空が明るくても月はそこにある

窓の外を見るとまだ空は明るいのに薄っすらと月が輝いていた。本来は夜にこそ発揮されるべき薄く白いその輝きは、まるで何らかの理由や訴えがあるかのように思えた。

昼間の月はその存在自体が悲しい。僕らは自然と月は夜に輝くものであると考えていて、本来はそこにいてはいけないくらいに思っている。昼間に月が見えようものなら、やや場違いくらいに思うはずだ。

ただ、月は普通にそこにいる。昼間だろうがなんだろうがそこにいることは多い。ただ自分で光ることが来出ず、ただ太陽の光を反射することしかできない月は、昼間の空にいても気づかれないことが多いだけなのだ。

こうして太陽との角度の妙と空の明るさによって、そこにいるのに気付いてもらえない昼間の月が見られるこの瞬間はなんだか悲しい。別に月は禁を破っているわけではないのに、そう捉えられてしまうからだ。本当に、昼間の月は淡く、薄く、悲しいものなのだ。

こうして空に月が見えるということは、少しだけ空が暗くなってきたことだろう。つまり、日も傾き、もうすぐ日没を迎えるということだ。そんな深い時間なのに、僕らはまだ教室に残されていた。

帰ることができなかった最大の要因は、「帰りの会」だった。これは毎日その日の授業を終えた後に催される会で、日直が司会となって開催される。あくまでも児童たちが自主的に開催している会という体裁をとっており、担任教諭はオブザーバー的に様子を見守っているというスタイルだった。

通常、この帰りの会は何も問題がなく滞りがなければすぐに終わる。朝の会で立てた「活発に発言する」などの目標が達成できたのかの確認や、注意事項の伝達、各種当番の確認など、長くても10分もあれば終わってしまう内容だった。

しかしながら、これはあくまでも平和な日の帰りの会メニューであり、実際は、滞りなく進行する日は稀だった。言い換えると、この会は常に紛糾していた。10分で終わる、なんて言われたら鼻で笑われるくらい長く重いものになっていた。

その原因の一つが、全ての帰りの会メニュー終了後に司会である日直が、 「他に連絡のある人はいませんか?」 と皆に尋ねるコーナーの存在だった。ラジオでいうところのリスナー投稿コーナーに近い。

大抵、でしゃばりな婦女子などが、どうでもいいような連絡事項を伝えるために手を挙げたりして面倒くさいことこの上ない展開になる。生き物係の女の子が、ありがとうって伝えるならまだしも、「みんなで飼っていた亀の太郎が死にました。みんなで黙祷しましょう」 などと、とんでもないことを言い出す。早く帰って遊びたい僕らはたまったもんじゃなく、ソワソワしながら黙祷したりなんかした。一度くらいなら太郎のために黙祷だってするが、それが何週間も続くので完全に狂気じみていた。こういった良くわからない要素が徐々に帰りの会を長いものにしていった。

しかしながら、もっと僕らの帰りを遅くし、なおかつ完全に意味不明な魔のメニューが帰りの会には存在していた。 それが「今日の困ったこと」というコーナーだった。これは考えたやつを中世に送り込んで磔にしてやりたいくらいどうしようもないコーナーだった。

なんでも、その日困った体験をした人が、皆の前でその体験を赤裸々に告白し、その困った体験がクラスの誰かが原因で引き起こされているならば、皆でその原因である人を告発し、正す。というなんとも有難いやら迷惑やら分からないコーナーだった。誰かが困ったら、皆で議論し誰もが困らないようなクラスを作ろう。そういう趣旨があったようで、確か女子の中心的な人物の発案で始まった新コーナーだった。磔にするべきである。

「今日、昼休憩の時に、赤井君と坂本君が廊下を走っていて私にぶつかりそうになりました、とっても困りました」

でしゃばり女子が、待ってましたとばかりに手を挙げて告発する。大抵このコーナーで告発する人物は決まっていて、ほとんどが女子だった。そして糾弾されるのは男子と相場が決まっていた。

