゆるしてください」

その人影は2組のヤンキーカップルだった。どうも、隣の県から来てる人たちみたいで、肝試しに行こうぜってなって怖い廃産婦人科の洋館の噂を聞きつけてここの来たらしい。ただ来てみたら洋館ではなく、プレハブだったのでおかしいと思って色々と調べていたら、僕が出てきて腰が抜けるほど驚いたらしい。

なるほど、最初に聞こえたセックス的な声は、こいつらこの後にそういうお楽しみの話をしていたんだな。

僕は恥じた。追い込まれて、もう初体験は霊でいいと決断するまでに至った自分を大いに恥じた。それはよくよく考えると寒気がするほど怖いことなのだ。そう、霊とかそういうのではなく、そこまでしてセックスしたい自分が怖い。自分の中に封印された悪魔みたいなものを感じて怖くなった。この自分の思いが一番のホラーだった。一番怖い。

ここはもう心霊スポットではない、とヤンキーカップルに告げたのだけどどうもまた廃産婦人科だという情報だけが再ブレイクしたらしく、この夏は毎晩のように肝試しにヤンキーやカップルが来ていた。もう説明するのも面倒なので、そういうやつらが来るたびにシーツかぶって霊のふりして追いかけまわしていた。ひどいときはロケット花火を打ち込んでくるヤンキーとかいたので、500メートルくらいは全力疾走で追いかけまわしてやった。完全に汗だくだ。

やはり夏のホラーとは涼しくなるなんて代物ではなくて、汗だくになるものなのだ。

 

うんこ5分前仮説

もしこの世界が5分前に作られたものだとしたら。

そんな思考実験を「世界五分前仮説」ということを知ったのはインターネットにそう書いてあったからだ。これは「この世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説で、どちらかといえば哲学の部類に入る。

そして、この仮説を完全に否定することは不可能とされている。つまり、本当にこの世界は5分前に作られたかもしれないのだ。5分前以上の記憶があるのだからそんなことはありえない、と否定したとしても、ただ単にそれは5分以上前の記憶を植え付けられた状態で世界が始まったに過ぎない、となり、仮説を否定することにはならない。

もっとわかりやすく言うと、5分以上前にオナラをした記憶があり、部屋内にはまだ臭気が立ち込めていたとしても、その記憶は植え付けられたものだし、臭気も誰かが準備したものなのだ。もしかしたら、残り香があるという感覚だけを植え付けられている可能性だってある。

これは記憶と過去の連続性、という話になるのだけど、ここではその話はしない。あらゆる過去を立証する手段が、5分前にそういう風に作られただけ、と説明されればそうであるとしか考えられないわけだ。今こうしている僕も、その周りも、すべてが5分前に作られた可能性を完全には否定できないということである。

こういった思考実験は、答えが出ることはほとんどない。むしろ、答えが出ないから好まれる傾向にあり、まあ、暇だということしか言えないのだけど、応用して発展させることで人生というものをより良いものにできる。

例えばこういった思考実験で最も有名といえる「シュレディンガーの猫」というものがある。これはまあ、ある条件で毒ガスが出る装置と猫が箱に入っている。ある条件を満たせば、毒ガスが出てネコは死ぬし、満たしていないなら生きている。結果は箱を開けるまで分からない。つまり、箱を開けるまでは猫は生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている、というやつだ。

これを応用すると、すごいウンコがしたい、かなり危機的状態だ。けれども、実際に箱を開けるまでには、ウンコを漏らした僕と、涼しい顔をした僕が重なり合った状態で存在する。例え、漏らしたとしても、観測者が観測するまでは、漏らしていない自分も重なり合っているのだ。これは漏らしてベチョベチョになっている僕としては随分と心強い。

モンティホール問題、という有名な確率論の思考実験もある。あるクイズ番組で、プレイヤーの目の前に3つの扉があり、それぞれ閉まっている。1つのドアの後ろには景品の新車があり、残り2つのドアの後ろには、はずれを意味するヤギがいる。プレーヤーが1つのドアを選択すると、司会者のモンティは、選択されなかったドアのうちヤギがいるドアを開けてみせる。これで新車がある可能性があるドアはプレイヤーが選んだドアか、モンティに開けられなかったほうのドアか。ということになる。ここで司会者からプレイヤーにドアを変えてもいい、と言われる。その場合、プレイヤーは変えたほうが新車が当たる確率が高くなるのか?という問題だ。

これは直感的には、変えようが変えまいが新車が当たる確率は同じ、と思うかもしれないが、細かい条件があるが、実は変えたほうが2倍当たる確率がある、という答えになっている。直感で感じる確率と実際の確率が違うというパラドックスの問題だ。これも現実世界に応用することができる。

今、おなかが痛くてトイレに駆け込んだところ、三つある個室ブースがすべて閉まっていたとする。プレイヤーは腹を抱えながら一つの個室の前で待機した。すると、予想通り、目の前の個室が開いたが、そこはどういう使い方をこうなるのかと目を疑いたくなるほど汚れていた。ちょっとここに腰掛けるレベルではない、なんかドワーとかなってる。前の奴は何をしてたんだという状況の場合だ。

ここで司会者のモンティが現れ、隣の個室のドアを無造作に開けたとする。そこにはウンコをしているサラリーマンがいて急に開けられたので激怒している。モンティはその怒りを全然気にしていない様子だ。結構図太い。この場合、このまま汚れた個室でウンコをするのか、それとも開けられていないもう一つの個室を開けるのか、という問題だ。

直感的には、汚れた個室でウンコをするのが正解のようにおもうかもしれないが、実はそうではない。もう一つの個室を開ける、が正解である。なぜなら、モンティが開けた個室で激怒しているサラリーマンの怒号を聞いて、もう一つの個室のサラリーマンもウンコを終わらせる準備をするはずだからである。結果、そこそこ綺麗な個室でウンコをすることができる。というわけだ。

このように、多くの思考実験は答えが出ることはないが、私生活に応用すればそれはそれは健やかな時間をすごすことができる。そこで冒頭の世界五分前仮説を思い出してみよう。ぶっちゃけるとこの世界が5分前に作られようが何億年前に作られようがどうでもいいのだけど、これを私生活に応用するとなかなか役立つ。

例えば、ウンコに行きたくて仕方がない。けれどもいけない。そんな状況を想像してみよう。重要な会議の席とか、厳粛な葬儀の途中とか、熱海浜松間の電車の中とか、そういうシチュエーションを想像するといい。ウンコに行きたい、でもいけない!どうしよう!

ここで5分前仮説の登場だ。このウンコは5分前に作られたものだ。もしそれより以前にウンコが存在したとしても、それはそういった記憶を植え付けられただけにすぎない。つまり、これはまでできて5分のひよっこうんこである可能性があるのだ。なんだか我慢できそうだ。

また、不幸にもウンコを漏らしてしまった場合でも、それは実際に漏らしていない可能性がある。つまり、もしその漏らした記憶が5分以上前のものであるならば、それはそういった記憶を植え付けられただけで、本質的には漏らしていない可能性があるのだ。なんだか明日も頑張って生きられそうな気がしてくる。

このようなことを悶々と考えながら、コンビニでウンコをしていたら鍵が壊れていたみたいで、知らないおっさんにバーンとドアを開けられた。これも5分前仮説で、恥ずかしいのは5分間だけで、5分経過すれば、それはただそのような出来事の記憶を植え付けらている。実際には開けられていない、と心を慰めることができるのだ。是非ともお勧めの生き方である。

そして、あの開けたオッサンはもしかしたら司会者のモンティかもしれない。

セミと秋ナスとイチローあとなんか長い話

職場の上司から届いたメールには、長々と業務の指示に関する記述が書かれていたのだけど、その文末に以下のような意味不明な文章が書かれていた。

「3つの果実があったとします。その果実はどれも甘くみずみずしい。あなたはそれを食べる日を楽しみに待っている。ただ、それをかわいそうな子供に分け与えるとします。子供は3つ全部でなくとも1つだけでも分けてもらえればそれだけで病気の母親が助かると言っています。あなたならどうしますか?」

なんか怪しい宗教なりマルチなりをはじめたと疑いたくなる文面だが、これ、実はいつもの上司特有の戦術で、言いにくいことを言わなければならない時にくっそ遠回しに言ってくるってやつだ。

