ランボー怒りのアフガン

人を怒ることは難しい。

怒りという感情を最小の単位にまで分解して考えてみると、根本というか怒りの泉源は2つに分類できることに気が付く。決して繰り返させてはいけないという想いか、単純に許せない、という想いかそのどちらかで怒っている。前者は、発展的怒りと呼ぶことができるが、後者は後退とまでは言わないが、何も先に進まない、停滞的怒りとも言い換えることができるかもしれない。

停滞的怒りとは、単純に自分の中のストレスを吐き出す行為である。自分の中に溜まった怒り、イラつき、不満、そういったどす黒い感情を吐き出し怒る。そうすればいくらかはスッキリするかもしれないが、怒られた方は結構たまったものじゃない。

では、発展的怒りの場合はどうだろうか。これは、「その怒りの元となる行為は避けることができたのか?」という点が焦点になる。今怒ってる、でも、その原因となった事象は避けることができなかったのか?そういう考えだ。できれば全ての怒りはこうありたいものなのだ。

いまいちピンと来ないと思うので、新入社員のミスを例に挙げて考えてみよう。ある新入社員がミスをした。そのミスによって多大なる損害が生じたとしよう。君は立場上、その新人を怒らなければならない。

その時に、生じた損害や、それによって自分の仕事が増えたこと、さらに上の上司から冷ややかな目で見られたこと、自分の評判も地に落ちたこと、それによって君の中にどす黒い感情が生じている。二度とこんなミスをしないよう怒らなければならない。そんな思いで激しく怒ることは発展的怒りであるように思えるが、実は停滞的なのである。単に、ミスを繰り返させてはいけないという錦の御旗を掲げて自分のどす黒い感情をぶちまけているだけなのである。

では、そのミスに至るまでに新人はそれを避けることができたのか?

これを中心に考えてみると話は変わってくる。こういうことがあるとミスにつながると新人に伝えてあったのか、もしくは新人はそれを知るチャンスがあったのか、そしてそのミスは深刻な結果をもたらすと知ることができたのか、我々が新人がミスする可能性に気づけなかったのか、そのための対策は立てられているのか、それらのこと全てを検証し、その上で新人の中に悪意や怠惰な気持ちがあった場合のみ、その悪意や怠惰に対してのみ怒るべきなのである。これが発展的怒りだ。

そうして考えると、よほど豪胆な新人でない限りほとんどが悪意もないし怠惰な気持ちもない。怒るよりはこちら側が反省すべきだよね、となる。壺を落としたら割れるという認識のない生物に壺を持たせて割れたとしても、だれがその生物を怒れるのかという話なのである。生物でなくとも、ベルトコンベアに壺を乗せたらウィーンと動いて向こうで落ちて割れた、これでベルトコンベアを怒る人は完全に気狂いである。乗せた人が悪い。

そんな考えでいるので僕はほとんど人を怒ることができない。新人がどんなにミスをしようとも、いやーこれは気づけないですわ、俺でもミスする。システムの問題だね。直そう。となってしまう。そん事情もあって、ほとんどの新人からはクソみたいに舐められてしまっている状況だ。

ある新人がいた。

その新人は不思議なやつで平然と「庭でツチノコを見た」と言い出す、ちょっと不純物多めのヤクでもやってんじゃねえか、という男だった。

「すごいんですよ!ツチノコってむちゃくちゃ飛ぶんです!」

と熱弁する彼を見て、こうやってアホなこと言って先輩にかわいいやつって思われたいという彼なりの処世術なんだろうな、そう思った。

「あと、ケリー!って鳴きます」

純粋な目でそう言った彼は、もしかしたら処世術とかではなくて本当にアホなのでは、不安になってきた。だいたい、ケリーって鳴く生物がいるわけがない。

そんなツチノコの彼が仕事において深刻なミスをおかした。どうにもこうにもその影響は甚大で、流れ的に僕がその彼を怒らねばならないような展開になってきた。さらに上の上司から、無言の圧力というやつでツチノコの彼にきつくお灸をすえなければならない展開になったのだ。

彼を呼び出して話を聞く。彼は自分が引き起こしたミステイクによって引き起こされた深刻な結果に心底反省しているようだった。いつものような屈託のない元気さがない。これだけ反省しているのなら怒る必要はないのでは、そんな想いが生まれる。

さらにミスに至るまでの話を聞いてみても、それが避けられたとは思えない。もちろん新人ゆえの経験のなさがミスにつながっているが、それは彼が悪いわけではない。新人とは経験がないものだ。やはり話を聞けば聞くほど、彼はミスを避けることができなかった状況が目に浮かぶ。そこに悪意や怠惰な気持ちがあったとは思えない。むしろ、その状況に追いやったシステムに問題があるので説教などと言ってギャーギャー喚いている時間がるのならばそちらの改善に力を入れた方がいくらか効率的だ。やはり僕は怒ることができない。

「じゃあ君は悪くないね」

そう言った時、彼の唇が少しだけ動いたように見えた。ほのかに「しめしめ」そう思っているような口の形だった。

やはり僕は舐められているのでは?そんな思いが一気に沸き上がっていた。おそらく新人の中ではあいつは怖い先輩、あいつはやべえ恐ろしさ、あいつは楽勝、みたいなランク分けは済んでいると思う。その中でも僕は「絶対に怒らないデブ」みたいなカテゴリーに入れられると思う。つまり、僕に呼び出された時点で、これはほぼお咎めなし、と予想していたのではないか。そしてあまりの予想通りの展開に口元が緩んだのではないか。

これは完全に気の緩みだ。決して避けることができなかったミスだとしても、システムが悪いとしても、理不尽に感情をぶつけられ、怒られる経験も必要なのではないか?そんな考えが生まれてきた。たいして怒られないのなら、まあいいか、という気持ちが生じる。それはミスにつながるかもしれないのだ。やはり、停滞的怒りも必要なのかもしれない。

よし、ここは怒ることにしよう。無理してでもどす黒い感情を吐き出してやろう。けれどもどうやって怒る?殴るなんて論外でこっちがお縄になっちまう。じゃあ殴ると宣言するか?それも脅迫みたいなもんだろう。じゃあ蹴るっていうか?いや同じだ。じゃあ、次やったらそこのダンボールを蹴るぞって宣言するか?それなら脅迫にもならないし、なんか怒ってる感じがするか!?うん、それでいこう。

言い慣れないので噛み噛みになりながら怒りのセリフを言う。

「今度やったら、俺もう、むちゃくちゃ怒るから。そこのダンボールを、もう、け、けけ、ケリー」

「あ、ツチノコ」

「ツチノコだね」

「すごいんっすよ、2メートルくらい飛ぶんです!」

「お、おう」

こうして、やはり僕は感情に身を委ねて怒ることができなかった。

怒りには感情に身を任せ全てを怒るものと原因を追究し、悪意があった部分のみを怒る怒りとがある。もちろん、悪意があった部分のみを怒る方が発展的で望ましいが、時には感情に身を任せて怒ることも大切なのである。

「ツチノコは凶暴で、怒るとタイヤを噛みちぎります」

彼が見たツチノコくらい感情的に怒れるようになりたい、そう切望している。