読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

家庭教師は見た-2016-

音もなく降り積もる雪は心のバランスを失わせる。

空から何かが降ってくる、それも大量に視界を遮る物体が降り注いでいるというのに、地面を叩く音は聞こえない。まるでこの雪たちは地面に届いていないんじゃないかと錯覚するほどに、不気味な静寂がそこにある。何も降らない夜も雪の夜も、同じように静寂であるはずなのに、雪の夜だけがとにかく際立って静かに感じられる。これは心のバランスを欠くからだ。

あの日もそんな雪だった。それもありとあらゆる生活がストップするほどの、大雪の日だった。途方もない大雪であるのに、何も音はしなかった。驚くほどのサイレントワールドが僕の心を狂わせた。

当時、高校生だった僕は家庭教師のバイトに勤しんでいた。高校受験を控える中学生を教えてそこそこの収入を得る日々、ある程度充実していたように思う。様々な家庭に赴いて勉強を教えていたが、その中で唯一、女子中学生を教えていた時の事が印象深い。

僕が教えて周っていた家庭は基本的に荒んだ家庭が多かった。料金が激安だったことも関係しているかもしれないが、ゴミ屋敷みたいな家や、犬というよりは飢えた獣みたいなものが大暴れしている家や、家庭内暴力で壁全体が穴だらけになっている家や、夜な夜な宗教の会合が開かれていてウラーとか変な歌が聞こえてくる家など、おおよそ普通ではない家庭が多かった。家庭教師をつける前にすることあるだろと言いたくなるものばかりだった。

そんな中で、唯一の温かい家庭、それがある女の子の家庭だった。特別裕福なわけでも豪邸でもない。それでも普通にお父さんとお母さんがいてにこやかで、判を押したような「家族」ってやつを実現している家庭がそこにあった。

そういう家庭だと女の子も素直でちょっと教えるとメキメキと成績が上がっていく。とにかく楽しくて、週一回その家に教えに行くのがとにかく楽しみだった。

僕が生まれ育った街はそこそこの雪国で、積雪自体は珍しくもなんともなかったが、そんな住人たちでも驚くほどの大雪が襲ってきたことがあった。しかも、悪いことにそれが楽しみにしていた家庭教師の日だった。

大雪の被害状況がテレビで報じられる中、僕は闘志を燃やしていた。こんな雪ごときで家庭教師を休んではいかん、俺はプロなのだ、這ってでも行く義務がある。今考えると完全にバカで迷惑千万なのだけど、当時の僕はそれがプロなのだと信じ込んでいた。

あらゆる交通機関が止まる中、本当に這う勢いで家庭教師先へと赴いた。靴の中までグシャグシャになりながら、必死の思いで家へとたどり着いた。

これに困ったのはお父さんだった。教え子の家は街の中心部にあり、ショッピングセンターや商店街に近い位置だった。娘とお母さんはこれからさらに酷くなる大雪に備えて食糧やら何やらを買い出しに行ってしまったのだ。こんな雪だから家庭教師は来ないだろう、普通に休みだ、よし、買い物に行こう。そう思ったらしい。

大雪で仕事も休みだぜ、と家でゆっくりしていたお父さんは大パニック。来ないと思っていた家庭教師が来たのだ。それも全身ずぶ濡れだ。娘も嫁さんもいない、ただただ右往左往するばかりだった。

「とりあえずあがってください」

普段なら玄関から娘の勉強部屋まで通されるのだけど、さすがに不在なのでリビングへと通された。お父さんは僕にバスタオルを渡そうとしたらしいのだが、普段家のことを全然やっていないのでバスタオルがどこにあるのか分からない。

「これで拭いてください」

と渡されたのは花柄のハンカチーフだった。こんなもん、ちょっと拭いたら一瞬でグショグショだ。

「娘達はもう少ししたら帰ってくると思うので、テレビでも観て待っててください」

雪の中、娘のために死ぬ思いでやってきてくれた家庭教師に不快な思いをさせてはいけない、お父さんの必死の思いが僕にも伝わり、なんだか申し訳ない気持ちになってきた。僕さえ意味不明なプロ意識を燃やさなければお父さんもパニックにならなかったのに。そんな思いを抱えながらテレビの大雪情報を眺めていた。

さて、お父さんはキッチンでてんてこ舞いだ。どうも僕にお茶を出そうとしているらしく、確かにこの冷えた体にそれはありがたいのだけど、物音の種類的にものすごく苦労していそう。お茶を入れるというよりは何かを試行錯誤している音にしか聞こえない。

