持たざる者

持っている者と持っていない者、その違いはなんだろうか。いや、そもそも「持っている」とは何のか。何を持っているかどうかの判定を下しているのか。それが分からないのだ。

「あいつは持ってるな」

そういったセリフを聞くことがある。往々にしてそれらは主に運が良いような、運命に愛されているような場面で使われることが多い。まるで最初からそうなることが運命によって仕組まれていたような、やっかみに近い感情すら読み取れる。

救急救命講習を受けてきてくれないか」

職 場で上司からそう声をかけられた。非常に面倒くさく、できれば行きたくないのだが、そういった意味で僕は「持っていた」のかもしれない。たまたま上司に選 ばれただけなのに、そうなるように運命によって仕組まれていたのだ。たぶん一番暇そうとかそういった必然的な理由なのだろうけど。

地区の公民館みたいな場所に行って、人工呼吸やAEDの使い方を学ぶ講習のようだ。かなり面倒だと思いつつも、それでも精一杯の爽やかな笑顔で「承知しました」と答える。

「お前が一番戦力にならないから行かされるんだな」

隣の同僚が笑いながらそう言った。なんて失礼なやつだ。こいつが呼吸停止しても絶対に人口呼吸しない。

「おれ、去年行ったけど、すげえ女の子多かったぜ、チャンスチャンス、お前持ってるなー」

僕から人口呼吸してもらえない運命にある同僚はさらに続けた。お前も去年行かせれてるやないか。お前、一年前に戦力外通告じゃねえか、と思ったが、言わなかった。女の子が多い、その部分にだけ注力したからだ。

案内を見ると、「当日は実技があります、動きやすい格好でお越し下さい」そう記されていた。つまり、人工呼吸や心臓マッサージをする機会があるのである。

も ちろん、僕だってバカじゃない。これで女の子に人口呼吸や心臓マッサージをするチャンス、そう思う人はかなり頭がおめでたい。実際には女の子相手にするな んてことは全然なく、人形相手に実施するのだろうけど、決して悲観することはない。もしそこで、強烈にキビキビ動き、心臓マッサージに人工呼吸、AEDと 縦横無尽の働きを見せたらどうなるだろうか。

「素敵、ジュン」

「この人と一緒なら意識を失っても大丈夫、ジュン」

「無人島で二人でも大丈夫そう、プシャー」

と思ってくれるに違いない。講習といえど命の危機を連想する場面だ。吊り橋効果ではないが、こう、僕のことをかっこよく見てくれるかもしれない。そういったチャンスがゴロゴロ転がっているのだ。やはり僕は持っている。

早 速、インターネットサイトを見て、人工呼吸や心臓マッサージ、AEDの使い方を予習した。もちろん、それを教えてくれる講習なのだから予習する必要はない のだけど、何事も進研ゼミである。これ、進研ゼミでやった心臓マッサージだ!となれば、女性の心を鷲掴みにしやすい。家でも実際に枕相手に練習し、「絶対 に救ってやるからな!」「もどってこい!」などの情熱的なセリフが出始めるほど慣れてきた頃、ある事実に気がついた。

ヒップラインがセクシーなのである。

鏡を見ながら確認しつつ練習していたのだが、どうにもこうにも、心臓マッサージをする僕のヒップラインがセクシーなのだ。艶かしい流線型の曲線美というか、異性を誘うフェロモンというか、とにかく信じられない性的アピールで存外にセクシーなのだ。

「俺の尻、こんなにセクシーだったか」

悲 劇である。ここまで生きてきて自分の本当の魅力に気づいていなかったことは悲劇という他ない。僕の知らないところで僕の尻のラインを凝視し、勝手に発情し ていた女性がいたかもしれない。もう、そんなセクシーなお尻のラインで私を挑発して、私を興奮だけさせて知らん顔、この鈍感、セクシーなのに鈍感、略して セク鈍、とかハンカチを噛み締めていた女性がいたかもしれない。そんな思いをさせてしまって大変申し訳なく思う。

と にかく、僕は持っていたのである。セクシーな尻を持っていたのである。そうなると、これを使わない手はない。強烈な火力の武器を有しているのに戦争で使わ ない国はない。ならば、この尻を救命講習で使わない手はないだろう。当日、僕は決意してタイトなジーンズに身を包んだ。ユニクロで粋がって細身のシルエッ トとか言って買ったけど、呼吸が苦しくなるので一度もはかなかったやつだ。まだサイズのシールが貼ってあるくらいだ。このタイトなジーンズに僕という戦う バディをねじ込む。