女子達は一丸となって赤井君と坂本君を攻めたてる。赤井君も坂井君も最初はばつが悪そうに照れ笑いしているけど、その責めっぷりにどんどん顔色を失っていく。

「赤井君は昨日も走っていました!」

「その前の日も走ってました!」

容赦ない追撃とはこのことだ。赤井君も坂井君も完全に意気消沈。それでも女子は止まらない。

「ちゃんと謝ってください!」

とヒステリックにまくしたてる。 それを受けて、赤井君と坂本君は少し照れながら立ち上がり、

「廊下を走ってすいませんでした」

などと頭を下げる。そこに罪悪感はない。確かに廊下を走ることは悪いことかもしれない。けれども、このやり方では女子に責められ、ただ嫌な思いだけをして形だけ謝っているに過ぎない。本当の根っこのことろで走ったことを悪いと思っているかというとかなり疑問が残る。子供心にこれに何の意味があるのか物凄く疑問だった。

議論が一通り落ち着くと、担任の教諭(40代女)の登場である。教諭は全てをまとめにかかる。廊下を走った彼らに再度注意を促し、告発した女子をそれとなく誉める。そして、皆も廊下を走らないようにしましょう。 などと言って話をまとめ、終了である。 これで晴れて帰りの会は終了し、僕らは解放され、家に帰ることができるのだ。もちろん、赤井君と坂井君も、裏山の敷地を多学年の連中に取られないよう、廊下を走って消え去っていく。

そんなある日、またいつものように帰りの会が進行し、魔の「困ったことコーナー」が到来した時、一人の女子が手を挙げ、僕を指さしながらこう告発した。

「今日、ドッジボールのときに、pato君が中山君の顔にボールを当てていました!私、見ました」

途方もない告発だ。あまりこういうことを言いたくないが、ドッヂボールとはボールを当てるゲームだ。その過程で不幸にも顔面に当たってしまうこともあるだろう。決して褒められたことではないが、取り立てて責められるべきことでもない。

中山君とはクラスの女子に大人気のナイスガイで爽やか小学生だった。女子一番人気の中山君が被害者ということで女子達はいつも以上にヒートアップしていた。

「はやく謝ってください」

「はやく謝ってください」

「はやく謝ってください」

「はやく謝ってください」

もう女子達は謝れの大コールだった。女子たちがウェーブを初めてその熱気がスタジアムを取り巻き始めてもおかしくないほどの一体感だった。けれども、僕にだって反論の余地はある。

「ちょっと待て、俺は確かに中山君の顔面にボールを当てた。でもその場で中山君に謝ってる。それでも許さないと中山君が怒るのはまだわかる。でも、お前ら女子が怒るのは意味が分からない。なんか迷惑かけたか?」

帰りの会のルールでは発言の際には挙手をして司会の許可を得ることになっていたが、そんなルールも忘れて立ち上がり熱弁を振るった。

僕の長い人生において、これほどの正論を吐いたのはこの時だけかもしれない。それほどに的確で適切な反論だった。勢いづいていた女子一同は、少し困った表情を見せた。確かに……私達は迷惑してないわ……。勢いでコールに加わっていた大半の女子達は、困惑といった表情だった。一生そこで反省してろ、そう思った。

「迷惑かけてるわよ!」

告発した女子が再度立ち上がった。その目はまだ死んでいなかった。

「由美子ちゃんはね、中山君のことが好きなのよ。中山君が顔に当てられるの見て、由美子泣いちゃったんだから!!由美子ちゃんに迷惑かけてるのよ!!」

完全な逆恨みじゃねーか。そんなこと言われてもどうしようもない。

しかしながら、これで女子達には大義名分ができたことになる。

「そうだ!そうだ!謝れ!謝れ!」

の大合唱が始まった。由美子ちゃんなんて惨劇を思い出してか、再度泣き出す始末。死ねブス。

もはや手におえる状態ではない。別に悪いことしたとは思っていないが謝って終わりにしたい。でも、由美子ちゃんに謝る義務はない。というか、絶対に謝りたくない。僕のプライドが謝罪を拒みつづけた。謝れば帰れるのに僕は謝りたくなかった。