「おかまいなく」

と僕も言うのだけど

「そういうわけにはいきません!」

と一喝。基本的にものすごくいい人なんだと思う。

しばらくして、やっとこさコーヒーが出てきた。お父さんが苦労して入れたコーヒー。体の芯まで温まるものだった。よほど大変だったのかお父さんはハーハーゼーゼーいっていて、コーヒー入れるだけで800m走やったみたいになってるなって考えていると、またお父さんが叫びだした。

「お茶菓子を出さなきゃ!」

今度はコーヒーに比べて難易度が高い。そもそもお茶菓子を常備しているのかという問題があるし、あったとしてもコーヒーほど分かりやすい場所に収納されていない可能性がある。

やはりその予想は的中で、お父さん右往左往、そんなところに入っているわけないだろうっていう場所まであけて探すのだけど見当たらない。

別にコーヒーで体を暖めることができたし、甘いものはあまり好きではないのでお茶菓子はいいのにって思いつつ、。そういってもこの人は聞かないだろうな。基本的にいい人なんだ。ウチのクズみたいな親父とは違っていい人なんだ。温かい家庭のお父さんってのはこうあるべきなんだ、と思いつつテレビを見ていると、

「あった!」

台所の奥底から声が聞こえます。やっとみつかったんだ、よかった、そう思いながらテレビの大雪情報に集中します。こんな被害甚大な日にやってくる家庭教師とか本当にありえないだろ、そう思いながら集中します。

またなにやらとバタバタと物音がして、おそらくお茶菓子を入れるカゴを見つけたのか、ドタンバタンと音がしてついにガサッとテーブルの上にお茶菓子が置かれました。僕はその様子をあまり見ていなくて、テレビを食い入るように見ていたのですが、何らかの高級菓子がカゴの上に溢れんばかりの勢いで乗っているのが見えました。

ついにお茶とお茶菓子を出すことに成功し、一緒に座ってテレビを見るお父さん。本当にいい人なんだと思います。普通はここまでしてくれないし、大雪なのに何で来てるんだ、帰れ、と追い返されたって文句を言えない状況です。なのにここまでしてくれて、お茶にお茶菓子まで、なんていい人なんだろうか。

どれ、お父さんのの苦労の結晶でもあるお茶菓子を頂きましょうか。テーブルの上のカゴに視線を落とすと、そこにはやはり高級そうな菓子の山が。ほら、一個一個包装されてて、ケーキみたいになってるお菓子ってあるじゃないですか。あんな感じのがもさっとあるんですよ。貧乏な我が家では出てきたことにない高級菓子です。さすが温かい家庭は違うなとその菓子を手に取り、驚愕しました。

手に取ったそのお菓子、やけに軽い。そしてマジマジとパッケージを見てみるとそこには

「ロリエ」

お前これ生理用品じゃねえか!

どう好意的に解釈しても見紛う事なき生理用品がそこにあるんです。いやいやいやいや、いくらなんでもおかしいだろ。普通に気がつくだろう。だいたいなんでこんなもんが台所的場所から出てくるんだ。

そこである思いが浮かんできます。もしかして、これは故意?お父さんのセクハラ的な考えのもと、フフフあの純朴そうでかわいい家庭教師、生理用品を見てドギマギしていたわ、かわいい、食べちゃいたい、こういうアレかもしれません。

もう完全に何が正解で何が正義なのか分からない状態でパニックになってると、そんな僕の態度から察したのか、お父さんも自らが犯した間違いに気がついた様子。けれども、いまさら引っ込めると自らの間違いを認めてしまったことになる。このまま気がつかなかった風にやりすごそう、と決めたらしく、挙動不審な家庭教師とお父さんという訳の分からない絵図が出来上がっていました。

視覚的な情報と実際の情報が違うから心が乱される。雪が降り積もっているのに音がしないから僕らの心は乱される。それと同じで、見た目でお茶菓子だと思っていたらロリエで僕とお父さんの心は乱されてしまった。

悪いことに、そこに娘とお母さんがご帰還。リビングで山盛りのロリエを前に薄ら笑いを浮かべる家庭教師とお父さん。ものすごい変態に映ったでしょうねえ。

中学生女子といえば多感な時期です。そういった性に関する用品を他人に見られるのすら嫌な時期でしょうに、これですからね。なぜか家庭教師のヤツ、半分封を開けてましたしね。

結局、その日は娘さんが部屋に篭っちゃうし、お母さんは激怒してるし、お父さんは弁明に必死、家庭教師どころではなかったので帰宅した。

さらに降りしきる雪はやはり全く音がしなくて、僕の心を惑わせる。そして行き場がなくてポケットに入れてしまった封を切ったロリエがウチの母親に発見され、母親の心を惑わせ、我が息子が家庭教師先でロリエを盗んできたと大号泣。

真っ白なロリエは、まるで降り積もった雪のようだった。僕らの心を乱す、あの雪のようだった。