なるほど、さらにセクシーだ。やはり僕は持っている。大丈夫だろうか。吊り橋効果にセクシー ジーンズ、卒倒する女の子が出てもおかしくない。あんた、相手が女の子だったら救命しないでくれ、女の子が別の病にかかっちまう、恋という病にな、と講師 の人にやっかみ半分で言われるかもしれない。なんだか楽しみになってきた。

当日、会場の公民館に到着すると、す でに講師の方が来られていて、12体ほどの人形を並べていた。その光景はさながら野戦病院である。人形たちは紺色の無地のTシャツを着せられていたが、足 りなかったのか一体だけ英単語がたくさんかかれたシャツを着せられていた。その中の英単語に「ハートブレイク」みたいなのがあり、いまから心臓マッサージ の練習をする人形にこれは適切なのだろうか、と思った。

「本日の講師です、よろしく」

目の前には爽やかな笑顔のご年配、縄文時代エアロスミスみたいな感じのオッサンが仁王立ちしていた。

「あ、どうも、よろしくお願いします」

挨拶もそこそこに席に座り、今日は俺のセクシーで全員悩殺、とか考えていると、続々と女性がやって来るのである。僕に悩殺される予定の子羊たちが続々とやってくるのである。同僚の言っていたことは本当だった。

早速講習が始まり、救命処置の重要性や、やり方などを教わる。中でも一番興味深かったのは、倒れている人を見つけたら安全確認をして駆け寄り、「大丈夫ですか?」と声をかける部分だった。

これは三段階に分かれていて

「大丈夫ですか?」(普通のトーン)

「大丈夫ですかー?」(大きな声)

「大丈夫ですかーーーー?」(かなり大きな声)

と 徐々に大きくしていく。三回目はラウドロックに近いくらいの勢いだ。こうすることで倒れている人の意識を確認できるし、呼び戻すこともできるのだ。さらに これは同時に別の効果があって、大声を出すことで周囲に何か異常が起こったことを知らせることができる。周囲の協力があれば後の救命行為もスムーズに行え るのである。

さらには、大声を出すことで、自分の中の迷いも断ち切ることができるのだ。倒れている人がいて、す ぐにスムーズに行動に起こせる一般人はそんなにいない。照れがあったり、関わりたくない、面倒だという気持ちが必ず生じる。その迷いを断ち切り俺はこれか ら救命行為をする、と決意表明することに近い。

なかなか合理的だなあ、などと思いながら講習を聞いていると、いよいよ実技の時間になった。丁寧に手順を説明された。単純にいうとこれ進研ゼミでやったところだ!である。

「じゃあ、実技に移る前にちょっと代表の方に実演してもらいましょうか、じゃあそこのメガネの方」

と僕をご指名じゃないですか。やっぱり持っている。

心 臓マッサージの実技の際に艶かしいヒップラインを披露して女子を悩殺っていってましたけど、せいぜい悩殺できるのは2,3人なんですよね。12体も人形が あるんですから、数人のグループに分かれて実技をするに決まってます。そうなると同グループの人しか悩殺できないんですね。下手したらみんな前に回り込ん で見るかも知れないですから、そうしたら誰も悩殺できない。完全に宝の持ち腐れです。

でも、全員の前で実演。こりゃあすごいことですよ。おいおい、全員卒倒しても責任持てないよー、心臓マッサージだって進研ゼミでやっただけだし、何人を救えるか、と思いつつ、一発決めてやろうと中央の人形の前に立ちました。

「それでは始めてください」

「はい!」

キ ビキビと返事をし周囲の安全を確認する素振りをします。完全に女子たちの視線を独り占め。今は多分、なんだこのオッサン、くらいのことは考えているでしょ うけど、僕が人形の傍らに座ったら一変、あれ、なんか、せ、セクシー?やだ体が火照ってきちゃう、うそ、でも、なんなの、これ、ああん、やだ、セクシーに 動いてる、ああん、人口呼吸してほしい!ってなるに違いありません。

ここはちょっと僕も意地悪して、わざとゆっくり人形の横に腰を下ろします。ラインが艶かしく動くよう、俺たちは人間ではない、ただの動物なんだってことを女どもが思い出せるように厭らしく動きます。

ビリッ!