問題の文面、解読するには少しコツが必要だ。主体をなすのは「3つの果実」だが、甘くみずみずしく誰もが楽しみにしている3つのもの、そう、今週末に控える三連休のことを指している。その三連休の一つを誰かに差し出せば、その誰かが助かると言っている。つまりこれは、申し訳ないんだが、三連休のうちのどこか一日を出勤してきてくれないか、という申し出だ。すげえ分かりにくい。

ただ、力関係を利用して強引に「三連休は出勤してくること」と突破してくる偉い人が多い中、申し訳なさそうに遠回しに言ってくるこの人には好感が持てる。だからいつも、この人の言いたいことを汲み取って、こちらから「三連休っすね。どこか一日出勤しましょうか?」か僕が言い出すまでが既定路線だ。

ただ、少しだけ邪な気持ちが僕の中に芽生えた。ダイレクトに出勤を命令された場合、ダイレクトに承諾するかダイレクトに断るかだ。ただ、このように曖昧に遠回しに言われた場合、遠回しに返答したらどうなるだろうか。その部分には大変興味がある。すぐに返事を書いた。

「3つの果実を一つ、困っている人にあげるという話ですが、その3つの果実いずれもが等価の果実であるとは思えません。リンゴは同じように見えてすべて違います。大きさも甘さも色も。それと同じでこれら3つの果実も同じでしょうか?だからまずこの3つの果実の違いを定義し、それらを吟味して、本当に上げた人のためになる果実を差し出すべきで、それができない現状では差し出すのは得策とは思えません」

例えば3連休と言ってもその3日の休み全てが同じ休みではありません。1日目はココロオドルでしょうし、二日目は少し疲れているかもしれません、三日目は連休明けのことを考えて少し気が重いかもしれませんね。それらを同じ果実に例えるのがおかしい、まずはそこから考えるべきでは?という提案です。つまり、断っているということです。

すると、遠回しな言い方が伝わらなかったと思ったのか、上司がさらに別の手段で攻めてきます。

「秋ナスは嫁に食わすな、という言葉をご存知ですか?あれは、昔、家の中で嫁の地位が低くて、秋ナスのような旬の美味いものを嫁なんぞに食わせてはいけない、もったいない、と姑あたりが言った言葉という説がありますが、別の意味もあります。ナスは体を冷やす効果があります。跡継ぎを生む嫁が美味いからとナスを食いすぎ、体を冷やしてしまってはいけない、と嫁を気遣う言葉であった説もあるのです。同じ言葉なのに蔑むか気遣うか、別の意味があるのが興味深いですね」

なるほど、そう来たか。これはつまり、3連休出て来いというのは、嫌がらせのように聞こえるかもしれないが、実は3連休出てきて職場を回すのは君しかいない、期待しているよ、という意味なんだよ。全く真逆の意味があるんだよ、という主張でしょう。つまり、やはり遠回しに三連休出てきてほしいという頼みに違いない。すぐに返事を書きます。

「秋ナスを嫁に食わせない、それは嫁を蔑んでいるのか、気遣っているのかという話ですが、もし気遣っているとしても「跡継ぎを生むから体を冷やしてはいけない」という姑の利己的部分が垣間見えます。むしろこちらのほうが悪質で、嫁を一人の人間と見ていない。単に跡継ぎを生むだけのマシーンのように考えているのではないか。気遣うように見せて自分のことしか考えていない。こちらのほうが随分と悪質ではないでしょうか」

期待しているから三連休出てきて、これは僕に対する期待とみると美談だが、単純に文句を言わなさそうなので期待している、だけに過ぎない。それは随分と利己的ではないか、そういった遠回しの断りです。

するとしばらく時間をおいて、また上司から来ました。

「イチローがメジャー通算三千本安打を達成しそうです。ここで連続マルチヒットでもして一気に達成してほしいところですね。ただなかなかスタメンに入れないところがもどかしいです。メジャーでは休養を重視する傾向にあります。他の選手が休養の時にスタメン入りし、結果を残したいところですね。彼が出塁すれば盛り上がります。かれが努力に勤める姿は他の選手にも良い影響をあたえる。あのような偉大な選手は他にはいないですよ。チームメイトにも頼られているイチロー。あのような人が部下になることを望むものです」

もちろん、ここまでの文章はこれだけを送ってきているわけではなく、他の業務上の指示の最後に書かれているのだけど、これはなかなか難解だ。これを三連休出勤してほしいと読み解くことは難しい。イチローなら連休でも出てきてくれるという主張ではない。イチローはたぶん連休は連休で休む。これはなかなか高度でかなり上級者でないと解読することは困難だろう。いちおう、わかりやすく色を付けるとこうなる。

「イチローがメジャー通算千本安打を達成しそうです。ここで続マルチヒットでもして一気に達成してほしいところですね。ただなかなかスタメンに入れないところがもどかしいです。メジャーでは養を重視する傾向にあります。他の選手が休養の時にスタメン入りし、結果を残したいところですね。彼が塁すれば盛り上がります。かれが努力にめる姿は他の選手にも良い影響をあたえる。あのような偉大な選手は他にはいないですよ。チームメイトにもられているイチロー。あのような人が部下になることを望ものです」

これにはこうやって答える。

「セミは何年も地面に潜っていて、地上に出たとき、自分が一週間の命だと知っているのでしょうか。断じて違うと思います。その一週間を意味深いものだと考えているでしょうか。ないと思います。ただ何も考えず飛び回り、何も知らずに一週間目に死ぬのです。そこに理由や哲学はない。セミはただセミなのです。僕らにも寿命はあります。ただ寿命や先の心配をしてわだかまりの中で生きていくのは悲しいことです。いま、地面から飛び出したと思って日々を生きていくのは難しいことです。ただ暑い中、ミンミンいってわかりあえば良いのです。少なくとも僕はそう思います」

色を付けるとこうなる。

「セミは何年も地面に潜っていて、地上に出たとき、自分が一週間の命だと知っているのでしょうか。じて違うと思います。その一週間を意味深いものだと考えているでしょうか。ないと思います。ただ何も考えず飛び回り、何も知らずに一週間目に死ぬのです。そこに理由や哲学はない。セミはただセミなのです。僕らにも寿命はあります。ただ寿命や先の心配をしてだかまりの中で生きていくのは悲しいことです。いま、地面から飛び出したと思って頑張ったすることは難しいことです。ただ暑い中、ミンミンいって生きていけば良いのです。少なくとも僕はそう思います

すぐに上司が返してきて

「セミはきっと知っていると思います。彼らがなぜあんなにも鳴くのか。それはまるで命の叫びのように感じられます。俺はここに存在していたんだ、確かにここにいるんだ。見てくれ、聞いてくれ、感じてくれ、そういうものではないでしょうか。同じように我々も生きた痕跡を残すべきなのです。どうやって生きたのか、どう過ごしたのか、その痕跡を、鳴き声を残すべきだとは思いませんか」

「おっしゃることは理解できます。セミの声が生きた証、。素敵な考え方だと思います。ただ我々が木にとまって大声で叫んでもパトカーを呼ばれるだけで、ちょっと説教されて帰されるくらいです。裁判記録も残らないでしょう。名は残らないのです。人間が生きた証を残すのは大変なことです。セミのように簡単にはいかないのです。だから人生は面白い。難しいほどゲームが面白いように」

これ、三連休の出勤要請と、それを断ってる会話ですからね。遠回しすぎてもう訳わからない。

「確かに、人間が生きた証を残すのは大変です。ただ一つだけ残す方法があります」

「なんでしょうか」

「誰かの記憶に残ること。それは生きた証ではないでしょうか。人はどれだけ他人に影響を与えたか、それが生きた証になるのではないかと考えます。つまり人に影響を与えるのです。」

「なるほど、どのようにして影響を与えるのでしょうか」

「真っ当に生きることです。奇抜なことをして人の記憶に残ったとしても、それはすぐに消えてしまいます。単にパフォーマンスでは、鮮烈に記憶されたとしてもすぐ消えてしまう。ただまじめに真っ当に生きる姿を見せる。そのほうが末永く人の記憶に残り、生きた証となるのです。だからセミは真っ当に地道に鳴き続けている。余生のすべてを使って」

