カメムシだって嫌われたくてやってるんじゃない

カメムシとは悲しい生き物だ。

彼はかなり癖のある独特の悪臭を振りまく昆虫として有名だが、実のところその悪臭を振りまく理由はよくわかっていない。普通、こういった悪臭は天敵に対して有効で、食欲をなくす臭いを放出することで自分の身を守ることが多い。しかしながら、カメムシの出すその臭いは全く有効ではなく、天敵である鳥はいくら悪臭を出そうがガンガン捕食して食べる。なんなら少しクセがあってこの臭いがたまらんよね、くらい思っている可能性があるのだ。

何の意味もないのに強烈な臭いを発して人々から忌み嫌われる。そんなカメムシのことを思うと少し切なくなるし、いつのまにか自分の身に重ね合わせて悲しい気持ちになってしまう。

この世の中にはカメムシのように何ら意味のないことが原因で嫌われている人も多い。もちろん僕だってそうで、例えば自分の中に譲れない何かがあって、それがもとで周囲と衝突して嫌われている、ならまだ分かるし理解もできるが、特に意味もなくのんべんだらりと生きているのに嫌われている、なんてことがあるのだ。

同じように我が職場のすごい偉い人で、何の意味もないのに極度に厳しく周囲にあたり、たいそう嫌われている人がいた。僕らだって子供ではないので、その厳しさが何か意味があるものだと感じ取ればそこまで疑問には感じないが、その偉い人の厳しさには何も意味がないように思えていた。そういった意味ではその偉い人もカメムシなのだろう。

そのカメムシ的偉い人が名指しで僕を指名し、面談しようと持ち掛けてきたので我が職場に緊張が走った。この偉い人からの面談の指名は極度の地獄の到来を意味する。徹底的に礼儀作法等を叱られ、考えの甘さを指摘され、泣き出す若手もいるくらいで、それならまだいいが、最終的には部署の連帯責任みたいな状態になって非常に面倒なことになるのだ。

そんな地獄の面談を、最も指名されてはいけない人間を指名して行われることになった。職場の面々は絶望し、嘆き悲しんだ。確実に連帯責任で大変なことになる。泣き出す女子社員もいたくらいだ。

「絶対に粗相があってはならん!」

僕の直属の上司が興奮状態でそう言った。上司がどれだけ興奮していたかは、彼のワイシャツ越しに乳首がビンビンに勃っていたことからも伺える。とにかく、僕の怠慢や考えのおかしさは今更どうしようもないが、礼儀作法だけきちっとしていれば致命傷は免れる、という考えの元、その偉い人との面談の練習をさせられたのだ。挨拶の練習から、会話をする際に視線をどこにするか。敬語の使い方など、ビジネスマナーのマニュアル本まで読まされて、とにかくめちゃくちゃ練習させられた。

そうなってくると、なんだか僕も、ちゃんと面談を乗り切ってみんなを安心させなければいけない、みたいな里心がでてくるもので、少し頑張ってみんなを喜ばせてやろう、みたいな気分が高まってくる。そうして、いよいよ偉い人との面談の日を迎えた。

いつもは僕とカメムシだったらカメムシのほうがまだマシと言いかねないレベルで嫌っている女子社員も、小さくガッツポーズをしながら

「がんばってください」

と言う。悪い気はしない。上司も乳首をビンビンにしながら

「昨日はよく眠れたか?絶対に失礼なことするなよ。終わったら一緒にランチを食いに行こう」

と僕を気遣ってくれる。悪い気はしない。

いよいよ会議室の椅子に座り、偉い人の到来を待つ。窓から見える青い空と白い雲がすごくゆっくり動いているように見えた。職場のみんなが保身のためとはいえ僕を気にかけてくれている。僕はカメムシなのだろうか。普段の信念のない嫌われ方からして僕がカメムシであることは間違いない。じゃあ、なぜカメムシは臭い匂いを出すのだろうか。何の意味もないのに。

カメムシのことをおもってまた少し悲しくなった。こんなに空は青くて広いのに、意味もない匂いを出して嫌われている彼を不憫に思った。カメムシ、カメムシ、どうしてカメムシと悶々とカメムシのことが頭の中を駆け巡る。そうこうしていると偉い人が会議室に入ってきた。

すぐに立ち上がり、練習したとおりに挨拶をする。

「君かね、うんうん、話は聞いてるよ。まあかけなさい」

偉い人は穏やかにそう言った。こんなに穏やかな物腰なのに鬼に豹変するというのだから人間は分からない。彼もまたカメムシのように無意味と言える厳しさで周囲に嫌われている人なのだ。

偉い人は僕の対面に座った。ここで初めてまじまじと偉い人の顔を見る。どれどれ周囲に嫌われまくってるカメムシ的な人の顔を拝みますかな、きっとカメムシ的な顔をしているんだろうよ、と思いながら視線を上げると、そこには予想以上の展開が待っていた。

いや、顔にカメムシついてるんよ。

おかしい、おかしい、絶対におかしい。こんなの絶対におかしいよ。顔にカメムシがついてるってだけでもおかしいのにその位置がものすごくて、ほっぺとかそういったオマケ的場所じゃないですからね。キン肉マンの肉って書いてある場所、テリーマンの米って書いてある場所に、威風堂々、臥薪嘗胆といった感じでカメムシがおわすんですよ。

いや、これは普通に考えて罠でしょう。だいたい、そこにカメムシがついていたら必ず何かが付いている感覚がするはずです。それどろこか、下手したら視界に入ってくる可能性もあります。それよりなにより、臭いに気づかないはずがない。ということは、これはもう故意につけていると考えるべき。

