はじまりはいつも雨

新しい季節はいつだって雨が連れてくる。

人は傘をさすとどうしても俯きがちに歩いてしまうものだ。きっと、僕らは空から落ちてくるものを遮るようにはできていない。空から落ちてくる物は全て恵みだ。だからそれを遮る傘ってやつは何となく居心地が悪いものと感じるようになっているのだろう。

水たまりの波紋を眺めていても何も始まらない。斜めに構えた傘を垂直に持ち直し前方を見る。そこには待ち時間の長い信号を携えた交差点があった。やはり前を見て正解だ。

この交差点はあまりに信号待ちの時間が長い。ちょっと壊れてるんじゃないかと疑いたくなるくらいの待ち時間だ。それ故に、バカ面でジーっと待っているのはあまりに忍びない。かなり手前から信号のタイミングを見計らって歩調を調節することが大切になってくるのだ。下ばかり見ていてはこの調節ができないところだった。

今このタイミングで青になったということは、だいたい今よりちょっと遅いペースで歩けばちょうど交差点に差し掛かるところで再度青になる。待ち時間ゼロだ。少しだけ歩調を緩めてもう一度交差点を見る。そこには同じ職場の女性が真っ赤な傘を差して立っていた。

彼女とは会話を交わしたことがほとんどない。まず、仕事上の関わりがほとんどないわけだし、職場の栗拾いツアーなどに誘われない僕としてはそういったオフシーンで交流を深めることもできない。たまに職場で見かけてああ、綺麗な人だねって思う程度の認識だった。

彼女もこの通勤ルートだったか。なんかこのままいくとちょうど青になった瞬間に合流してしまう。全然話をしたことがないのにそんなことになってしまったらそこそこに気まずい。ここはさらに歩調を遅くして次の青に照準を合わせるべきか。そう考えているととんでもないことが起こった。

彼女が小さく手を振っているのである。

僕に向かい、傘を持っていない左手で、胸よりちょっと下あたりで小さく左右に振っている。まるで偶然恋人に会ったかのように、甘えるように手を振っている。声に出さずとも「おはよっ」って言ってるようだった。

僕の心の中に動揺が走った。なにせ同じ職場の人といえども、まあ、知らない人だ。すれ違ったら会釈くらいはするが、まあ知らない人だ。そんな人が甘えた感じで僕に手を振っている。これは一体全体どういうことだろうか。様々な仮説が僕の頭の中を駆け巡った。

1.彼女は正義感が強い

そういえば彼女は正義感の強い人だったように思う。正義とは常に無力なものだが、美人が有する正義にはそれなりの力がある。同じように美人が有する悪にもそれなりの力がある。なにせ、美人は周りの同調を得やすいのだ。もし今これを読んでいるあなたが美人だという自覚があるのなら、言動には注意したほうがいい。

彼女は知らない人だが、彼女の周りにいる取り巻きどもはなかなか正義感が強かったような気がする。傍若無人な上司を一致団結して左遷に追い込んだみたいな武勇伝も伝え聞いたことがある。周りが正義感が強いというのは彼女の正義感が強いのだ。

つまり、栗拾いツアーなどに誘われない僕に対して、憐れみというか正義感を燃やしているのではないか?そういった行為に腹を立てていて、なら私が彼と仲良くなって彼を救うわ、となっている可能性がある。その第一歩として手を振ったのではないか?

