自販機ごと返してやる!

大ヒットドラマ「踊る大捜査線」の劇場版「レインボーブリッジを封鎖せよ」のワンシーンに、あるセリフが登場する。

「あ、自販機ありがとうございました」

というセリフだ。これは主人公である湾岸署の刑事青島が上司にあたる本庁の室井管理官に休憩所で放ったセリフだ。このセリフは実は前作の劇場版から繋がっていて、そこでは同じように青島と室井がコーヒーを飲むシーンが登場する。

このコーヒーは青島が購入したものだが、飲み終わった時に青島が冗談めかして言う。

「そのコーヒー代、本庁につけときますんで」

それを受けて室井が言う。

「自販機ごと返してやる」

青島と室井、共に抱えていた何らかの不満が氷解し、呪縛から解放されたことを表現する屈指の名シーンだ。そして実際に次作の映画になるとちゃんと自販機が1台増えていて室井が手配したことが分かるようになっている。ファンならニヤリとなるシーンだし、室井の律義さと、ちょっと不器用なまでの豪快な一面を感じさせるエピソードになっている。

しかしながら、よくよく考えてみてほしい。これは明らかにおかしいのではないだろうか。

まず、青島が奢ったコーヒーだ。本庁につけておくと冗談っぽく言われた時の返し方は、「今度は俺が奢る」本来ならこれが正解だ。青島は自腹を切って奢ってくれたのだから、自分も自腹で返すべきである。上司としての立場を考慮するに同じコーヒーを奢り返すのがややケチっぽいというなら、ちょっと拠出する金額を増やして「飲みに連れてってやる」くらい言うべきである。しかし、室井の脳裏には自分の懐から出すという思想が本気でない。皆目ない。暗黙のうちに本庁が払うという事実を承認している節すらある。まるで名前は出せないし詳細に言うと特定されるのでぼかして言うが、どこかの都道府県の都知事のようだ。

あわよくば本庁に払わせようというのならばまだいいが、さすがに湾岸署で飲んだ缶コーヒー代の請求が来てますが、と本庁で言われるのも、経理っぽい人にどれだけケチなんだ、これくらい自腹で払えよ、と思われてバツが悪い。そこで室井が選んだ手法は「自販機ごと入れる」というものだ。物凄く豪快で気前が良いように思えるが、実はそうではない。

まず、現実的に考えて室井がポケットマネーで購入した自販機をズドンと置いたとは考えにくい。誰が運用し、誰が補充等の作業を担うのか、誰が管理するのかという問題があるからだ。そうなると、業者との契約によって自販機が設置されていると考えられる。

警視庁の自販機設置業者は入札によって決定される。詳細は以下のページを参照のこと。

この辺は少し詳しくなくて、ぜひとも詳しい人に教えて欲しいのだけど、こういった入札による契約では、あくまで「自販機を設置する場所を貸す」とう形態をとられることが多い。つまり、業者は自販機の設置場所をいくらで借りるか入札する。その結果によって賃貸料を納付し、自販機を設置するのだ。まあ、商売する場所を借りるというスタイルだ。特定の業者だけを優遇して自販機を設置しないためにこういった措置が取られている。

つまり、室井さんの件も、ちょっと本庁のそういった自販機などの契約を管轄する部署に「湾岸署に一台入れといて、入札よろしく」と言っただけである可能性が高い。室井は何もしていない。豪快どころかずいぶんとみみっちいやつだ。

さらには、警視庁にとっても賃貸料が入るわけでそこまで損をしているわけではない。業者としても、確実に売れそうと睨んで入札してくるわけだから、設置できてうれしいはずだ。みんな勝者だ。そうなると誰が損をしているのか、実は青島率いる湾岸署の面々なのである。

まず、設置された自販機はフリードリンクであるはずがない。おそらく入札時の条件で「販売価格は定価以下とすること」と決められているはずなので、ジュースが割高ということはないだろう。けれども、お金を出して買わなければならないのである。別にそれを損とは思わないが何せ、湾岸署側は室井に1本缶コーヒーを差し出している。それの見返りがないのである。

言わせていただくと、青島は、いいや湾岸署の面々は自販機が一台入ったことで何か得をしたのかということだ。依然としてお金を出して缶コーヒーを買わねばならず、さらに今までなかった場所に設置されたというわけでもない。威風堂々と数台の自販機が軒を連ねる末席にもう一台追加されただけなのである。下手したらちょっと休憩所が狭くなってうざい、くらい思ってしかるべきなのである。

これは非常に官僚的行為だ。室井はまるで豪商のような荒々しい気前の良さを演出しているが、実際に自分の懐は一切痛んでいない。本庁も痛んでいない。みんなよってたかって湾岸署を食い物にしているのに、当の署員たちは感謝している。この搾取構造を搾取と思わせないマインドコントロールは戦後スキームにおいて政府が一貫して行ってきたことだ。

まるで豪快に振舞っているようで実はそうではない。これはあらゆる面で活用できる。

「あ、消しゴム貸してくれてありがとう。全部使っちゃった」

「もう消しゴム代返してよ」

「自販機ごと返してやる!」

こうすれば、消しゴム代をケチるみみっちい男とは思われない。けれども、相手方も別に消しゴムの自販機が欲しいわけでもないし、そもそもそんな自販機が存在するのか怪しいし、必要でもない。それだったら別にいいや、となる可能性があるのだ。こちらは自販機レベルで返還しようとしたのに相手が辞退したのである。

つまり、あらゆる要求に対して、自販機ごと返してやると言っておくと、ほとんど相手は尻込みするので、こちらもケチと思われずに、さらに豪快さをアピールできる。ただし、注意しなくてはならないのは、要求されているものがエロ本である場合はこの手法が危険という点だ。

「エロ本返してくださいよ」

「自販機ごと返してやる」

そう言ってしまうと、え、エロ本の自販機ちょっと欲しいかも、と男はみんな国道沿いの怪しげなエロ本の自販機に憧れているものである。そうなると完全に藪蛇で本当にこっそり堂とかの業者を探してエロ本の自販機を購入する必要が出てくるのである。

こういった自分の懐は痛めてないのに気前が良いように思わせる。このレトリックが踊る大捜査線にはあるのである。事件は現場でも会議室で起こっているのではない、自販機の置かれた休憩所で起こっているのである。