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さとりの書とバイソン

柏田くんは確かに笑っていた。

夕暮れの校舎はオレンジ色の光を反射していて、まるで空と一体化しているようだった。傾いた日は校舎だけでなく、渡り廊下の椅子に腰掛けている僕と柏田くんの顔もオレンジ色に染め上げていた。

「なあ、さとりの書って何が書いてあると思う?」

柏田くんはそう言って笑った。

さとりの書とは、ドラゴンクエストIIIに登場するアイテムだ。職業性が導入されたこのドラクエでは、レベルがある程度上がり、「さとりの書」と呼ばれるアイテムを入手すると「賢者」という強力な職業に転職できるようになる。

「さあ、何も書いてないんじゃない?真っ白なんじゃ」

僕はそう答えた。「さとりの書」はアイテムである。それ以上でも以下でもない。ただ手に入れたら賢者になれる。それだけのものだ。中に何が書いてあるかなんて考えたこともなかった。

「そんなことはない。よほどすごいことが書いてあるに違いない」

柏田くんはまた笑った。

あれだけすごい職業である「賢者」、僧侶の魔法も魔法使いの魔法も覚えてそこそこ戦闘力もある、完全無欠の職業だ。それになることができる「さとりの書」なのだから、それはもうすごいことが書いてある、そういった主張だった。

「そういえばそうだな。すごいこと書いてあるんだろうな」

将来に対する漠然たる不安を抱いていた僕たちは、どこかこの「さとりの書」に憧れていたのかもしれない。自分はどんな大人になるのだろうか。どんな職業に就くのだろうか。僕たちは賢者になれるのだろうか。僕たちは「さとりの書」が欲しかった。僕たちは見えない未来にもがいていた。

夕日が沈む。さっきまで熱心に練習していた野球部の声もいつのまにか聞こえなくなっていた。

「帰ろうか」

「そだな」

薄暗い廊下は少し怖いくらいにひんやりしていて、まるで僕らの将来を暗示しているかのようで漠然とした恐怖があった。真っ暗になった帰り道、家々から漂う夕御飯の香りに僕らは歩を速めた。

それから数日後、また柏田くんがおかしなことを言い出した。

「バイソンっているじゃん。ストIIの。あいつってすげー紳士じゃない?」

ストリートファイターIIという格闘ゲームに登場する、四天王の一人、バイソンというキャラクターが紳士であると主張するのだ。

このバイソンというキャラクター、おそらくマイクタイソンをモデルにしているのだろうけど、目つきも悪く見るからに凶暴そうで紳士というには程遠い。柏田くんは悪いクスリでもやってるんじゃないかと本気で心配した。

「紳士なわけないだろ、あの目つきはクスリとかやってるって」

僕もひどい言いようだが、どうしてもバイソンが紳士という論説には賛同しかねた。

柏田くんが言うには、ストIIとは格闘ゲームであるが、実際にはなんでもありな無法地帯らしい。己の肉体を駆使するだけでなく、電気をビリビリ出すやつや、エネルギー波みたいなものを出すやつ、青い炎で身を包んだやつもいるらしい。こいつらはそういった兵器を隠し持っている可能性が高いが、中には完全に開き直って長い爪の武器を平然と装備している無法者もいるらしい。

そんな中にあって、それらの兵器に手を出さないどころか、相手を気遣ってグローブまでつけるバイソン。完全に武士道である。日本人であり侍っぽさを演出してるくせに手からビームっぽいものを出す不正に手を出してしまったリュウは心が弱い、バイソンを見習うべき。バイソンは紳士だ。という主張だった。

僕はこれには即座に異を唱えた。

「あいつはボクサーでちょっと現役時に殴られすぎてパンチドランカー的なところがある。だから、ストリートファイトと言われて訳も分からずグローブをつけてしまったに過ぎない。紳士じゃない。あんまり状況をわかってないだけ」