激しく交わされる議論、もはや収拾がつかなくなったとき日直が切り出した。

「じゃあ、謝るかどうか多数決をとります」

多数決とはこの世で最も愚かな意思決定方法である。まるで全ての正義かのように扱われているが、合理性のみを追求した最もまずいやり方だ。使用する場面を謝るととんでもないことになる。

この提案を拒否したいところだが「議論が割れた場合は多数決。その結果には従うこと」という鉄の掟が帰りの会にはあった。これだったら揉めたらコインでという旅団の掟のほうがまだ良い。

もはや逆らうことはできない。 結果は41対3の大敗だった。 こうして、僕はわけもわからず由美子ちゃんに謝ることになった。女子達は大喜び。 その他の男子達も「やっと帰れる」とばかりに大喜び。もはや拒める状況ではなかった。

「中山君の顔面にボールをぶつけてごめんなさい」

僕は由美子ちゃんに謝った。たぶん人生においてトップクラスに入る意味不明な謝罪だったように思う。

もはやこのクラスの帰りの会は民主主義や裁判なんてご立派なものではなく、ある種の魔女裁判のように機能していた。告発されたら道理に外れていようが、どう弁明しようが有罪である。逃れる術はない。そして、もっともっと残酷な事件が起こるのだった。そう、あの惨劇が。

帰りの会。また、いつものように女子が手を挙げお待ちかねの「困ったことコーナー」が始まった。告発タイムである。常連のラジオリスナーのような軽快さで女子の告発が始まった。

「最近、松井君の周りが臭いです。松井君はちゃんとお風呂に入ってください」

とんでもない告発だ。クラス中がざわめいた。

こう言ってしまっては失礼かもしれないが、 松井君の家は貧乏だった。うちの家も貧しかったが、その上をいく貧しさのように感じられた。僕は貧しい者同士、勝手に松井君にシンパシーを感じていた。

松井君はいつも汚らしい服を着ていた。しかも毎日同じだった。確かに風呂にもちゃんと入っていなかっただろう。少し垢っぽい感じがいつもしていたし、髪だってボサボサでフケだらけだった。

松井君の住んでいる借家には風呂がなかったのだ。銭湯に行く余裕もあまりなかったようだった。ボロボロのジャージをまるで制服のようにどんな場面でも着ていた。

しかし、いくら松井君が汚なく、臭いとはいえ、それは人として言ってはならないことだ。人には人の、松井君には松井君の事情というものがあるのだ。しかも、帰りの会という公の場で声を大にして告発してよい内容ではない。

この当時、帰りの会で謝る男子に気を良くした女子達は、かなり暴走気味になっていた。毎日、なにか告発して、男子をやりこめてやりたかったのだ。彼女たちはいつも満足げな表情をしていた。

しかしながら、男子だって、いつも帰りの会でやり玉に挙げられるのは嫌なものである。おまけに意味不明の謝罪をさせられるとあれば、そうならないように品行方性になっていく。もう廊下だって走らなくなったし、ドッヂボールでイケメンを狙わなくなった。そう、告発する内容がなくなったのだ。

本来の趣旨からすれば理想の世界の到来のはずだ。なにせ、困ってる人がいなくなったのだから。けれども、男子が品行方正になって困ったのは女子だった。颯爽と告発し、謝罪される快感は麻薬のようで、一度味わったらそうそうやめられるものではなかった。告発したい告発したい、男子に謝らせたい、彼女たちの想いは爆発寸前にまで達していた。

そして、この告発に至ったのである。何度も言うが、松井君だって家庭の事情があってのことだし、人として言っては いけないことである。しかし、女子達の暴走は留まることを知らない。

「そうよ、くさいわよ!」

「それに汚いし!いつも同じ服だし!」

「謝ってよ!」

汚くってごめんなさい、不潔でごめんなさい、と謝れというのだろうか。なにか間違っている。それを受けた松井君は悲しそうにうつむいているだけだった。なんだか僕はすごく心が痛かった。見ていられなかった。

