読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

何度目の青空か

(本日は作者取材のため休載です。リライトでお楽しみください。)

 

JR中野駅から西へと続く中央線の真っ直ぐさは、時に愚直で時に効率的でまるで人の生きる道のようだと感じる。そう、これはまさに人生なのだ。

車内では多くの人が思い思いに過ごしている。スマホに向かい遠くの誰かと繋がる人、談笑し近くの誰かと繋がる人、束の間の睡眠と繋がる人。車窓の景色に思いを馳せる人もいるかもしれない。けれども、この中央線の真っ直ぐさに思い至る人はほとんどいない。

地図上で確認してみても、やはり中野から立川までの区間は驚く程の直線だ。普通、鉄道路線といえば地形的問題が絡み、さらには地域住民の思惑も絡み、ありえない蛇行をしたり非効率的なルート設定になっていたりする。狭い日本、それも大都会東京となればなおさらだろう。けれども、そんな思惑を超えて、定規で線を引いて「ここ走ろう」となったかのような雰囲気を携えている。それが中央線だ。もはや堅物のような人格すら感じてしまう。

僕は中央線が大好きだ。無骨な車両が好きだし、融通の効かなさやすぐ遅延するとことろが愛おしくてたまらない。このあまりに真っ直ぐなルートも、効率的と見るのではなく、不器用ゆえの真っ直ぐさ、と捉えてしまうほど愛してしまっている。

そんな中央線に揺られていると、どこからともなく会話が聞こえてきた。ラッシュ時間も随分と過ぎ去り、西へと真っ直ぐ走り続ける中央線の車内は人もまばらだ。少し耳を凝らせば会話が聞こえてしまう。

「でさ、言われたわけよ、私ほどのラーメンオタクはいないって、可愛い顔してえげつないほどのラーメンオタクって言われちゃった。失礼しちゃうわー」

電車の揺れる音、車内の喧騒の中でそのセリフだけがハッキリと聞こえた。内容自体は大したことがない。女性の声でいかに自分がラーメンオタクであるか主張する内容だ。「嫌になっちゃうわー」というセリフだが、その語気は誇らしげでもあった。ラーメンオタクであるというステータスと、可愛い顔をしているというステータス、この二つを前面に押し出しているかなり上級者な香りがした。

はてさて、そこまで言う「可愛い顔してえげつないほどのラーメンオタク」可愛い顔とラーメンオタクが両立しないメソッドも気になりますが、それ以上にそこまで言う可愛さとはとはどんなもんですかな、おそらく車内にいた全員がそう思ったに違いない。僕も当然のことながら気になって仕方がなく、チラッと声がした方に視線をやった。

そしたらアンタ、国で言うとベラルーシみたいなブスが優先席の中央に鎮座しておられるじゃないですか。いやいや、ベラルーシって東ヨーロッパに位置する国で、かなり美人が多いんですけど、そういうことじゃなくて、ベラルーシの国土みたいな、地図で見たベラルーシみたいな顔の形したブスが「わたし可愛い顔してラーメンオタク」みたいなこと言ってるんですわ。

さすがにこれは温厚で知られる僕もちょっと納得がいかないというか、理解できないというか、っていうかどんなプレゼンの達人がやってきてプレゼンしてくれたとしても理解を得られないと思うんですけど、さらにベラルーシが続けるんですよ。

「あ、吉祥寺にもうすぐつくね。私さもっとオシャレすれば可愛くなるのにって言われるんだけど、吉祥寺とか渋谷でも服屋よりラーメン屋が気になっちゃうんだよねー」

とか、首都ミンスクあたりになりそうな場所をヒクヒクさせながらいうてるんですわ。もう完全に「かわいい女の子なのにオシャレとかに興味なくてラーメンに夢中なワタシ」ってのに酔いしれてる感じなんですけど、早い話、僕が怒れる神々だったら、ベラルーシに幾度も裁きのイカヅチを落としてるってくらい、彼女の主張がうざったかったんです。

人は他人にそこまで興味がない。つまり、いくら熱く何かに夢中であるかを語られたとしても、それで心が動くことなんてほとんどないんです。他人が何に夢中になってようが別に自分には何の関係もないんです。だからそれを聞かされる、それもかなり熱く語られるなんてできることなら避けたいことなのです。