その瞬間でした。明らかにビリっという音、何かが破れるような、何かがはち切れるような、絶望的な、どっかで小宇宙戦争(リトルスターウォーズ)が起こっているような破滅の音が聞こえたのです。

みなさんも、ああー、こいつ別の意味で持ってるな、どうせ尻が破れたんだろ、タイトなジーンズに戦うバディをねじ込むからだ、そんで尻が破れた状態で心臓マッサージして、どんどん裂けていくんだろ、みたいなこと予想したと思います。当然ね、その場の僕もそれを考えました。

な ので、膝立ち状態で人形の横にいるんですけど、ちょっとパンツのポジションを直すような感じで、さりげない感じで尻の部分を触ってみたんです。そしたら、 全然破れてないんです。しっかりと、お尻部分の布が連綿と続いているんです。圧倒的存在感でそこに尻は存在した。完全に気のせいだった。あれは空耳だった のだ。あれはもしかしたら、早くも僕のヒップラインに興奮した女子の早まる鼓動の音だたのかもしれません。それとも、恋のハートが打ち抜かれた音かな。

なんて思うんですけど、ほんと、思い込みって怖いですよね。ビリっといったからお尻が破れていると思いこいみ、触ってみて破れていないから安心する。でもね、実はこの時、前のチャックがぶっ壊れてるんですよ。

よっぽどパツパツだったのでしょうね。その力を逃がすのに普通なら尻が破けるんですけど、なぜか股間部分のチャックが先に根を上げましてね、チャックも下ろしてないのに全開。チャックが上がっているのにオープンリーチですよ。しかも、僕は全く気づいてない。

チャック全開。でも僕は気づいてない。20人からの女子からは完全に世界まる見え、彼女たちが見守る中、人形に向かって

「大丈夫ですか?」(普通のトーン)

お前が大丈夫かって話ですよ。

「大丈夫ですかー?」(大きな声)

ほんと、お前が大丈夫かって話ですよ。

「大丈夫ですかーーーー?」(かなり大きな声)

だから、お前、チャック全開で大丈夫もクソもないだろ。

休 憩時間にトイレに行き、その事実に気づいて、ものすごい赤面したんですけど、ここからが怖い。なにせチャックがぶっ壊れてますから直せないんですよ。 チャックのヒダみたいなベロベロになってますから完全にダメ。わかりやすく例えると正義超人の友情を表す人形が肩を組んでいたのにアシュラマンの策略に よって組まなくなったときみたいになってんですよ。わかりやすくなかったですね。

で、チャックが全開なのことに気づいているのに直せないので気づいていないフリをしなくちゃならなくて、出来の悪い心理戦みたいになってるんですけど、このまま穏便に目立たうようにやり過ごすしかないと考えていたのに

「では、続いてAEDの実技です。先ほどの心臓マッサージが上手だったメガネの彼にもう一度実演してもらいましょう」

進研ゼミの効果がいかんなく発揮され、再度、全員の前で実演することに。

チャック全開で、また人形に近寄り。

「大丈夫ですか?」(普通のトーン)

休憩時間にトイレ行ったくせにまた全開だ。

「大丈夫ですかー?」(大きな声)

なんで、普通気づいて直すでしょ。いい大人なんだし。つまり……ワザと?

「大丈夫ですかーーーー?」(かなり大きな声)

それってセクハラなんじゃ?もしかして私たちに見せつけてる?

みたいな状態ですよ。おまけに

「いまからAEDを使用します。みなさん協力してください」

と完全に協力を得られそうにないこと言ってましたからね。

講 習も終わり、同期にその話をすると、「やっぱ持ってんねー」って笑われたんですけど、やっぱり僕は別の意味で持ってる人なのだろうか、と思いつつ、うちの 職場に不法投棄されていた冷蔵庫を運ぶという、ちょっと仕事で戦力外っぽい人がやる作業を僕と同期が任命されたんですけど

「こんな仕事やらされるなんて俺たち持ってるな!」

という意味不明なこと言う同期が、全然力を込めてなくて、こっち側がすげえ重くて、こいつ持たざる者だなって思ってたらまたパツン!とズボンのチャックがぶっ壊れた。持ってんのかな。でももう、ズボンは持ってないよ。