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うんこ5分前仮説

もしこの世界が5分前に作られたものだとしたら。

そんな思考実験を「世界五分前仮説」ということを知ったのはインターネットにそう書いてあったからだ。これは「この世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説で、どちらかといえば哲学の部類に入る。

そして、この仮説を完全に否定することは不可能とされている。つまり、本当にこの世界は5分前に作られたかもしれないのだ。5分前以上の記憶があるのだからそんなことはありえない、と否定したとしても、ただ単にそれは5分以上前の記憶を植え付けられた状態で世界が始まったに過ぎない、となり、仮説を否定することにはならない。

もっとわかりやすく言うと、5分以上前にオナラをした記憶があり、部屋内にはまだ臭気が立ち込めていたとしても、その記憶は植え付けられたものだし、臭気も誰かが準備したものなのだ。もしかしたら、残り香があるという感覚だけを植え付けられている可能性だってある。

これは記憶と過去の連続性、という話になるのだけど、ここではその話はしない。あらゆる過去を立証する手段が、5分前にそういう風に作られただけ、と説明されればそうであるとしか考えられないわけだ。今こうしている僕も、その周りも、すべてが5分前に作られた可能性を完全には否定できないということである。

こういった思考実験は、答えが出ることはほとんどない。むしろ、答えが出ないから好まれる傾向にあり、まあ、暇だということしか言えないのだけど、応用して発展させることで人生というものをより良いものにできる。

例えばこういった思考実験で最も有名といえる「シュレディンガーの猫」というものがある。これはまあ、ある条件で毒ガスが出る装置と猫が箱に入っている。ある条件を満たせば、毒ガスが出てネコは死ぬし、満たしていないなら生きている。結果は箱を開けるまで分からない。つまり、箱を開けるまでは猫は生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている、というやつだ。

これを応用すると、すごいウンコがしたい、かなり危機的状態だ。けれども、実際に箱を開けるまでには、ウンコを漏らした僕と、涼しい顔をした僕が重なり合った状態で存在する。例え、漏らしたとしても、観測者が観測するまでは、漏らしていない自分も重なり合っているのだ。これは漏らしてベチョベチョになっている僕としては随分と心強い。

モンティホール問題、という有名な確率論の思考実験もある。あるクイズ番組で、プレイヤーの目の前に3つの扉があり、それぞれ閉まっている。1つのドアの後ろには景品の新車があり、残り2つのドアの後ろには、はずれを意味するヤギがいる。プレーヤーが1つのドアを選択すると、司会者のモンティは、選択されなかったドアのうちヤギがいるドアを開けてみせる。これで新車がある可能性があるドアはプレイヤーが選んだドアか、モンティに開けられなかったほうのドアか。ということになる。ここで司会者からプレイヤーにドアを変えてもいい、と言われる。その場合、プレイヤーは変えたほうが新車が当たる確率が高くなるのか?という問題だ。

これは直感的には、変えようが変えまいが新車が当たる確率は同じ、と思うかもしれないが、細かい条件があるが、実は変えたほうが2倍当たる確率がある、という答えになっている。直感で感じる確率と実際の確率が違うというパラドックスの問題だ。これも現実世界に応用することができる。

今、おなかが痛くてトイレに駆け込んだところ、三つある個室ブースがすべて閉まっていたとする。プレイヤーは腹を抱えながら一つの個室の前で待機した。すると、予想通り、目の前の個室が開いたが、そこはどういう使い方をこうなるのかと目を疑いたくなるほど汚れていた。ちょっとここに腰掛けるレベルではない、なんかドワーとかなってる。前の奴は何をしてたんだという状況の場合だ。

ここで司会者のモンティが現れ、隣の個室のドアを無造作に開けたとする。そこにはウンコをしているサラリーマンがいて急に開けられたので激怒している。モンティはその怒りを全然気にしていない様子だ。結構図太い。この場合、このまま汚れた個室でウンコをするのか、それとも開けられていないもう一つの個室を開けるのか、という問題だ。

直感的には、汚れた個室でウンコをするのが正解のようにおもうかもしれないが、実はそうではない。もう一つの個室を開ける、が正解である。なぜなら、モンティが開けた個室で激怒しているサラリーマンの怒号を聞いて、もう一つの個室のサラリーマンもウンコを終わらせる準備をするはずだからである。結果、そこそこ綺麗な個室でウンコをすることができる。というわけだ。

このように、多くの思考実験は答えが出ることはないが、私生活に応用すればそれはそれは健やかな時間をすごすことができる。そこで冒頭の世界五分前仮説を思い出してみよう。ぶっちゃけるとこの世界が5分前に作られようが何億年前に作られようがどうでもいいのだけど、これを私生活に応用するとなかなか役立つ。

例えば、ウンコに行きたくて仕方がない。けれどもいけない。そんな状況を想像してみよう。重要な会議の席とか、厳粛な葬儀の途中とか、熱海浜松間の電車の中とか、そういうシチュエーションを想像するといい。ウンコに行きたい、でもいけない!どうしよう!

ここで5分前仮説の登場だ。このウンコは5分前に作られたものだ。もしそれより以前にウンコが存在したとしても、それはそういった記憶を植え付けられただけにすぎない。つまり、これはまでできて5分のひよっこうんこである可能性があるのだ。なんだか我慢できそうだ。

また、不幸にもウンコを漏らしてしまった場合でも、それは実際に漏らしていない可能性がある。つまり、もしその漏らした記憶が5分以上前のものであるならば、それはそういった記憶を植え付けられただけで、本質的には漏らしていない可能性があるのだ。なんだか明日も頑張って生きられそうな気がしてくる。

このようなことを悶々と考えながら、コンビニでウンコをしていたら鍵が壊れていたみたいで、知らないおっさんにバーンとドアを開けられた。これも5分前仮説で、恥ずかしいのは5分間だけで、5分経過すれば、それはただそのような出来事の記憶を植え付けらている。実際には開けられていない、と心を慰めることができるのだ。是非ともお勧めの生き方である。

そして、あの開けたオッサンはもしかしたら司会者のモンティかもしれない。