柏田くんは即座に反論してきた。

「そんなことはない。バイソンは紳士だ。彼は蹴りすら使わない。ルール無用の戦いにあって彼だけボクシングを通しているのだ」

「だからもう頭おかしくなってんだって。何が得かもわかってない」

「そんなことはない。彼はボクシングを愛している。それゆえの行動だ」

僕と柏田くんの議論は平行線だ。もう、柏田くんは笑っていなかった。

それから僕と柏田くんはバイソンが原因で仲違いみたいな状態になってしまった。思春期における仲違いってのは随分と苛烈で過酷で、大人の世界なら嫌いな人には近づかないようにしておこうだとか自衛できるのに、学校やクラスという枠組みの中でそれをするのは難しい。

なんだかアンバランスで、わざとらしい不仲、意識して会話しないようにするふたりの姿がそこにあった。

夕暮れの校庭を一人で眺める。ゴールポストの向こうを柏田くんが歩いていて、長い影が部室棟の前まで伸びている。「おーい、柏田。俺が間違ってたよ、やっぱりバイソンは紳士だよ」そう話しかけられたらどんなに楽だっただろうか。それができるならどんなに楽うだろうか。野球部の声がいつまでも響き渡っていた。

それから数日して、ある書店で遊人先生のANGELという漫画を発見した。これは完全無欠にエロ本で「成年コミック」という表記がなされている。いわゆる、僕らには売ってくれない類の本だ。

しかしながら、今はいつもの怖いおばちゃんではなく、死にそうな爺さんがレジの前に立っている。あの爺さんがキビキビと動いて「ガキにこれは売れねえ!」とやるとは思えない。たぶんそんなことしたら呼吸が止まってしまうんじゃないか。もしかしたらこれはチャンスなんじゃないか。そんな考えが僕の中に生まれた。

颯爽と遊人先生のANGELを携えてレジへと向かう。案の定だ。爺さんはせっせと紙袋に詰めている。僕は歴史的快挙を達成したのだ。ついに遊人先生のANGELを手に入れたのだ。

次の日、学校で僕はヒーローだった。ハッキリ言ってしまうと、当時の遊人先生のエロ漫画ははっきりいってオーバーテクノロジーだ。レベルが高い。当時としては考えられないレベルのクオリティで、現代でも遜色なく通用する。そんなものを学校に持ってきたのだ。男子たちはとにかく沸いた。

「次、俺にも読ませてくれよ」

「なあ頼む、今日貸してくれ!」

そう懇願される僕。ハッキリ言って悪い気はしなかった。そんな男子たちのピンク色の怨念が渦巻く輪の外で、柏田くんは静かに自分の席に座っていた。

僕はその光景を見た時、なんだか胸の奥底のさらに奥底、一番柔らかい部分がギュッと締め付けられるのを感じた。そのまま遊人先生のANGELを鷲掴みにし、つかつかと柏田くんの席まで歩いて行った。

柏田くんの目の前に遊人先生のANGELを置く。

「貸す」

柏田くんは静かに笑った。

「ありがとう」

固い握手を交わす。僕はすぐに柏田くんに謝った。

「やっぱりバイソンは紳士だと思うよ」

すぐに柏田くんが返答する。

「いいや、冷静に考えたらパンチドランカー入ってるわ、あいつ」

僕らはいつまでも握手を交わしていた。そして、そのまま遊人先生のANGELは柏田くんに借りパクされてしまった。返ってこなかったけど、また不仲になるのが怖くて言えなかった。

それから数年して、卒業し、それぞれの道を歩んでいるとき、柏田くんに会う機会があった。出会うなり柏田くんは小さな包を僕に渡してきた。

「さとりの書やっとみつけたよ」

柏田くんはそう言って笑った。なんだろうと包みを開けると、中にはあの時の遊人先生のANGELが入っていた。返すのおせーよ。

ドラクエの中で、「遊び人」という職業だけは、さとりの書がなくても賢者になれる。あれは遊人先生を指しているんだよ。さとりの書とは遊人先生の著書なんだよ。いったろ、さとりの書にはすごいこと書いてあるって」

そう言った柏田くんは、あの日の放課後のように笑っていた。たぶん僕も笑っていた。

あの日、あの時、夕暮れの校舎。僕らはさとりの書を求めた。手元には遊人先生のANGELがある。

 

僕らは賢者になれたのだろうか。たぶんなれていない。

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