僕は松井君が好きだった。彼は無口な方だったが、心優しいし、ギャグセンスは抜群で、たまに発する言葉の一つ一つが面白いし貴重だった。それに松井君は絶対に人の悪口を言わなかった。そんな松井君ぼことが好きだった。誰もが毎日風呂に入ってお洒落をして良い香りを振りまけるほど裕福なわけではないのだ。

松井君は今にも泣き出しそうだった。もう見ていられなかった。このままでは松井君が傷つきボロボロになってしまう。どうすれば松井君を救えるのだろうか。そうだ!先生だ!こんなことがあっていいはずがない。このような信じがたい告発を先生が見逃すわけがない。その内、この議論を先生が止めてくれるだろう。その上、女子達を叱りつけてくれるだろう。松井君を救えるのは先生しかいない。

そう期待してオブザーバーである先生に視線を移すと、 「うんうん活発な議論だわ。青春だわ」とでも言いたそうに微笑を浮かべて議論を見守っていた。だめだ、このババア。

松井君が今こうして傷つけられているというのに、まったく気づいていないどころか、よくやったといわんばかりの顔をしている。全てが狂っている。教室もクラスメイトも、先生も、全てが狂っている。そして、一番狂っているのは僕だった。

「早く謝りなさいよ!臭いのよ!」

女子達はもはや集団ヒステリー状態だった。 男子だって、面白半分に「臭い!臭い!」と囃し立てていた。

「はやく謝っちまえよ、帰れねーじゃん」

と少しニヒルを気取っている奴だっている。もはや松井君に味方はいなかった。この広いクラスに独りぼっちである。そう、僕はこんな状況にあって何も言えなかった。一番狂っていたのは僕だった。

僕は卑怯だった。怖かった。松井君と同じようにうちも貧しく、僕だって決して綺麗で清潔というわけではなかった。同じ服も結構着ていた。だから松井君をかばってお前も臭いって言われるのが怖かった。

慣例どおり、無情にも多数決が始まった。

「松井君が不潔過ぎるので、謝るべきだと思う人は手を挙げてください」

一斉に女子達の手が上がった。男子も手を挙げた。手を挙げなかったのは僕と松井君と最も親しかった友人それに松井君だけだった。大敗だ。

松井君は、不潔というだけでクラス中に謝ることになった。教壇に立ち、皆の方を向く松井君。涙が頬を伝っていた。どうしようもない卑怯な自分がそこにいた。

「僕が不潔で皆に迷惑かけてごめんなさい」

彼がどういう気持ちでこのセリフを言い、頭を下げたのだろうか。

「聞こえません!」

後ろの方で女子が叫ぶ。聞えているはずだ。ワザと聞こえないと言って何度も謝らせる。もうやめてくれ、これ以上松井君を傷つけないでくれ。何度も何度も泣きながら「不潔でごめんなさい」と謝る松井君を見て、僕も涙が出てきた。

「ほんとに臭いよね」

「そうそう、死にそうなぐらいに臭いよね」

「死ねばいいのに」

戦いに勝った女子達が勝ち誇ったかのように言う。さぞかし気分の良いことだろう。そしてまとめるために担任のクソババアが出てきた。

「はい、今日は活発な議論でしたねー。松井君も清潔にしてこなきゃだめよ。皆もちゃんと清潔にしてくるようにね」

コイツはほんとにバカでどうしようもない。

次の日から、松井君は学校に来なくなった。僕は何度も家まで誘いに行ったが、会ってはくれなかった。彼にしてみれば、何もすることができなかった僕も、よってたかって彼を傷つけたクラスメイト達と同罪なのだ。

松井君を誘いに家まで行くとき、まだ空は明るいのに淡く薄い月が見えた。月はそこにいたのである。それはまるで僕のようだとおも思ったし、松井くんのことのようにも思えた。僕らはそこにいてはいけない存在なのかもしれない、そう思えたのだ。

いまだに昼間の空にぽっかりと月が浮かんでいると、松井君のことを思い出す。薄く白いその輝きは、やはり悲しく、そして綺麗なのだ。その美しさが僕の心を締め付けるのだ。