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濡れたコースターとパステルピンクの彼女

人通りのまばらなアーケード通りは、まだ昼間の熱気が少しだけ残っていて、その場の空気を引き締めてくれるスパイスのように感じた。

遠くから聞こえる喧騒に混じった、信号機が青を伝える機械音は規則的で、まるで1秒ずつカウントダウンしてるんじゃないかって思わせてくれた。僕はそのカウントが進むたび、なんだか蜃気楼の中心に立っているような。そんな気がしていたんだ。

アーケード通りの少し奥まった場所に友人と立っていて、とりとめのない話をしながら待っている。けれどもやっぱり心は高鳴っていて、この繁華街という砂漠の中で蜃気楼を見て喜んでいるような、オアシスの幻影を見て心踊ろしているような、そん気持ちがしていたんだ。

「お、きたきた」

友人の一人が、遠くに向かって手を振った。横一列にパステルカラーの何かが並んでいた。女の子たちだった。

「紹介するよ、こちら、俺がバイト先で知り合った女子大のみなさん。みんな幼稚園の先生とかの勉強してるんだっけ?」

「よろしくおねがいしまーす」

また遠くから信号機の機械音が聞こえた。今度は1秒間隔よりずいぶんと早い、8ビートのリズムのように聞こえた。

少し洒落た居酒屋に8つのコースターが並ぶ。右側に四人、汚い男たちが座って、左側に四人、パステルカラーの女性たちが座った。

「よろしくおねがいします。大学では何の勉強されているんですか?」

僕の目の前に座った、パステルピンク担当の女性は、にっこりとほほ笑んでそう言った。僕は気が動転してしまって「常微分方程式を勉強しています」とあまりよく分からない供述をしていた。まさか大学さぼってサンダーVを毎日打ってますとは言えなかった。

パステルピンクの彼女は、少しだけお酒を飲んでニコリとこちらに微笑んだ。

僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。

不思議と、幸福な気持ちや舞い上がる気持ち、なんてものはなかった。むしろ逆に怒りがこみ上げてきたんだ。世の中の多くの男女が、恋だなんだと、こんなことをやっていたのか。こんなに浮かれてしまい、まるで無敵になったような、こんな気持ちをいだいていたのかって。サンダーVの3連Vで喜んでいた自分が妙に幼稚で恥ずかしいものに思えたんだ。

全体的にぎこちなかったこの会合も、時間の経過と共に少しづつほぐれてきて、活発に会話が交わされるようになってきた。

「誰かに似てると思うんですよ。いわれません? 誰々に似てるとか」

パステルピンクの彼女はそう言った。僕はすぐさま

「よく言われるのは、親父かな。親父に似てるって言われます」

彼女は親子だから当たり前じゃん、といった表情で笑った。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。そして怒りを覚えた。みんなこんな楽しいことをやってたんだって。

それからしばらくして、友人が声を上げた。

「そろそろ席替えします!」

席をシャッフルしようという提案だった。僕は少なからず動揺した。パステルピンクの彼女が僕の目の前の席からいなくなってしまう。焦燥感のようなものが芽生えていた。誰にもとられたくない。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。そして怒りを覚えた。みんなこんな苦しくも楽しい感情に身を任せていたんだって。

「一応、希望は考慮するんで隣になりたい人とかいたら教えてください!」

そう言った友人の言葉に、僕がまごまごと迷っていると、すぐさま反応して彼女が手を挙げた。

「わたし、彼の隣がいい」

そう言って僕を指さし、僕と目が合うと少しだけいたずらに笑った。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。

彼女が隣にやっていきて、いい匂いがした。他のみんなもすごく盛り上がってきて、おまけに隣のテーブルにパワハラサラリーマンの集団みたいなのがやってきて、一気に店内が騒がしくなった。

常微分方程式が……」

「え!? なに!?」

僕の声が聞こえないのか、彼女がすっと顔を近づけてくる。長い髪が僕の肩に触れた。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。もっと彼女のことを知りたい。ただ純粋にそう思った。

「お名前、なんていうんですか?」

僕がそう質問すると、彼女はさらに顔を近づけてきた。

「XXっていいます」

でも、隣のテーブルが盛り上がりすぎていて、彼女の名前が聞き取れなかった。

「え!?」

「XXっていいます」

 もし聞き取れたとしても、聞き取れないふりをしたほうがいいかもしれない。そう思うほどに彼女は顔を近づけてきた。また、柔らかな匂いがした。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。

「XXです」

あまりに聞き取れなさ過ぎて焦ってきた。わざとやってるんじゃないかって思われたらどうしよう、頼むから静かにしてくれ、そんな思いとは裏腹に、隣のグループはさらに盛り上がっていた。

彼女は何かを思い出したように小さなバックに手を入れ、ペンを取り出した。そしてキョロキョロと見回すと、半分ほどビールが注がれていたおしゃれなコップを手に取った。

そのままその下にあった少し濡れたコースターを手に取り、裏面に何かを書き始めた。きっと彼女は聞き取れないことを察して、文字で書いてくれたのだろう。もしかしたら連絡先くらい書いてくれるかもしれない。心が躍った。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。

「はい」

彼女は笑顔でコースターを差し出してくれた。コースターはグラスの水滴を吸って少しだけ濡れていた。裏面を見る。

「カエ」

かわいらしい字でそう書かれていた。ちょっと珍しいけどかわいい名前。

残念ながら連絡先は書かれていなかったが、かわいらしい字だった。ただちょっと字が汚かった。なんだか胸が高鳴った。このコースターに書かれた彼女の名前が、この騒がしく品のない空間で特別に交わす僕と彼女のピュアな暗号みたいで、すごくドキドキしたんだ。恋の始まりってこういうものなんだ、恋を大にしてみんなに教えてあげたい気持ちだった。

ただ、僕はその時すごく動揺していたんだ。どうしていいのか分からなくて、心臓の鼓動も、背中の方の体温も、今まで経験したことがないような状態になっていた。あと、ちょっとお腹が痛かった。

彼女の字が汚かったのもあっただろうけど、動揺して、おまけにかっこいいと勘違いしてメガネをしていかなかったのも原因だったかもしれない。すごいことが起こったんだ。

「カエ」と書かれた彼女の名前を「力士」って読んだんだ。

「リキシって変わった名前だね」

僕がそう言った瞬間だけ、隣のサラリーマンも、他のメンツも、店員も、もしかしたら通りの信号機すら、まるで霊が通った時みたいにシーンとなったんだ。

彼女はリキシじゃないってジョークっぽく笑っていたけど、そのあと、目すら合わせてくれなくなったんだ。僕はその時思ったんだ。恋の終わりってこういうものなんだって。

皆は二次会のカラオケにいくらしい。僕は一人、下宿のアパートにバスを乗り継いで帰る。

「力士はないよな」

そう呟いた僕の横で、少しだけゆっくりめに信号が青を告げていたんだ。きっと、あれは蜃気楼みたいなもんだったんだって思うようにしたんだ。もうすっかり昼間の熱気はなくなっていたんだ。