「真っ当に生きる。それが一番難しい。簡単に言われても、それが難しいことはすぐに分かります。一体、どうすればいいのでしょうか。」

何度も言いますけど、三連休の出勤要請と、それを断ってる会話ですからね、ソクラテスと弟子の会話くらい意味不明になってる。いよいよ上司も業を煮やしたのか。

「三連休出勤してくれば真っ当に生きられます。私の記憶にも残ります」

「断ります」

元も子もないダイレクトできやがった。最初からそう言えよって思うのですけど、こちらもダイレクトに断ってやった。

物事を遠回しに言うスキル、これは大切なことのように思います。けれども、言いにくいことを遠回しに言うのは逃げであることがほとんどです。時にはダイレクトに逃げずに。でも、遠回しに言う気遣いも忘れずに。そういった難しさがあるのです。

さて、三連休の出勤を断りましたが、別に予定もないですけど、お金もありません。することがないので、誰か酒と飯を奢ってほしいと思うのですけど、ダイレクトに言うと厭らしいので、遠回しに、三つの果実は全て僕のものになったが調理ができない。調理器具もないし、調理方法も知らない。誰か器具を出してくれて一緒に味わってくれる人はいないか、そういって今日の日記を締めたいと思います。

カラカッサの屈辱

長い人生において人は幾多の危機に晒される。それが生命の危機だったり、社会的地位の危機だったり、自分の何らかの危機を脅かす状況に直面することがある。果たして僕らはその危機を乗り越えるだけの準備をしているかと言われれば、答えはNoである。なぜなら、僕らは危機が来ると分かっていながら、危機が来ないと心のどこかで考えているからだ。

街を歩いていていきなり刺されると思うか?家で野球中継を見ていていきなり隕石が直撃すると思うか?選挙に行って爺に殴られそうになるか?これらの危機が絶対に起こり得ないかと言えば違う。けれどもそれを想定し、準備をしている人はいないと言い切ることができる。

通り魔が出たら困るから、と鎖かたびら着て外出する女の子なんてくのいちくらいだろうし、隕石に備えて屋根を強化する人もいない、選挙にいくとき殴られる覚悟で行く人もいない。そう、全く準備をしない状況だ。

ただ、多くの危機は、それこそ準備どころか予想すらしていない時と場所で起こる。そういうものだ。

「コラー!この中にカラカッサってやついるだろ!殺してやる!」

ハート様みたいな体躯の良い男、ラッパーが好みそうなアウトロー的なファッションに身を包んだ巨漢の男が吠えた。そして僕の胸倉をつかむ。誰が、こんな恐ろし気な男に吠えられ、なおかつ「カラカッサ」などという意味不明な名前で呼ばれなければならないのか。確かに危機なのだけど、こんな危機、予想できるはずがない。

それは、地方の小さなパチンコ屋で起こった話だった。家が近所だったこともあり、僕はその小さなパチンコ屋に通い詰めていた。完全に人間のクズだ。頻繁に通っていると、だいたい店に来ているメンツは同じで、いわゆる「常連」みたいなものが形成されていることに気が付く。

異常に日焼けした真黒な男や、今にも死にそうな婆さん、ちんぽこみたいなキノコヘアーの若者、明らかに孫の体育のジャージを着てるとしか思えない爺さん、個性豊かな様々なメンツがオールスター軍団を形成していた。

普段、生活していたら絶対に会わないような、それこそ外を歩いていてもこんなのいないっていう濃厚なメンツに囲まれながらその店の常連と化していたんだけど、ある時、何気なく覗いたネット掲示板で衝撃的なものを見つけてしまった。

「○○店の話題について語るスレッド」

地域の話題を扱う掲示板が集まるサイトがあって、基本的にローカルな話題が中心で、○○って製作所の事務の雅子って女はヤリマンです!みたいな誰も得しない話題が大好物な僕はそれらの話題を探していたのだけど、そうしたら行きつけのパチンコ店について語る場所が出てきたのだ。

こんなマニアックな話題も扱ってるのか、ヤリマン情報だけじゃないんだと感嘆し、例えば、木曜日はどの台が出る傾向にあるとか、今日は出ない日だとか、そういったマル得情報が語られていると思い、そのスレッドを覗くと、衝撃的な話題が展開されていた。

「黒ブタ死なねえかな」

それは常連に対する悪口だった。異様に日焼けした男は、ちょっと小太りだったので「黒ブタ」と呼ばれていた。おそろしいのか面白いのかわからないが、基本的にニックネームで悪口が書かれている常連は、その名前からすぐに「あいつのことだ」と連想できるようになっていた。

死にそうな婆さんは「ご臨終」って名前で呼ばれていたし、ちんぽこみたいな頭した若者は「カントン包茎」って呼ばれていたし、孫のジャージを着ていた爺さんは「もう中学生」と呼ばれていた。それらの悪口が激しく展開されていて、

「今日も黒ブタ出してたな。あいつぜったい店のサクラだわ、死ねばいいのに」

「ご臨終はもう死んでたけどな」

「カントン包茎がおしぼりで顔拭いてて卑猥すぎて笑った」

「もう中学生のジャージ、ついに膝のところが破れる!」

こんな感じで展開されていたのだけど、その中でも「カラカッサ」と呼ばれる男が特に嫌われているようだった。

「カラカッサ死なねえかな」

「カラカッサって本気で臭いから店に来ないでほしい」

「タイムマシンがあるなら過去に戻ってカラカッサになるはずの精子をアルコール消毒したい」

と、ものすごい嫌われようで、なんだか不憫になってくるほどだったんです。でもね、他の常連はすぐに思い浮かぶのに、そのカラカッサなる人物だけは全然思い浮かばないんです。言いたくないですけど、ニックネームつけられて悪口書かれる常連って、まあ個性的で、そういう扱いされるのもなんとなく理解できるんですけど、カラカッサだけは本当に心当たりがない。本当にそんな嫌われるような奴いたっけと、注意しながら打っていたんです。

その日は、店に一台しか置いてない「梅松ダイナマイトウェーブ」って台を打ってたんですけど、周りを注意していてもそこまで嫌われそうな奴はいない。おまけにカラカッサっぽいやつもいない。本当にそんなやつ実在するのか、もしかしたら掲示板なんかでよくありがちな、実在しないんだけど、みんなノリで実在する風に書いてるネタなんじゃないか、そう思ったんです。

その日の夜、掲示板にアクセスします。

「今日、カラカッサ来てた?」

またカラカッサの話題。もうわかってる、これネタでそんな嫌われるようなやつ存在しないんだろ。

「きてたきてた、相変わらずキモかったわ、カラカッサ」

はいはい、そんなやつ存在しない。存在しない。

「今日は梅松ダイナマイトウェーブ打ってたわ。あいつ死ねばいいのに」

カラカッサは僕だった。

これは衝撃ですよ。店に一台しかない梅松ダイナマイトウェーブを僕が打ってたら、カラカッサが打ってたって書かれるんですから。完全に「僕=カラカッサ=クソ嫌われている」ですからね。

結構衝撃だったんですけど、まあ僕、嫌われるのそんなに珍しいことじゃないんでそれでも普通に店に通っていたんですけど、そうするとどんどん掲示板がエスカレートしていくんです。

「もう我慢の限界だ。誰かカラカッサを○せよ」

みたいな過激な感じになっていって、

「この間、帰りにカラカッサ見かけたから尾行したらコンビニでエロ本買ってて笑った。めっちゃウキウキでアパートに入っていった。俺、家知ってるで」

と僕のプライベートまで暴露されていったんです。ただ実害は特にないんで普通に店に通い、エロ本は尾行がついていないか確認してから買うようにしたんですけど、そうすると、今度は新たな脅威が店を襲ったのです。

突如来るようになったハート様みたいな体格の巨漢のアウトローが、傍若無人に振る舞うようになったのです。もうやりたい放題の暴れっぷりで、すぐに掲示板はそのハート様への悪口や苦情で溢れかえりました。

「ハート死ね」

「ハート逮捕されろ」

みたいな過激な言葉がいつものように飛び交っていたんですけど、いつもと違ったのは、そこにハート様が乱入してきたんです。

「なにここ、うけるんだけど?おまえらネットでしか悪口言えないの?文句あるなら店でかかって来いよ!」

完全に黒船来航ですよ。自分たちのテリトリーで悪口を言っていただけなのに、ご本人登場でみんな焦ったのです。さすがに物まねしていてご本人登場とは訳が違いますから、けっこうバツが悪い感じがしてみんな意気消沈していたんです。