そういった事情もあるし、彼女の場合はさらに明らかに言って欲しいわけじゃないですか。そんなカワイイ顔してラーメン好きなんて変わってるねって言って貰いたいわけじゃないですか。ホント、ラーメンをなんだと思ってるんですか。ラーメンを食べて替玉を頼むか、いや、それなら最初から大盛りにすべきでは、ってか半チャーハンいくか、いやそれいったら1000円超えるだろ、なんて戦略を立てている俺たちオッサンのこと舐めてるんですか。

ですから、そういう気持ちが透けて見えちゃうわけですからあ、不愉快とまではいかなくても、あーあ、みたいになんともやるせない気持ちになるのです。

そもそも、自分が何かの大ファンである、夢中であると声を大にして主張する心理とはどのようななものなのでしょうか。

純粋に大好きで大好きでたまらなくてなるべく多くの人に知ってもらいたい、広めたいという真っ直ぐな想いもあるでしょう。こういった単純な思いってのは賞賛されるべきですし、もっと声を大にして良い物は良いと広めて欲しい、そう思うのです。

けれどもね、やはり多くの場合が件の彼女のように、その裏に何らかの別の思惑が透けているんですよ。それ自体は別に悪いことでも何でもなく、極めて当たり前なことなんですけど、それを純粋な気持ちと混同すると、その歪が大きな悲劇を巻き起こすケースもあるのです。今日はちょっとそんな事件について語ってみましょう。

あれは今から数年前のこと、我が職場ではベテランと新人が組んで泊りがけでオリエンテーション的なことをして互いに研鑽するっていう、一体誰が得するのか理解できないゴミみたいな行事があるんです。僕が新人の頃にこれに参加したら、一言も喋らないオッサンがパートナーで、互いに研鑽どころか日々険悪になっていくという悪循環、解散前のお笑いコンビみたいな気分を毎日味わえる研修になってたんです。

そして、このクソ行事に今度は新人としてではなく、先輩サイドとして参加することになったんですが、そこで組まされた新人を見てビックリ、ゆとり世代が具現化したみたいな完全無欠の若者代表って感じの男だったのです。

研修場所へと向かう移動の車内、何故か妙に気を使って僕が新人に話しかけます。

「どうかな、仕事には慣れた?」

「まあまあっすね」

どっちだよ、と思いつつも無難に会話をこなしていきます。けれどもやっぱ全然打ち解けてないですから、間隙的に訪れる沈黙がなんとも重くて痛々しいんです。さすがに新人類といえどもそういった沈黙を重苦しく感じたのか、新人の方から話しかけてきます。

「patoさんはエグザイルとか好きっすか」

なるほど、彼はエグザイルが好きなのか。そうやってみると彼も意識しているのか、エグザイルのサングラスの破片から生まれてきたみたいな出で立ちをしている。それにしてもどうして突然こんなことを言い出すのだろうか。

この質問から察するに、彼はエグザイルのことが好きなのだろう。いや、話題のトップにもってくるくらいなのだからそれは心酔というレベルなのかもしれない。尊敬しているのかもしれない。では、なぜそれを今、こうやって口にし、僕に投げつけるのだろうか。

ここで僕が俺もエグザイル好きだよ、とか言って、まじっすか、オーイエス、パシン、ブラザー!となるとでも思っているのだろうか。残念ながら僕はそこまでエグザイルというものを知らないし、語るほどの土壌も持ち合わせていない。というか、たとえ好きだったとしても完全に意気投合してハイタッチまでは絶対にいかない。

ではなぜ彼はエグザイルを口にしたのか。これは彼なりの宣言ととるべきだろう。そもそもここでのカミングアウトは話題の共有という意味合いはありえないし、前述したような沈黙に耐えかねたわけでもない。ついつい夢中なものについて語り始めていしまうほど無邪気とも思えない。生じ得る可能性を潰していくと、もうこれは宣言だとしか考えられないのだ。

俺はエグザイルとか好きな感じのアウトローだ、みるとアンタオタクっぽいよな、俺とは住む世界が違うジャン。だから仲良くなろうとか考えて立ち入ってこないでくれる?チェケラ!