偉い人は僕をテストしてるに違いありません。なるほど、ビジネスシーンで目上の人の額にカメムシがついていたらどうするのか見ているんだな。よしよし、それならしっかりとクリアしてやろうじゃないか。

でもね、熟読させられたビジネスマナーの本をいくら頭の中で思い返してみても「相手の額にカメムシがついていた場合の対処法」みたいな項目がないんですよ。あのマニュアル本、全然使えねえ。

まあ、でもここは「おや、何か異物が?」って指摘するのが正解なのかもしれません。そうすると偉い人もおやって手探りで触ってみてカメムシに気づくはず。きっと相手の方にゴミが付いていた場合なんかもそんな対処が正解のはずです。そう、これはもう指摘するしかない。

でもまてよ、付着しているのがゴミやホコリなら大丈夫だ、確かにそれが正解だ。けれども、相手はカメムシだぞ。不注意に触ってブチュとかなったら、それこそ何倍もの異臭がする。僕が指摘したからカメムシが潰れた、そう怒られるかもしれない。ということは付着物がカメムシの場合は指摘が正解ではない可能性がある。

では、僕が取ってあげるというのはどうだろうか。「おや?何かゴミが」そう言ってサッと素早く取ってあげればいい良いのでは?同時に面倒見のいい奴くらいに好印象を与える可能性だってある。よし、これが正解だ。

でもまてよ、じゃあこれが例えば股間のチャックが全開だったとかだったらどうする?「おや、股間のチャックが開いていますぞ」と親切にチーッとチャックを上げてくれるやつがいたら。これはもう狂人ですよ。そんなもん気持ち悪くて仕方がない。だめだ、過度の親切心は気持ち悪い。取ってあげるのも不正解だ。

じゃあ、何事もなかったようにしておくのが正解か?そう、そもそもカメムシなどいなかったのだ。たぶんこれが一番無難じゃないか。うんきっとそうだ。眉間にカメムシなどいなかった。むしろカメムシなどこの地球上に存在しなかった。これが正解だろう。うん、きっとそうだ。無視するに限る。

でもまてよ、この面談が終わったら何人もの人が偉い人に会うはずだ。その時にカメムシが指摘されたとしたら?もしかしたら黙っていた僕が不自然だ、あいつがカメムシをつけた犯人だ、くらいのことになるかもしれない。そんなの絶対におかしい。カメムシは最初から鎮座しておられたのに、僕の犯行にされるなんて絶対におかしい。

「だからね、私は君の信念がしりたいわけだよ」

偉そうな人がすごい厳かな表情で、なんか僕の心に響かせようと言葉を発しているんですけど、眉間にカメムシつけて真面目な顔されたって駄目ですからね。いっとくけど全然響きませんからね。とにかくこのカメムシをどうするか。そこにつきるわけですよ。

悶々と考えつつカメムシを見ていると、偉い人が興奮して体温が上がってきたからか、なんか少し動きそうな気配。まずい、今動かれて偉い人がカメムシに気づいたら、その対面にいた僕が気づいていなかったことが不自然になる。まずい、動いて気付かれる前に勝負を決めなくてはならない。

僕が導き出した答えは、光の速さでカメムシを奪う、だ。

偉い人と言っても結構なご老人だ。おそらく動体視力も低下し、素早く動くものを肉眼で捉えることはできない。つまり、少しだけ体を揺らして偉い人に近づいていき、一瞬の隙をついて人智を超えた速さで眉間のカメムシを奪う。もちろん寸止めで偉い人にも一切触れず、カメムシだけを奪い去る。偉い人も空気を切り裂く音と風圧くらいは感じるかもしれないが、気づいた時にはすでにカメムシは僕の手の中だ。これしかない。

このまま、カメムシだけを、奪い去りたい、DEENの歌を頭の中で流し己を鼓舞する。大丈夫だ。やれる。絶対にやれる。勝負は一瞬だ。カメムシを潰さないよう、この二本指で奪い去ってやる。イメージとしては空気より上の存在、空間を切り裂くイメージで行く。

頭の中に走馬灯のようにこれまでのシーンがスライドされていく。上司と面談練習、女子社員のガッツポーズ、がんばれってお茶だって入れてくれた。やれる。できる。職場のみんな見ていてくれ、オラに力を貸してくれ。一瞬でいい、一瞬だけでいいから光速を超える力をオラに与えてくれ。

「どうだね、君の考えを聞かせてくれ」

偉い人が少し体を前に屈ませた。いまだ!

ブホン。空気を切り裂く音が会議室に響き渡った。

 

 

 

 

 

「ねえ、アイツなにしてんの?」

「ああ、なんか始末書を書いてるらしいよ」

「また何かしたの?あいつ」

「なんか、偉い人と面談中に、突然目潰ししたってきいた」

「なにそれー意味不明でキモイんですけどー」

「すごい刺さってたらしい」

「バカなの?あのひとバカなの?本格派のバカなの?」

「わたしたちもなんか書かされるらしいよ。連帯責任で」

「死んでほしい」

カメムシは何の意味もない匂いを出して無意味に嫌われている。そして、その臭いは実は自分でも我慢できなくて死に至るレベルらしい。容器に密閉すると、カメムシは自分の臭さで窒息死するらしい。

どうしてカメムシは自分が死ぬレベルなだけで他には何の役にも立たない臭いを発するのか。その理由は分からないけれども、なんだかカメムシのことは他人のようには思えない。僕はきっと、カメムシなのだ。加齢臭で臭いしな。