ただ一人の男がそのハート様につっかかりました。

「テメーの行動でみんな迷惑してるんだろうが。お前が好きかってやるから俺たち常連が迷惑してんだよ。二度と来るなよ、デブ」

おお、勇気ある。そう思いましたね。それにはすぐにハート様も応戦します。

「はあ?なんでお前らみたいなネットで悪口言うしかないオタクに気を使わないといけないの?文句あるなら店で言えよ、いつでも相手したやるからよ!」

こういった議論は完全に平行線です。ネットで言い争っているところで、現実に出てきて言えよって論調で反論する人は多いですが、そもそもそういった考え方は決して交わることがありません。不毛な議論になることがほとんどですが、この場合は違いました。ハート様に果敢に挑みかかった男はさらに反論します。

「上等だよ!ってかテメーだってネットで反論してるだけってわかってるか?チキンじゃねえなら店で俺に反論してみろよ、俺を見つけだして反論してみろよ?できないか?この脂肪の塊が。脳まで脂肪でできてるんじゃねえか?」

もうハート様を煽る煽る。おまけに現実世界で勝負しようぜとハート様の誘いに乗っている。すげえ勇気あるなって思ったのですが、でもやはり匿名でやり取りしている掲示板です。ハート様がこの果敢な男を見つけ出す手段はない。

「ご立派だけどさー、俺はお前を見つけられないわけよ。見つからないと思って言ってるだけだろ、このチキンなオタクが。悔しかったらお前の特徴書いてみろよ」

ハート様の意見はごもっとも。でもね、こういう喧嘩みたいなやり取りって最高のエンターテイメントで、完全なる蚊帳の外からこれを眺めていると、もうハラハラドキドキしてすごい面白い。いいぞ、とか思いながら観戦していると、勇気ある常連が書き込みます。

「俺を見つけたいのか、だったら簡単だよ。その辺の常連に聞けばいい。カラカッサってどいつのことですかって?それが俺だ。簡単に見つかるよ」

ほう、この勇気ある男はカラカッサってやつなのか。勇気あるなーあのハート様と一戦交える気なのかーって思いつつ気づいたんです。カラカッサって僕じゃねえかと。もちろん、僕、そんな書き込みしていない。

これはね、ものすごい高度な嫌がらせですよ。ハート様をカラカッサのキャラで煽る。すると発奮したハート様がカラカッサに殴りかかる。あわよくば二大嫌われキャラを一掃できる大作戦です。とんでもないことですよ、これは。

次の日、パチンコ屋に行き朝の行列に並ぶと、予想通りハート様が発狂していました。

「コラー!この中にカラカッサってやついるだろ!殺してやる!」

この叫びに、何人かの常連は知らぬ顔をしていたのですが、カントン包茎の野郎が即座に僕を指さしました。そしてそのまま胸倉つかまれて、凄まれたというわけです。

「テメー次に掲示板に書きやがったら殺すからな」

とか脅されて、俺書いてないのにと思いつつもその日は殴られることはなく、梅松ダイナマイトウェーブを打って帰ったんですけど、僕とハート様のやり取りを列に並んでいた常連全員が聞いていたんでしょうね、掲示板にアクセスしたら全ての書き込みが投稿者カラカッサになってました。

「ハートに胸倉掴まれたけどすげえ口臭かった」

「脂肪の匂いしかしなかった」

「ハート様、鼻毛出てた」

「俺がカラカッサだって教えたカントン包茎しねよ。陰茎みたいな顔しやがって」

みたいな書き込みが、すべて身に覚えないのにカラカッサっていう名前で書かれているんです。まあ、最後のは僕が書きましたけど。

結局、次に店に行ったら確実にハート様に殺されるので、その店に行くことはなくなったのですが、まさか普通に店に通ているだけでカラカッサって名前つけられ、ヘイトを貯めて、よく知らない人に喧嘩まで売られる、なんて危機が訪れるとは思いもしません。

悲劇や不幸にあった多くの人が、その危機を予知していたでしょうか。おそらくほとんど予知していなかったと思います。それは裏を返せば、普通に生活している僕らにだって、予想だにしない不幸や危機が訪れるということです。たまたま掲示板を見て、その危機をある程度予想できた僕は幸運でした。できることなら、アンテナを張り巡らせてその危機を察知する。それが大切なのかもしれない、カラカッサはそう思うのです。

ちなみに、掲示板で知ったのですが、孫のジャージを着ていると思われていた爺さん「もう中学生」ですが、あれは孫のジャージではなく、盗んできたジャージだったみたいで、逮捕されたようです。書き込みによると、逮捕時は潔かったようで、彼は自分に訪れる危機をあらかじめ察知していたのでは、と書かれていました。

 

 

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宇多田ヌケル

名古屋の繁華街、新栄にある老舗のファッションヘルス、「宇多田ヌケル」が業界に与えた影響は凄まじいものだった。

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宇多田ヌケルの下の階に宇多田ヌケル2が入っていることからも、明らかに業績好調で増店されたことが伺える。このネーミングセンスはただただすごい。

まず、その響きが素晴らしい。宇多田ヌケル、である、すごい抜けそうな感じがするし、ちょっと脱力してしまって肩肘張らなくていい感じもする。おまけに、この店がオープンしたのは宇多田ヒカルのアルバムが驚異的売り上げを記録し、世間が宇多田ヒカル一色に染まった時期だったように思う。つまり、十分に世相を反映した店名なのだ。

風俗とは世相を反映した社会のバロメーターである。

これはまさにその通りなのだ。特に性風俗に関しては、とかく僕らの本能に訴えかける部分が多く、その表現はダイレクトであることが多い。つまり、こういった性風俗は「わかりやすさ」が何より大切なのだ。深いことを何も考えず、すっと心に入ってくる単純明快さが求められているのである。

例えば、風俗の説明に文学的な素養があったら、これはもうわかりにくい。よっしゃー風俗サイト調べるぞーとサイトにアクセスして、店の説明文が

「暗い沖の空に累々と重なる雲は、重たさと繊細さを併せていた。というのは、境界のない重たい雲の累積が、この上もなく軽やかな冷たい羽毛のような笹縁につづき、その中央にあるかなきかの仄青い空を囲んでいた、そんなお店です」

こんなん、読んだ客もよし、この店にしよう、とはならない。なんやこれ、となる。それよりもっと分かりやすく

「若い女!おっぱい!激安!大サービス!」

みたいにダイレクトにいってくれたほうが心にすっと響きやすい。とにかく分かりやすさ、ダイレクトワードが必要なのだ。そういった意味では、この「宇多田ヌケル」は考えた人が墓に入ったとしても、墓石に彫り込んでいいほどの功績である。分かりやすい店名、それが大切なのだ。その店名に対してこんなエピソードがある。

僕が大学生だったころ、なんていうか、リアルが充実しているっぽい人たちが集まるサークルに所属していたことがあった。男女入り乱れて海に行ったり山に行ったりバーベキューに行ったり、毎週末飲み会だったり、そういったザ大学生みたいな集まりに、ザ・場違いみたいな僕が所属していたのだ。

僕はもしかしたらセックス的なことができるかも?と期待して入ったのだけど、もちろん、みんなで海に行くとかも人数合わせでしか誘われなかったし、飲み会とか連絡すらこなかった。サークル内でいろいろと男女交際が巻き起こっているのに、完全無欠の蚊帳の外、なんで所属しているのかわからない状態だった。

しかし、そんな男女仲の良いサークルにも不穏な空気が流れ始めていた。早い話、こういった男女の集まりは時間の問題であらゆることが飽和に達する。誰と誰が付き合っていただとか、誰と誰が一夜の過ちを、そんな噂に尾ひれがついて、さらにそれに嫉妬する人がいて、ものすごい欲望がとりまく。それが表面上だけでも取り繕えているのならば良いのだけど、そんなのは時間の問題で、小さな綻びが大きな騒動に発展することもある。そうなると、男女間の人間関係だけに、相当に根が深い。

そのサークルも、完全に人間関係が飽和に達していた。もうきっかけがないだけで、それさえあれば完全に瓦解するであろう状態だった。過冷却状態にある水に衝撃を与えると一気に凍りだす現象に近いことが起こるだろうことが予想された。