こういうことかもしれない。なるほど、それなら全ての辻褄があう。そう、これは彼からの決別宣言なのだ。仲良くはなれない、そういう宣言なのだ。よくよく見るとお互いにファッションも全然違っていて、研修に向かうカジュアルファッションと言えども彼はほのかにアウトローの香りを漂わせている。ZIPPOライターとか似合いそうだ。反面、僕は頭の先からつま先まで全身ユニクロで、これがマックスのオシャレっていうんだから、そりゃあプラダを着た悪魔ならぬユニクロを着た悪魔の異名も伊達ではない。

やはりここは僕もアイドルが好きだとカミングアウトし、住む世界が完全に違う、俺も仲良くするつもりはないってことを宣言してようと思ったけれども、やめておいた。そういった裏の意図にアイドルを利用したくなかったからだ。僕にとってアイドルとは心の芯の一番柔らかい部分を包み込む哲学で、おいそれと人に話したくはないからだ。ましてや裏の意図を持って伝えるなんてアイドルに対して申し訳なくてできなかった。まるでアイドルを利用しているようで、例え命を奪われたとしてもそんなことはできない、そう思ったのだ。

人は何かを好きだと宣言するとき、純粋で真っ直ぐな気持ちだけでそれを宣言していることは極めて稀だ。やはり何か裏の意図が介在することが多い。だからこそ、僕は気軽にアイドル好きをカミングアウトすることができなかった。アイドルに失礼だから。

僕は押し黙った。それが僕なりの決別宣言だった。彼も理解したのか、以後は会話することなく重苦しい沈黙だけが二人を包んでいた。

研修場所に到着すると、どうやら僕たちが最後だったらしく、宿泊するホテルのロビーでは既に何組かの先輩社員と新人社員のペアが仲睦まじく談笑している姿が見られた。なるほど、ここに至るまでにかなり親密度が上がっているようだ。その勢いで研修も協力してクリアして、己の評価を高めようという計算なのだろう。

「俺まじで武井咲に似てるって言われるんっすよ」

「なるほど、確かに女みたいな顔してるもんな」

「あんま嬉しくないんですよね、笑った顔がそっくりとか言われても」

横のソファで談笑していたペアの声が聞こええてくる。内容自体はクソどうでもいいんだけど、先輩も後輩も軽口を叩きあってかなり楽しそうだ。その光景を見て、僕は新人としてこの研修に参加していた時のことを思い出していた。

僕が当たった先輩は前述のとおり一言も喋らないオッサンで、もう何が何やら分からずパニックになってしまい、仕事を辞めたい気持ちがマックスになったものだった。それと同時に決意した。僕が先輩となった時は後輩にそんな思いをさせてはいけない。むちゃくちゃ打ち解けて安心させてやるんだ。こんな先輩になりたいって思うくらい楽しい研修にしてやるんだ、そう誓ったのだった。

それが今やどうだ。自分の置かれた状況に胸がキュッと締め付けられる思いがした。僕はまさか、あの時の無口なおっさん先輩と同じことをしているのか。なんだかすごく胸が苦しかった。

いよいよ研修が始まった。研修内容は極めてシンプルで、配布された地図に記されたチェックポイントを巡っていき最終的な目的地を目指すというものだった。こう言ってしまうと凄まじく簡単そうに聞こえるけど、実際にはむちゃくちゃ山岳地帯だし、道になっていない場所もあるし、地図上に示されたチェクポイント蓮コラってくらいに無数にあるし、ざっと見ただけでも3つくらいの峠を超えなきゃいけない感じでかなり難易度が高そう。

「お互いのペアで協力してクリアしてくださいねー」

小学生みたいに半ズボンはいた怪しげなインストラクターのオッサンが右手を挙げながら声を張る。気の巡りが悪いとか言って怪しいネックレスを売りつけてそうなオッサンにそう言われても素直に聞き入れる気がしない。それよりなにより、我がペアの場合、どんな山越えよりどんなチェックポイントより「ペアで協力して」の部分が困難だ。

ほかのペアは「よーし協力するぞー」「足引っ張るなよ」「先輩こそ」「ゴールしたらビールだ」とかやってんですけど、こっちのペアは完全無言。後輩なんてずっとスマホをポチポチしてますからね。きっとツイッターか何かで「研修だるー、なんかキモイやつとペアだしよー、早く帰りたいナウ」とかやってるに違いありません。それに返信がついて「キモイ先輩うp」とかなってるかもしれません。隠し撮りされた画像がアップされ、「うわキモ」「こんなのとペアとか私なら無理」「古いお札とか集めてそう」みたいに好き放題言われて、ラッパーみたいなフォロワーが大いに盛り上がって知らぬ間に僕をdisる曲が発表され、知らないうちにアンサーソングを作る羽目になるかもしれません。

