紅茶のおいしい喫茶店

汚らしい裏通りの一角に今にも朽ち果てそうな喫茶店がある。コーヒーは不味く、値段も高く、椅子のクッションも悪くてなんだか落ち着かなく、タバコの煙がもうもうと立ち込める、劣悪な喫茶店だ。ただ、紅茶だけは美味しい。それだけが取り柄の喫茶店だ。

原稿に追われる僕はこの喫茶店によくやってくる。窓際のテーブルに腰掛け、ぎいぎいと音を立てる椅子に座り、パソコンを広げる。爺さんや婆さんが店主と大声で話しをしていて、テレビからは大音量でワイドショーが流れる。全く集中できない環境だが、それでも僕はこの喫茶店で原稿を書く。

もちろん、僕はマックブックエアー、いわゆるMBAを持っていないので駅前のスターバックスに入る権利を有していないというのも一つの要因だが、それ以外にもこの紅茶だけが取り柄の喫茶店にやってきて、VAIOを開く理由があるのだ。

二階にあるこの喫茶店の、いつも座るこの席の窓から下を覗くと、そこにはピンサロの入口が広がっている。店の前に呼び込みが立ち、ただいまの時間7000円と描かれたケバケバしい立て看板が煌びやかなネオンを輝かせ通りを彩っている。

そこに出入りする人は、たまに働いているであろう女の子も出入りするが、圧倒的に男ばかりだ。別に誰が出入りしたとか、風俗店に出入りする男が滑稽だとか下世話なことを言うつもりもないし、覗き見るつもりもないのが、何日かその席に座っているとあることに気がついた。

一日ごとではあるが、同じ時間にやってきてピンサロに入店していくオッサンがいるのだ。別にそれ自体は特に珍しいことでもないが、このおっさん、ものすごい曲がり方をするのだ。

どうやら、おっさん的にはピンサロに入店するのがまあまあ恥ずかしいことらしく、僕としてはどうせ入店するのなら堂々と、なまはげみたいな勢いで入店してピンサロ嬢の生首片手にゲハハハハと退店してくるワイルドさがあっても良いと思うのだが、とても繊細らしく、できれば入店の瞬間をあまり人に見られたくないらしい。

そこで彼がとった行動は、通りの向こうから歩いてきて、いかにもピンサロとは無関係という顔をしつつ、なんか美味しい定食屋でも探しているような雰囲気で歩いていくる。そして、ピンサロの前にさしかかった瞬間にクワッと90度ターンをし、ピンサロの入口へと吸い込まれていく。そのスピードは凄まじく、ちょっと動体視力が悪い人だったらおっさんが突如消えたように見えるだろう。俺じゃなきゃ見落としちゃうね、ってやつである。

二日後。また90度おじさんはやってきた。フラフラと通りを歩く。とんでもない演技力である。傍目にはちょっと軽めの飯を食べる場所を探している紳士にしか見えない。この男がこれからピンサロに入るなんて夢にも思わないだろう。

そして、ピンサロの前にさしかかった時、クワッと90度ターンをしたのだが、そこで我が目を疑った。

進化しているのである。卒業式の練習で綺麗に90度曲がる練習をしたことがある人もいるだろう。曲がりたい方向の後ろ足が出ている状態で、くるっと足を回転させるワザである。右向け右を歩きながらやるといったほうが正確か。これをすると早くターンできるだけでなく、次の一歩もスムーズに出やすい。とにかく卒業式の証書をもらいに行くときのみたいな足運びをものすごい高速でこなしたのである。

前回の段階でもピンサロ街のアイルトンセナの異名を与えても良いと思ったのに、それよりもさらに進歩しているのである。そのために技術を磨いていることに感動すら覚えた。

次も、その次も、90度おじさんはピンサロ街に現れた。手元のスマホでタイムを測てみると、ピンサロの門をくぐるまでに45秒、39秒、27秒と着実にタイムが縮まっていた。こうやって走るたびに自己ベストが出ると途端に陸上競技が面白くなってくるものである。おっさんの表情からもそれが見て取れた。

ある日のことだった。おっさんのターンにキレがなかった。なにか悩みがあるのか、それとも連戦の疲れがあるのか、心配になったが、タイムを見て納得した。28秒である。完全に伸び悩んでいる。もうこれ以上タイムを縮めることなんかできやしない、そんな苦悩が読み取れた。

27秒と28秒をいったきたりする日々。おじさんの苦悩と重責は日増しに重くなっていくようだった。もう、40秒でも50秒でも、誰もおっさんがピンサロに入店する姿を追えるものはいない。そもそも追ってる奴も僕しかいない。そもそもおっさんがピンサロに入ろうが別にどうでもいい。けれども彼は戦う。これはもう、自分自身との戦いなのだ。自分を許せるか許せないかの領域に到達してしまっている。

その日もおっさんは現れた。顔には深い決意が現れている。今日は26秒台を出す、そう僕に宣言しているように見えた。飯屋を探すように歩き出す。足取りはいい。若い選手ほどはやる気持ちでピンサロに向けて歩いてしまいがちだが、ここはさすが年の功と言ったところか、スピーディーさと無関係さが綺麗に両立している。

タイムもいい。これならいつも通りのターンを決めれば26秒台もだせるだろう。いける。ティーカップを握る手に力が入った。

「なっ!入りの速度が速すぎる!」

普通はある程度減速してからコーナに突っ込むが、おっさんは全く減速せずにコーナーに突っ込んだ。

「死ぬ気か!ま、まさか、25秒台を出そうってのか!?それはもう神の領域だぞ!やめろ!死ぬ気か!?」

僕の心の叫びとは裏腹に、おっさんは高速ターンを決める。しかし、いつもより速度が出ていたため、回転しすぎてしまった。それは微々たる差で、90度ターンをするところ92度ターンしてしまった程度のものだった。けれども、我々の戦っている世界はこの小さな誤差が命取りなのである。

そのまままっすぐピンサロに吸い込まれすはずだったおっさんは、わずかな角度の違いにより、ピンサロのケバケバしい立て看板に突っ込むことになる。クラッシュだ。立て看板は粉々に砕け散った。

そのままおっさんは走って逃げた。血が出ていた。ハローグッパイだ。

落ち着いて紅茶のカップを傾ける。ここは紅茶が美味しいだけの喫茶店だ。けれども、店の前では最速を目指す男たちの熱い戦いが繰り広げられているのである。今度90度ターンを見せる若者がいたら話してやろう、25秒台を目指し、スピードの向こう側を夢見た偉大なる先駆者の話を。

砕け散ったネオンの破片たちは、プラタナスの葉のようだった。