そのきっかけは学園祭だった。来るべき学園祭でサークルでも何か店を出そうという話が持ち上がったが、男子グループはフランクフルト屋をやろうと言い出した。それに女子グループがおしゃれなカフェをやりたい、みたいに反発した。普段なら男子グループが折れて女子に合わせていたのだけど、その時だけは男子が譲らなかった。

「絶対にフランクフルト屋をやる。もうフランクフルトも発注した」

何が彼をそこまでフランクフルトに駆り立てるのか。それは分からなかったがその熱意は相当なものだった。この圧倒的な熱量に女子グループも折れ、フランクフルトの軍門に下ると思われた。所詮、女はフランクフルトを受け入れるのである。そう思っていたが、この時の女子は違った。

「絶対にフランクフルトは売らない。私たちはカフェをやる」

それは魂の慟哭に近かった。飽和した人間関係は男女を決別させた。こうして僕らのサークルは男女分かれて店を出すことになったのだけど、なぜか僕は男子で一人だけ女子のカフェチームに所属することになった。フランクフルトは売らなかったのだ。

「あいつらのこと頼むな!心配だからさ」

リーダー格の男子が女子のことを心配して僕に言う。なんていうか、喧嘩はしてるけどどうしても女子のことが心配になっちゃう懐の深い俺、みたいなアピールがすごくて、てめーのフランクフルト焼いてろって思った。

さて、女子が集まってカフェを出店ということになり、10人くらいの女子の中に一人だけ僕のような野武士が混じるという状態になった。気分は風俗店の用心棒だ。

いよいよ話し合いが始まるのだけど、設備や電力の関係から、カフェといってもそこまで大したものが出せるわけではない、ということが分かった。買ってきたジュースや、インスタントのコーヒー、ちょっとしたクッキーなどを出すくらいになりそうなのだけど、そこで中心的存在の女子が言い出した。

「お店の名前はどうしようか?」

店の名前に関する提案だ。普通ならサークルの名前を付けるのが妥当だが、フランクフルト屋のほうで使うっぽかったし、それだけは絶対に嫌だと彼女たちは言った。そこでなにかオシャレっぽいかわいい名前を付けよう、ということになった。

そこで僕は、よくわからない名前を付けるより分かりやすい名前のほうがいい、そう提案した。学園祭だけの一発勝負の出店だ、分かりにくい名前を付けることはそれだけ損になってしまう。徐々に認知度を高めていくということは全く期待できないので、絶対に分かりやすい名前がいい。

「女だらけのカフェ」

という名前にすべきだ。そう主張した。全員女で運営するカフェ、その特性を前面に押し出すべきである。そうすればそれを期待した男どもで賑わうはずだ。学園祭のカフェにコーヒーの味を求めて来店する奴はいない。絶対に女店員とかを目当てに来店するはずだ。それならば、ここは女ばかりですよーとアピールする店名が絶対に良い。

「何言ってんの、そんなダサい名前は嫌だ。それってフランクフルト売るよりダサい」

僕の主張は女子からの熱烈的な拒否にあった。

「やっぱりオシャレな名前にしよう」

「そうねオシャレな名前がいい」

それでは、絶対にダメだ。どうせお前らはフランス語とかオシャレな奴つけるんだろう。「エマーブルにしよう」「プチって表現は入れたくない?」まるで農地を開拓して建てた学生マンションにつけそうな名前がポンポン出てくる。

「絶対に分かりやすい名前がいいって。そんなんじゃマンションだと思われる。カフェだとわかる名前がいい」

再度僕が主張するが、聞き入れられない。それでもオシャレな名前の中でも意見が一致しないらしく、なかなか白熱した議論が展開されていた。

「そういえば、ヨシミの家って犬飼ってたよね、あのかわいい犬、名前なんだっけ?その名前にしようよ」

意見を戦わせることに疲れたのか、誰かがそう提案した。なるほど、ペットの名前から取るというのか。どうせオシャレでカワイイ名前をつけてるだろうから、その名前を頂こうという算段だ。

「アナスタシアって名前だよ」

なるほど、ヨーロッパでよく使われる女性名だ。なかなかオシャレだ。

「いいね、アナスタシア、もしくはアナって名前でよくない?」

だめだ、それじゃあなんの店なのかわからない。それでは集客は見込めない。

「でも、ミツキの家にもカワイイ犬がいるよ」

ヨシミの犬の名前を使うならミツキの犬の名前も使わなければ不公平ではないか。そんな提案がなされた。

「名前なんて言うの?」

「ルナって名前だよ」

「その名前もかわいい」

ローマ神話における月の女神、もしくは広島東洋カープに所属する ドミニカ共和国出身のプロ野球選手(内野手)である。いい名前だ。

完全に意見が真っ二つにわかれた。アナスタシア派かルナ派か。名前が全く決まらず、またここでも分裂を見せるのかと思われたそのとき、一人の女子が提案した。

「ねえ、アナスタシアとルナ、混ぜた名前にしない?アナとルナでアナルとか

それはアカンだろ。

「いいね、ルナを逆さにするところオシャレ」

「なんかね、店名とかって三文字がいいってゼミの教授も言ってたよ」

「じゃあ決まりじゃん、アナルに決まり」

本気で言ってるのだろうか、なんだか怖くなった。チャラチャラしたサークルに所属している女子たちである。サークル内で付き合ったり別れたりしている、絶対に、今日はこっちの穴でしよう、とか言われてるはずだ。それなのにアナルを知らないなんてありえない。カマトトぶってんだろ、そうだろ。気づいてるんだけど言い出せないんだろ。

「むっちゃかわいいー、アナルに決まり!」

知らない、らしい。こうして女子だけのカフェ、アナルがオープンすることとなった。オシャレな店名が書かれた筆記体の看板を僕が製作したのだけど、フランス語っぽく書かれているのに、そこに書かれているのはアナルだ。ちなみにアナルとは本来の使い方としては形容詞だ。

いよいよ学園祭が始まり、女子たちのアナルは大盛況だった。分かりにくいか分かりやすいで言ったら分かりにくい店名であったが、多くの人の興味をそそったのだ。ただ、閉店後に誰かに真の意味を聞いたのか、女子たちは泣いていた。

店名とは大切なものである。分かりやすい店名、興味をそそる店名、これらは時に内容以上に大切な場合がある。今の時代は、じつは名前を付ける機会が多くなっている。情報発信の機会が多くなったのか、ブログやハンドルネームなど、自分のセンスで付ける名前を付ける機会が多い。ブログに「多目的トイレ」なんて意味不明な名前を付けている僕が言えた義理ではないが、分かりやすい名前を付ける、それも大切なのかもしれない。

ただ一つ言えること、それは何も知らずに「いらっしゃいませ、アナルにようこそ」
と言わされている女子大生、これはもう結構抜ける、もう、ただただヌケル。完全に宇多田ヌケル、ということなのだ。

 

何度目の青空か

(本日は作者取材のため休載です。リライトでお楽しみください。)

 

JR中野駅から西へと続く中央線の真っ直ぐさは、時に愚直で時に効率的でまるで人の生きる道のようだと感じる。そう、これはまさに人生なのだ。

車内では多くの人が思い思いに過ごしている。スマホに向かい遠くの誰かと繋がる人、談笑し近くの誰かと繋がる人、束の間の睡眠と繋がる人。車窓の景色に思いを馳せる人もいるかもしれない。けれども、この中央線の真っ直ぐさに思い至る人はほとんどいない。

地図上で確認してみても、やはり中野から立川までの区間は驚く程の直線だ。普通、鉄道路線といえば地形的問題が絡み、さらには地域住民の思惑も絡み、ありえない蛇行をしたり非効率的なルート設定になっていたりする。狭い日本、それも大都会東京となればなおさらだろう。けれども、そんな思惑を超えて、定規で線を引いて「ここ走ろう」となったかのような雰囲気を携えている。それが中央線だ。もはや堅物のような人格すら感じてしまう。

僕は中央線が大好きだ。無骨な車両が好きだし、融通の効かなさやすぐ遅延するとことろが愛おしくてたまらない。このあまりに真っ直ぐなルートも、効率的と見るのではなく、不器用ゆえの真っ直ぐさ、と捉えてしまうほど愛してしまっている。