とにかく、そんな不安しかない研修なのですが、始まってみるとやはり難易度が高く、富士の樹海に迷い込んだみたいな状態になっちゃいましてね、チェックポイントを探すんですけど全然わからないんですよ。おまけに僕らペアは相談どころか会話すらありませんから、黙々と無言で同じ場所をグルグルとしててですね、傍目にはコミュニケーション不全のヘンゼルとグレーテルですよ。

何回も同じチェックポイントに現れるもんですから「第四チェックポイントのデジャブ」って呼ばれたりしてですね、全く攻略できないまま初日の研修は終わったのです。

もちろん難易度の高いコースですから、初日に攻略できたペアはいなかったんですが、どのペアもそれなりの手応えを掴んだ様子。和気藹々と明日はこうやって攻略するぞーみたなことを相談してるところで、僕らペアだけ完全無言。とんでもない疎外感を感じちゃいましてね、パズドラで自分だけ曲芸師を持ってない、みたいな全然勝負にならない感じになってたんです。

「苦しい時こそペア内で楽しみを見つけましょう。例えば特徴的な地形に名前をつけたりして楽しむんです。それが自然との楽しみ方ですよ。さあみんな明日もがんばりましょう」

詐欺師みたいなインストラクターが言います。なんだよ、地形に名前つけるって安いシャブでもやってんのか、と思いつつ、研修初日の夜は更けていったのでした。

研修二日目。この日はあいにくの雨でした。気温もぐっと下がり、足元もぬかるんでいて難易度がさらに高まっています。支給されたカッパを身に纏い、昨日と同じように研修がスタートします。

相変わらず無言の僕たちですが、僕はジッと地図を眺めながら何度も第四チェックポイントに行ってしまう「第四チェックポイントのデジャブ」現象の対策を考えていました。普通に考えて、コースの途中にあるかなり険しい峠がネックになっていて、ここでコースを見失ってしまって何度も同じところをグルグル回る羽目になってしまう。つまり、この最も険しい峠の攻略がポイントになる。そんな結論でした。

けれども、僕らは協力も相談もしない無言のヘンゼルとグレーテル、いくらそこを理解していようとも共通認識として理解していない限り同じことの繰り返し。そう落胆した時のことでした。

「思うんすけど、この険しい峠が一番問題だと思うんですよね」

後輩からの突然の申し出。こころがざわついた。雨音に混じって山鳥の声も聞こえていた。

「お、おう」

僕がそう返事すると、後輩は地図を片手にこちらに歩み寄ってきた。

「ここの一番険しい峠が道を見失う原因になっていて......」

その見解は僕のものと同じだった。さらに後輩は続ける。

「あ、そうだ、ここの一番険しい峠のこと、絶頂峠って呼びましょう。なんか絶頂ぽい形だし」

これには頭をカチ割られる思いがした。この峠の地図を見て絶頂を連想する感性はともかく、彼は文字通り歩み寄ってきたのだ。それは話しかけてくるという歩み寄りや、協力しようという歩み寄りを超越し、あの詐欺師みたいなインストラクターの教えを守り、地形に名前をつけて楽しもうという姿勢を見せてきた。

「そうね、絶頂ね」

けれども、やはり僕は突然のことに驚き戸惑い、訳のわからない返答をしていた。それは頑なな心なのかも知れないし、先輩としてのプライドだったかもしれない、なにより彼の方から歩み寄らせてしまったことを大いに悔いた感情だったのかもしれない。僕はあの日、僕が新人だった時にあてがわれたあの先輩と同じだったんじゃないか。そう思えてよくわからない混沌とした感情が心の中を支配しし、一日中よく分からない返答に終始していた。耳に響く雨音が心に痛かった。

僕らはついに歩み寄りをみせた。それでもやはり絶頂峠は攻略できず、僕らはまた第四チェックポイントのデジャブとなり、研修二日目を終えた。

「明日は最終日です!みんな頑張って!」

インストラクターは喋り方から仕草が完全におネエ系になっていた。さすがに二日目ともなると何組かはクリアするペアが出てきて、焦りみたいな感情が沸き上がってくる。それよりなにより、自分の行動を恥じていた。

確かに、彼は決別宣言ともとれる「エグザイル好き」宣言をしてきた。人が何かを好きと宣言するとき、そこには裏の意図が介在する。それが決別宣言だったのだ。それを汲み取った僕は彼に対しそれなりの対応をした。けれども、それはさすがにあまりに大人げなかったのではないだろうか。今日の歩み寄りをみるに本当に彼は純粋にエグザイルが好きで、チューチュートレインの話とかヒロの話で盛り上がりたかっただけなのかもしれない。