そんな中央線に揺られていると、どこからともなく会話が聞こえてきた。ラッシュ時間も随分と過ぎ去り、西へと真っ直ぐ走り続ける中央線の車内は人もまばらだ。少し耳を凝らせば会話が聞こえてしまう。

「でさ、言われたわけよ、私ほどのラーメンオタクはいないって、可愛い顔してえげつないほどのラーメンオタクって言われちゃった。失礼しちゃうわー」

電車の揺れる音、車内の喧騒の中でそのセリフだけがハッキリと聞こえた。内容自体は大したことがない。女性の声でいかに自分がラーメンオタクであるか主張する内容だ。「嫌になっちゃうわー」というセリフだが、その語気は誇らしげでもあった。ラーメンオタクであるというステータスと、可愛い顔をしているというステータス、この二つを前面に押し出しているかなり上級者な香りがした。

はてさて、そこまで言う「可愛い顔してえげつないほどのラーメンオタク」可愛い顔とラーメンオタクが両立しないメソッドも気になりますが、それ以上にそこまで言う可愛さとはとはどんなもんですかな、おそらく車内にいた全員がそう思ったに違いない。僕も当然のことながら気になって仕方がなく、チラッと声がした方に視線をやった。

そしたらアンタ、国で言うとベラルーシみたいなブスが優先席の中央に鎮座しておられるじゃないですか。いやいや、ベラルーシって東ヨーロッパに位置する国で、かなり美人が多いんですけど、そういうことじゃなくて、ベラルーシの国土みたいな、地図で見たベラルーシみたいな顔の形したブスが「わたし可愛い顔してラーメンオタク」みたいなこと言ってるんですわ。

さすがにこれは温厚で知られる僕もちょっと納得がいかないというか、理解できないというか、っていうかどんなプレゼンの達人がやってきてプレゼンしてくれたとしても理解を得られないと思うんですけど、さらにベラルーシが続けるんですよ。

「あ、吉祥寺にもうすぐつくね。私さもっとオシャレすれば可愛くなるのにって言われるんだけど、吉祥寺とか渋谷でも服屋よりラーメン屋が気になっちゃうんだよねー」

とか、首都ミンスクあたりになりそうな場所をヒクヒクさせながらいうてるんですわ。もう完全に「かわいい女の子なのにオシャレとかに興味なくてラーメンに夢中なワタシ」ってのに酔いしれてる感じなんですけど、早い話、僕が怒れる神々だったら、ベラルーシに幾度も裁きのイカヅチを落としてるってくらい、彼女の主張がうざったかったんです。

人は他人にそこまで興味がない。つまり、いくら熱く何かに夢中であるかを語られたとしても、それで心が動くことなんてほとんどないんです。他人が何に夢中になってようが別に自分には何の関係もないんです。だからそれを聞かされる、それもかなり熱く語られるなんてできることなら避けたいことなのです。

そういった事情もあるし、彼女の場合はさらに明らかに言って欲しいわけじゃないですか。そんなカワイイ顔してラーメン好きなんて変わってるねって言って貰いたいわけじゃないですか。ホント、ラーメンをなんだと思ってるんですか。ラーメンを食べて替玉を頼むか、いや、それなら最初から大盛りにすべきでは、ってか半チャーハンいくか、いやそれいったら1000円超えるだろ、なんて戦略を立てている俺たちオッサンのこと舐めてるんですか。

ですから、そういう気持ちが透けて見えちゃうわけですからあ、不愉快とまではいかなくても、あーあ、みたいになんともやるせない気持ちになるのです。

そもそも、自分が何かの大ファンである、夢中であると声を大にして主張する心理とはどのようななものなのでしょうか。

純粋に大好きで大好きでたまらなくてなるべく多くの人に知ってもらいたい、広めたいという真っ直ぐな想いもあるでしょう。こういった単純な思いってのは賞賛されるべきですし、もっと声を大にして良い物は良いと広めて欲しい、そう思うのです。

けれどもね、やはり多くの場合が件の彼女のように、その裏に何らかの別の思惑が透けているんですよ。それ自体は別に悪いことでも何でもなく、極めて当たり前なことなんですけど、それを純粋な気持ちと混同すると、その歪が大きな悲劇を巻き起こすケースもあるのです。今日はちょっとそんな事件について語ってみましょう。

あれは今から数年前のこと、我が職場ではベテランと新人が組んで泊りがけでオリエンテーション的なことをして互いに研鑽するっていう、一体誰が得するのか理解できないゴミみたいな行事があるんです。僕が新人の頃にこれに参加したら、一言も喋らないオッサンがパートナーで、互いに研鑽どころか日々険悪になっていくという悪循環、解散前のお笑いコンビみたいな気分を毎日味わえる研修になってたんです。

そして、このクソ行事に今度は新人としてではなく、先輩サイドとして参加することになったんですが、そこで組まされた新人を見てビックリ、ゆとり世代が具現化したみたいな完全無欠の若者代表って感じの男だったのです。

研修場所へと向かう移動の車内、何故か妙に気を使って僕が新人に話しかけます。

「どうかな、仕事には慣れた?」

「まあまあっすね」

どっちだよ、と思いつつも無難に会話をこなしていきます。けれどもやっぱ全然打ち解けてないですから、間隙的に訪れる沈黙がなんとも重くて痛々しいんです。さすがに新人類といえどもそういった沈黙を重苦しく感じたのか、新人の方から話しかけてきます。

「patoさんはエグザイルとか好きっすか」

なるほど、彼はエグザイルが好きなのか。そうやってみると彼も意識しているのか、エグザイルのサングラスの破片から生まれてきたみたいな出で立ちをしている。それにしてもどうして突然こんなことを言い出すのだろうか。

この質問から察するに、彼はエグザイルのことが好きなのだろう。いや、話題のトップにもってくるくらいなのだからそれは心酔というレベルなのかもしれない。尊敬しているのかもしれない。では、なぜそれを今、こうやって口にし、僕に投げつけるのだろうか。

ここで僕が俺もエグザイル好きだよ、とか言って、まじっすか、オーイエス、パシン、ブラザー!となるとでも思っているのだろうか。残念ながら僕はそこまでエグザイルというものを知らないし、語るほどの土壌も持ち合わせていない。というか、たとえ好きだったとしても完全に意気投合してハイタッチまでは絶対にいかない。

ではなぜ彼はエグザイルを口にしたのか。これは彼なりの宣言ととるべきだろう。そもそもここでのカミングアウトは話題の共有という意味合いはありえないし、前述したような沈黙に耐えかねたわけでもない。ついつい夢中なものについて語り始めていしまうほど無邪気とも思えない。生じ得る可能性を潰していくと、もうこれは宣言だとしか考えられないのだ。

俺はエグザイルとか好きな感じのアウトローだ、みるとアンタオタクっぽいよな、俺とは住む世界が違うジャン。だから仲良くなろうとか考えて立ち入ってこないでくれる?チェケラ!

こういうことかもしれない。なるほど、それなら全ての辻褄があう。そう、これは彼からの決別宣言なのだ。仲良くはなれない、そういう宣言なのだ。よくよく見るとお互いにファッションも全然違っていて、研修に向かうカジュアルファッションと言えども彼はほのかにアウトローの香りを漂わせている。ZIPPOライターとか似合いそうだ。反面、僕は頭の先からつま先まで全身ユニクロで、これがマックスのオシャレっていうんだから、そりゃあプラダを着た悪魔ならぬユニクロを着た悪魔の異名も伊達ではない。

やはりここは僕もアイドルが好きだとカミングアウトし、住む世界が完全に違う、俺も仲良くするつもりはないってことを宣言してようと思ったけれども、やめておいた。そういった裏の意図にアイドルを利用したくなかったからだ。僕にとってアイドルとは心の芯の一番柔らかい部分を包み込む哲学で、おいそれと人に話したくはないからだ。ましてや裏の意図を持って伝えるなんてアイドルに対して申し訳なくてできなかった。まるでアイドルを利用しているようで、例え命を奪われたとしてもそんなことはできない、そう思ったのだ。

人は何かを好きだと宣言するとき、純粋で真っ直ぐな気持ちだけでそれを宣言していることは極めて稀だ。やはり何か裏の意図が介在することが多い。だからこそ、僕は気軽にアイドル好きをカミングアウトすることができなかった。アイドルに失礼だから。