そうやって心の扉を開いてくれた彼を無下に扱った自分を恥じたし、僕も彼のように何の裏の意図も持たせずにアイドル好きと宣言するべきだった。今の僕にはそれをする自信はないけど、もっと距離を縮めるべきだった。どうして、あれほど喋ってくれない先輩が嫌だったのに。自分が先輩になったら後輩と楽しく研修しようって誓ったはずなのに。月日の変化と立場の変化はこんなにも人の心を風化させるのかと悔やんだ。

「明日こそは彼と協力してゴールを目指そう」

これまでの行動を恥じることなんて、後悔することなんて誰にでもできることだ。問題はそこからどうするかだ。過去はもう誰かのものだ。けれども未来は誰のものでもない。後悔し自分を恥じる。そこからどう行動するかだ。過ちは失敗をすることではない。失敗を理解してなおも改めないことこそ過ちなのだ。もう僕は過ちを犯さない。

まずは彼と小粋な話でもして打ち解ける。さすれば何の打算もなく純粋な気持ちでアイドルの話だってできるだろう。そして協力してあの絶頂峠を攻めて攻略することだってできる。そう決意し、雨に濡れた体を温めようと大浴場へと向かった。

このホテルの大浴場は比較的大きくて開放的だ。やはりみんな雨で濡れた体を温めようと大浴場に押し寄せていて脱衣所はかなり混み合っていた。その隅っこで申し訳ない感じで服を脱ぎ、浴場へと向かう。ドアを開けるとムワっと温泉特有の湯気が僕の視界を奪った。

かなり湯気が立ち上がっていてほとんど見えないのだけど、湯気の向こうには風呂桶がカポーンとしている音などがしていてかなり賑やかで、それだけで混み合っていることが伺えた。手探り状態で洗い場方面を目指すと、湯気の中から人影が現れた。

後輩だ!

どうやら後輩はもう全てを済ませて脱衣所へと向かうようだった。これまでの僕だったら無視してすれ違っていただろう。けれどももう僕は違う。僕と後輩は打ち解けるのだ。今日は後輩の方から歩み寄ってくれた、ならば今度はこっちから先輩としての度量を見せる番じゃないのか。僕は決意した。

そして、すれ違うや否や、後輩のお尻をペローンと触った。ちょっと軽いおふざけみたいな感じで、イタズラ的な感じで軽くお尻を触った。完全にセクハラなんですけど、まあいいかなって感じでジョークっぽくやってみた。

驚いてこちらを見る後輩、湯気で表情は見えないけど、冷たいと思っていた先輩の粋なイタズラに目を丸くしているに違いない。ここでトドメのセリフだ。

「明日は絶頂を攻めるぞ!」

決まった。そう思ったね。完全に打ち解けたし、協力して絶頂峠を攻略する意思も示せた。後輩は今日の僕の反応と同じなのが、急激な歩み寄りに動揺したのかそそくさと脱衣所に行ってしまった。うんうん、その気持ちわかるぜ。でももう大丈夫。明日には二人とも打ち解けているさ。

そして夜が明け、いよいよ研修最終日が始まる。

まだスタート時間には30分ほどあるが、ロビーに集合して待っていると後輩がやってきた。しめしめ、昨日のいたずらについて何か言われるだろうか。昨日はびっくりしましたよーとか言うだろうか。そこから急速に仲良くなってアイドルの話とかしてやろう。そう考えていた。

「おはようございます」

けれども、後輩の様子がおかしい。いや、昨日からあまり変化がないのだけど、変化がないことがおかしい。昨日あれだけ勇気を出して生尻を触るという歩み寄りを見せたのだ。そんな砕けた感じで急接近したのだからそれなりに二人の関係が変化していなければならないはずだ。けれども、あまりに変化が無さ過ぎる。まるで昨日のことが存在しなかったかのようだ。パラレルワールド?一瞬そう思った。

例えるならば給湯室でキスしてきた先輩社員がいてドキドキしている佐和子なんだけど、次の日、赤坂さんは至って普通でまるであのキスなんてなかったみたいで、ずるいよ、こんなにドキドキさせておいて、ずるいよ、って、全然どうでもいい例えでしたね。けれどもとにかく不可解なんです。俺、昨日お前の尻触ったけど何かないわけ?って質問するわけにもいかないし、どうしたもんかと思慮していると、隣のペアの会話が漏れ聞こえてきたんです。