僕は押し黙った。それが僕なりの決別宣言だった。彼も理解したのか、以後は会話することなく重苦しい沈黙だけが二人を包んでいた。

研修場所に到着すると、どうやら僕たちが最後だったらしく、宿泊するホテルのロビーでは既に何組かの先輩社員と新人社員のペアが仲睦まじく談笑している姿が見られた。なるほど、ここに至るまでにかなり親密度が上がっているようだ。その勢いで研修も協力してクリアして、己の評価を高めようという計算なのだろう。

「俺まじで武井咲に似てるって言われるんっすよ」

「なるほど、確かに女みたいな顔してるもんな」

「あんま嬉しくないんですよね、笑った顔がそっくりとか言われても」

横のソファで談笑していたペアの声が聞こええてくる。内容自体はクソどうでもいいんだけど、先輩も後輩も軽口を叩きあってかなり楽しそうだ。その光景を見て、僕は新人としてこの研修に参加していた時のことを思い出していた。

僕が当たった先輩は前述のとおり一言も喋らないオッサンで、もう何が何やら分からずパニックになってしまい、仕事を辞めたい気持ちがマックスになったものだった。それと同時に決意した。僕が先輩となった時は後輩にそんな思いをさせてはいけない。むちゃくちゃ打ち解けて安心させてやるんだ。こんな先輩になりたいって思うくらい楽しい研修にしてやるんだ、そう誓ったのだった。

それが今やどうだ。自分の置かれた状況に胸がキュッと締め付けられる思いがした。僕はまさか、あの時の無口なおっさん先輩と同じことをしているのか。なんだかすごく胸が苦しかった。

いよいよ研修が始まった。研修内容は極めてシンプルで、配布された地図に記されたチェックポイントを巡っていき最終的な目的地を目指すというものだった。こう言ってしまうと凄まじく簡単そうに聞こえるけど、実際にはむちゃくちゃ山岳地帯だし、道になっていない場所もあるし、地図上に示されたチェクポイント蓮コラってくらいに無数にあるし、ざっと見ただけでも3つくらいの峠を超えなきゃいけない感じでかなり難易度が高そう。

「お互いのペアで協力してクリアしてくださいねー」

小学生みたいに半ズボンはいた怪しげなインストラクターのオッサンが右手を挙げながら声を張る。気の巡りが悪いとか言って怪しいネックレスを売りつけてそうなオッサンにそう言われても素直に聞き入れる気がしない。それよりなにより、我がペアの場合、どんな山越えよりどんなチェックポイントより「ペアで協力して」の部分が困難だ。

ほかのペアは「よーし協力するぞー」「足引っ張るなよ」「先輩こそ」「ゴールしたらビールだ」とかやってんですけど、こっちのペアは完全無言。後輩なんてずっとスマホをポチポチしてますからね。きっとツイッターか何かで「研修だるー、なんかキモイやつとペアだしよー、早く帰りたいナウ」とかやってるに違いありません。それに返信がついて「キモイ先輩うp」とかなってるかもしれません。隠し撮りされた画像がアップされ、「うわキモ」「こんなのとペアとか私なら無理」「古いお札とか集めてそう」みたいに好き放題言われて、ラッパーみたいなフォロワーが大いに盛り上がって知らぬ間に僕をdisる曲が発表され、知らないうちにアンサーソングを作る羽目になるかもしれません。

とにかく、そんな不安しかない研修なのですが、始まってみるとやはり難易度が高く、富士の樹海に迷い込んだみたいな状態になっちゃいましてね、チェックポイントを探すんですけど全然わからないんですよ。おまけに僕らペアは相談どころか会話すらありませんから、黙々と無言で同じ場所をグルグルとしててですね、傍目にはコミュニケーション不全のヘンゼルとグレーテルですよ。

何回も同じチェックポイントに現れるもんですから「第四チェックポイントのデジャブ」って呼ばれたりしてですね、全く攻略できないまま初日の研修は終わったのです。

もちろん難易度の高いコースですから、初日に攻略できたペアはいなかったんですが、どのペアもそれなりの手応えを掴んだ様子。和気藹々と明日はこうやって攻略するぞーみたなことを相談してるところで、僕らペアだけ完全無言。とんでもない疎外感を感じちゃいましてね、パズドラで自分だけ曲芸師を持ってない、みたいな全然勝負にならない感じになってたんです。

「苦しい時こそペア内で楽しみを見つけましょう。例えば特徴的な地形に名前をつけたりして楽しむんです。それが自然との楽しみ方ですよ。さあみんな明日もがんばりましょう」

詐欺師みたいなインストラクターが言います。なんだよ、地形に名前つけるって安いシャブでもやってんのか、と思いつつ、研修初日の夜は更けていったのでした。

研修二日目。この日はあいにくの雨でした。気温もぐっと下がり、足元もぬかるんでいて難易度がさらに高まっています。支給されたカッパを身に纏い、昨日と同じように研修がスタートします。

相変わらず無言の僕たちですが、僕はジッと地図を眺めながら何度も第四チェックポイントに行ってしまう「第四チェックポイントのデジャブ」現象の対策を考えていました。普通に考えて、コースの途中にあるかなり険しい峠がネックになっていて、ここでコースを見失ってしまって何度も同じところをグルグル回る羽目になってしまう。つまり、この最も険しい峠の攻略がポイントになる。そんな結論でした。

けれども、僕らは協力も相談もしない無言のヘンゼルとグレーテル、いくらそこを理解していようとも共通認識として理解していない限り同じことの繰り返し。そう落胆した時のことでした。

「思うんすけど、この険しい峠が一番問題だと思うんですよね」

後輩からの突然の申し出。こころがざわついた。雨音に混じって山鳥の声も聞こえていた。

「お、おう」

僕がそう返事すると、後輩は地図を片手にこちらに歩み寄ってきた。

「ここの一番険しい峠が道を見失う原因になっていて......」

その見解は僕のものと同じだった。さらに後輩は続ける。

「あ、そうだ、ここの一番険しい峠のこと、絶頂峠って呼びましょう。なんか絶頂ぽい形だし」

これには頭をカチ割られる思いがした。この峠の地図を見て絶頂を連想する感性はともかく、彼は文字通り歩み寄ってきたのだ。それは話しかけてくるという歩み寄りや、協力しようという歩み寄りを超越し、あの詐欺師みたいなインストラクターの教えを守り、地形に名前をつけて楽しもうという姿勢を見せてきた。

「そうね、絶頂ね」

けれども、やはり僕は突然のことに驚き戸惑い、訳のわからない返答をしていた。それは頑なな心なのかも知れないし、先輩としてのプライドだったかもしれない、なにより彼の方から歩み寄らせてしまったことを大いに悔いた感情だったのかもしれない。僕はあの日、僕が新人だった時にあてがわれたあの先輩と同じだったんじゃないか。そう思えてよくわからない混沌とした感情が心の中を支配しし、一日中よく分からない返答に終始していた。耳に響く雨音が心に痛かった。

僕らはついに歩み寄りをみせた。それでもやはり絶頂峠は攻略できず、僕らはまた第四チェックポイントのデジャブとなり、研修二日目を終えた。

「明日は最終日です!みんな頑張って!」

インストラクターは喋り方から仕草が完全におネエ系になっていた。さすがに二日目ともなると何組かはクリアするペアが出てきて、焦りみたいな感情が沸き上がってくる。それよりなにより、自分の行動を恥じていた。

確かに、彼は決別宣言ともとれる「エグザイル好き」宣言をしてきた。人が何かを好きと宣言するとき、そこには裏の意図が介在する。それが決別宣言だったのだ。それを汲み取った僕は彼に対しそれなりの対応をした。けれども、それはさすがにあまりに大人げなかったのではないだろうか。今日の歩み寄りをみるに本当に彼は純粋にエグザイルが好きで、チューチュートレインの話とかヒロの話で盛り上がりたかっただけなのかもしれない。

そうやって心の扉を開いてくれた彼を無下に扱った自分を恥じたし、僕も彼のように何の裏の意図も持たせずにアイドル好きと宣言するべきだった。今の僕にはそれをする自信はないけど、もっと距離を縮めるべきだった。どうして、あれほど喋ってくれない先輩が嫌だったのに。自分が先輩になったら後輩と楽しく研修しようって誓ったはずなのに。月日の変化と立場の変化はこんなにも人の心を風化させるのかと悔やんだ。