「先輩、昨日よく知らない人に風呂場で尻触られたんですけど」

「まじでそれやばくない?」

え?って耳を疑いましたね。驚いて声のした方を見ると、後輩に背格好が似た男が必死に先輩社員にどんな感じで尻を鷲掴みにされたか説明してるんですわ。

「で、驚いて顔見たらにたーって笑ってて、完全に鳥肌もんですよ」

「やべえな」

うわー、僕、間違ってあいつの尻を触ってるわ。そりゃ大浴場でよく知らないオッサンに尻を鷲掴みにされて二ターって笑われたなんて恐怖以外の何物でもないですよ。

「でね、二ターと笑ったあとに言うんですよ」

「ふんふん、なんて?」

「明日は絶頂を攻めるぞって」

「うわー、なんだよそれー。危ない奴だなー。気を付けないとヤバいな」

セリフがまずい。絶頂峠を攻めるつもりで言ってるのに、なんか二人で性の奥義を極めようみたいな提案になってる。ヤバい、マズい、間違いない。

そんな感じで聞き耳をたてていると、なんかその尻触られたやつも、なんか隣で聞いている奴、二ターって笑ってた尻触り犯人に似てない?みたいに気づいたらしく先輩とコソコソと相談し始めたんですよ。「あの隣にいるキモい男が触ったやつっぽいです」「あいつ知ってるけど、部署の栗拾いツアーに誘われないような奴だよ」「やばいっすね」みたいな会話をしているに違いありません。

これはまずい。このままでは大変な誤解を受けてしまう。なんとかしてそういう趣味もないし、人違いで触ってしまったってことを伝えなくてはなりません。しかし直接伝えたとしてどうやって尻を触った理由を納得してもらえるでしょうか。スキンシップで、人違いでと言ったところで泥沼なような気がします。ほんの数秒の刹那、僕の頭はフル回転しました。

そうだ、アイドル好きであることをアピールしよう。とにかく熱くアイドル好きであることを語れば、今は怪しんでる彼らも、あんなにアイドル好きなら男の尻を触ったりはしないだろう、もっと辻斬りみたいな奴が触ったに違いない、そう納得してくれるはずです。

「いやさ、俺ってむちゃくちゃアイドル好きでさ」

目の前の後輩に向かって大きな声で喋ります。隣のペアに聞こえるよう、とにかく大きな声で語りかけます。尻を触ったのは僕じゃない、そんな魂の慟哭でした。

「それで今やっぱり好きなアイドルは......」

あれだけ純粋な想いだけでアイドル好きを語りたいって願っていたのに、後輩と仲良くなる純粋な気持ちだけでアイドルを語りたいって思っていたのに、今や尻を触ったのは僕ではないという途方もない打算でのアイドル語り、悲しきアイドル語り。

ここで本当に注目しているアイドルや、好きなアイドルの名前を出して、はあ?って理解してもらえなかったら効果がないと判断し、世間一般の認知度が高そうな人の名前を出します。

「武井咲とか本当に好きで」

決まったな、こりゃ決まったなって思いましたね。武井咲がアイドルかどうかの議論は別にして、知名度はピカイチ、これで件の彼も納得してくれたに違いない、そう考えて彼の表情を見ると、さらに恐怖におののく表情じゃないですか。

しまったー、こいつ、研修に来た時に最初に「男なのに武井咲に似てるとかいわれるんすよー」とか軽口叩いてたやつじゃないか。ここでこれはクソ逆効果。とまあ、あとはシドロモドロでよく分からない、「アイドルと男の尻は無関係」みたいな半分自白みたいなことを喋ってました。

まあ、結構偉い目の人に尻を触らないようにって後日厳重注意されて、武井咲似の彼にも謝罪するに至ったわけなんですけど、結局、その日の研修は後輩と一言も会話せず、第四チェックポイントのデジャブと化してました。たぶん、僕の唐突のアイドル好き発言が、住む世界が違うという決別宣言に聞こえたのでしょう。

人はその思いを人に伝えるとき、何らかの裏の意図が介在する。少なくとも唐突にそれを聞いた人間は、何らかの意図を無意識に感じ取るはずだ。本当に好きなことなら言葉にせず、行動で示したほうが伝わるのかもしれない。いまだラーメンについて熱く語っているベラルーシを眺めながら、昔を思い出して少し切なくなった。

愚直な中央線は今日も真っ直ぐ進んでいく。この中央線のように何の打算もなくまっすぐ生きられたら人はどれだけ楽なのだろうか、そう思いながら電車に揺れれていた。