「明日こそは彼と協力してゴールを目指そう」

これまでの行動を恥じることなんて、後悔することなんて誰にでもできることだ。問題はそこからどうするかだ。過去はもう誰かのものだ。けれども未来は誰のものでもない。後悔し自分を恥じる。そこからどう行動するかだ。過ちは失敗をすることではない。失敗を理解してなおも改めないことこそ過ちなのだ。もう僕は過ちを犯さない。

まずは彼と小粋な話でもして打ち解ける。さすれば何の打算もなく純粋な気持ちでアイドルの話だってできるだろう。そして協力してあの絶頂峠を攻めて攻略することだってできる。そう決意し、雨に濡れた体を温めようと大浴場へと向かった。

このホテルの大浴場は比較的大きくて開放的だ。やはりみんな雨で濡れた体を温めようと大浴場に押し寄せていて脱衣所はかなり混み合っていた。その隅っこで申し訳ない感じで服を脱ぎ、浴場へと向かう。ドアを開けるとムワっと温泉特有の湯気が僕の視界を奪った。

かなり湯気が立ち上がっていてほとんど見えないのだけど、湯気の向こうには風呂桶がカポーンとしている音などがしていてかなり賑やかで、それだけで混み合っていることが伺えた。手探り状態で洗い場方面を目指すと、湯気の中から人影が現れた。

後輩だ!

どうやら後輩はもう全てを済ませて脱衣所へと向かうようだった。これまでの僕だったら無視してすれ違っていただろう。けれどももう僕は違う。僕と後輩は打ち解けるのだ。今日は後輩の方から歩み寄ってくれた、ならば今度はこっちから先輩としての度量を見せる番じゃないのか。僕は決意した。

そして、すれ違うや否や、後輩のお尻をペローンと触った。ちょっと軽いおふざけみたいな感じで、イタズラ的な感じで軽くお尻を触った。完全にセクハラなんですけど、まあいいかなって感じでジョークっぽくやってみた。

驚いてこちらを見る後輩、湯気で表情は見えないけど、冷たいと思っていた先輩の粋なイタズラに目を丸くしているに違いない。ここでトドメのセリフだ。

「明日は絶頂を攻めるぞ!」

決まった。そう思ったね。完全に打ち解けたし、協力して絶頂峠を攻略する意思も示せた。後輩は今日の僕の反応と同じなのが、急激な歩み寄りに動揺したのかそそくさと脱衣所に行ってしまった。うんうん、その気持ちわかるぜ。でももう大丈夫。明日には二人とも打ち解けているさ。

そして夜が明け、いよいよ研修最終日が始まる。

まだスタート時間には30分ほどあるが、ロビーに集合して待っていると後輩がやってきた。しめしめ、昨日のいたずらについて何か言われるだろうか。昨日はびっくりしましたよーとか言うだろうか。そこから急速に仲良くなってアイドルの話とかしてやろう。そう考えていた。

「おはようございます」

けれども、後輩の様子がおかしい。いや、昨日からあまり変化がないのだけど、変化がないことがおかしい。昨日あれだけ勇気を出して生尻を触るという歩み寄りを見せたのだ。そんな砕けた感じで急接近したのだからそれなりに二人の関係が変化していなければならないはずだ。けれども、あまりに変化が無さ過ぎる。まるで昨日のことが存在しなかったかのようだ。パラレルワールド?一瞬そう思った。

例えるならば給湯室でキスしてきた先輩社員がいてドキドキしている佐和子なんだけど、次の日、赤坂さんは至って普通でまるであのキスなんてなかったみたいで、ずるいよ、こんなにドキドキさせておいて、ずるいよ、って、全然どうでもいい例えでしたね。けれどもとにかく不可解なんです。俺、昨日お前の尻触ったけど何かないわけ?って質問するわけにもいかないし、どうしたもんかと思慮していると、隣のペアの会話が漏れ聞こえてきたんです。

「先輩、昨日よく知らない人に風呂場で尻触られたんですけど」

「まじでそれやばくない?」

え?って耳を疑いましたね。驚いて声のした方を見ると、後輩に背格好が似た男が必死に先輩社員にどんな感じで尻を鷲掴みにされたか説明してるんですわ。

「で、驚いて顔見たらにたーって笑ってて、完全に鳥肌もんですよ」

「やべえな」

うわー、僕、間違ってあいつの尻を触ってるわ。そりゃ大浴場でよく知らないオッサンに尻を鷲掴みにされて二ターって笑われたなんて恐怖以外の何物でもないですよ。

「でね、二ターと笑ったあとに言うんですよ」

「ふんふん、なんて?」

「明日は絶頂を攻めるぞって」

「うわー、なんだよそれー。危ない奴だなー。気を付けないとヤバいな」

セリフがまずい。絶頂峠を攻めるつもりで言ってるのに、なんか二人で性の奥義を極めようみたいな提案になってる。ヤバい、マズい、間違いない。

そんな感じで聞き耳をたてていると、なんかその尻触られたやつも、なんか隣で聞いている奴、二ターって笑ってた尻触り犯人に似てない?みたいに気づいたらしく先輩とコソコソと相談し始めたんですよ。「あの隣にいるキモい男が触ったやつっぽいです」「あいつ知ってるけど、部署の栗拾いツアーに誘われないような奴だよ」「やばいっすね」みたいな会話をしているに違いありません。

これはまずい。このままでは大変な誤解を受けてしまう。なんとかしてそういう趣味もないし、人違いで触ってしまったってことを伝えなくてはなりません。しかし直接伝えたとしてどうやって尻を触った理由を納得してもらえるでしょうか。スキンシップで、人違いでと言ったところで泥沼なような気がします。ほんの数秒の刹那、僕の頭はフル回転しました。

そうだ、アイドル好きであることをアピールしよう。とにかく熱くアイドル好きであることを語れば、今は怪しんでる彼らも、あんなにアイドル好きなら男の尻を触ったりはしないだろう、もっと辻斬りみたいな奴が触ったに違いない、そう納得してくれるはずです。

「いやさ、俺ってむちゃくちゃアイドル好きでさ」

目の前の後輩に向かって大きな声で喋ります。隣のペアに聞こえるよう、とにかく大きな声で語りかけます。尻を触ったのは僕じゃない、そんな魂の慟哭でした。

「それで今やっぱり好きなアイドルは......」

あれだけ純粋な想いだけでアイドル好きを語りたいって願っていたのに、後輩と仲良くなる純粋な気持ちだけでアイドルを語りたいって思っていたのに、今や尻を触ったのは僕ではないという途方もない打算でのアイドル語り、悲しきアイドル語り。

ここで本当に注目しているアイドルや、好きなアイドルの名前を出して、はあ?って理解してもらえなかったら効果がないと判断し、世間一般の認知度が高そうな人の名前を出します。

「武井咲とか本当に好きで」

決まったな、こりゃ決まったなって思いましたね。武井咲がアイドルかどうかの議論は別にして、知名度はピカイチ、これで件の彼も納得してくれたに違いない、そう考えて彼の表情を見ると、さらに恐怖におののく表情じゃないですか。

しまったー、こいつ、研修に来た時に最初に「男なのに武井咲に似てるとかいわれるんすよー」とか軽口叩いてたやつじゃないか。ここでこれはクソ逆効果。とまあ、あとはシドロモドロでよく分からない、「アイドルと男の尻は無関係」みたいな半分自白みたいなことを喋ってました。

まあ、結構偉い目の人に尻を触らないようにって後日厳重注意されて、武井咲似の彼にも謝罪するに至ったわけなんですけど、結局、その日の研修は後輩と一言も会話せず、第四チェックポイントのデジャブと化してました。たぶん、僕の唐突のアイドル好き発言が、住む世界が違うという決別宣言に聞こえたのでしょう。

人はその思いを人に伝えるとき、何らかの裏の意図が介在する。少なくとも唐突にそれを聞いた人間は、何らかの意図を無意識に感じ取るはずだ。本当に好きなことなら言葉にせず、行動で示したほうが伝わるのかもしれない。いまだラーメンについて熱く語っているベラルーシを眺めながら、昔を思い出して少し切なくなった。

愚直な中央線は今日も真っ直ぐ進んでいく。この中央線のように何の打算もなくまっすぐ生きられたら人はどれだけ楽なのだろうか、そう思いながら電車に揺れれていた。