残念ながらこの仮説は適切ではないだろう。なぜなら、栗拾いツアーを司っているグループが彼女たちのグループと近しいグループだ。つまり正義感から僕と仲良くしたいなら栗拾いツアーに誘えばよい。この説はない。

2.勘違いした

同じ職場でありながらあまり知らない仲、これはなかなか不安定な間柄だ。極度の人見知りなどだった場合、人との関係を克明に覚えていてその距離を決定することが多い。この人とは2回くらいしか喋ったことがない、この人とは良く喋るけど本心は出さない。人との関係性に畏怖を感じるがゆえに、個別の関係性を記憶していたりするものだ。

しかし、それは僕のような人見知りだけの話で、例えば彼女のように気さくで交友関係の広い人だったらどうだろうか。いちいちこの人とは何回喋ったとか覚えていないような気がする。つまり、同じ職場なのに喋ったことない人、というカテゴリーがそもそも存在しないのではないか。社交的な人にとっては、同じ職場の人はみんな知り合いなのだ。

知り合いに会えば挨拶する。それは当然のことだ。つまり、彼女にとって僕は知り合いで、たまたま会ったから変わらず挨拶をした。これはなかなか的を射た仮説のような気がする。

けれども、残念ながらおそらくこの説も正解ではない。なぜなら、職場ですれ違った時の彼女の僕を見る目はまさしく他人を見る目だから。いいや、物を見る目に近い。その辺の植木やちりとりを見る目と同等だと理解していただいて良い。つまり、彼女は僕を知ってる人と認識していなかった時期がある。つまりそういう考え方をする人なのだ。美人ゆえに周りに人が多く社交的に見えるが、本来は人見知りなのかもしれない。それならばこの説は根底から崩れ去る。

3.手首が痙攣していた

何らかの薬物をやっている彼女が、ちょっとしたアクシデントで同棲している売人の彼氏と喧嘩してしまう。いつもはどっぷり打ってから出社となるが、喧嘩のゴタゴタで打ってくるのを忘れてしまった。大丈夫、私は依存症じゃないもん。止めようと思えばいつだってやめられる。いい機会だ。あいつとも別れて追い出してクスリもやめよう。そう決意した瞬間、信じられない気だるさが彼女を襲った。

禁断症状だ。

体がだるい。頭が痛い。雨が地面を叩く音がロックバンドの喧しい演奏のように聞こえる。割れる頭が割れる。傘を持つ手が震える。ついに彼女は歩くのを止めてしまった。信号機の柱にもたれかかる。まずい、左手まで痙攣してきた。左右に、小刻みに震える。薄れゆく視界の先には職場のデブが立っていた。おねがい、助けて。

残念ながら、いやいや残念じゃないけど、この説もない。彼女は笑顔で手を振ってくれている。とても禁断症状には見えない。顔色だって良い。この説もあり得ない。

4.物語が動き出した

現実には今から物語が始まります、と宣言されて物語が始まることはない。どんな幸運も、不幸も、それは宣言ざれずに始まる。いつだって物語は唐突だ。じゃあ、その物語のスイッチはどこにあるのだろう。それは普段と違うことをすることだ。彼女は気づいてしまったのだ。

変わらぬ歩道に変わらぬ信号、少し大股で水たまりを飛び越える。この先に歩いていけば変わらない職場があって変わらない仕事と変わらない会話、変わらないランチが待っている。それは決して悪いことではない。同じことを繰り返すことができる、それは幸せなことに他ならないのだ。でも、正直に言うと物足りない気持ちある。何か胸がスッとするような、ワクワクするような物語に身を沈めたいのだ。

いつもと同じように信号待ちをしていると、傘と道路の隙間に職場のデブが立っているのが見えた。知らない人。顔は知ってるけど会話はしたことがない。臭そうだから。いつもだったら知らん顔するんだけど、もしかしたら、ここで手を振ったら物語が動き出すかもしれない。そう思った。いつもしないことをしてみたら、思ってもみない物語が始まるのかもしれない。少しだけ、本当に少しだけ、まるで水たまりに振りそぐ1つの雨粒くらい僅かに心が高鳴った。

少しだけ手を振ってみた。

デブは何か考えていた。そうだよね。だって知らない間柄だもん。でも、すぐにデブは近づいてきて、なにあれ、雨でぬれてんの?それとも汗。とにかく臭い。手なんか振るんじゃなった。そう思ったけど確かに物語が動き始めたのを感じた。

ドゥーーーーン!

「テロだ!」

デブが叫んだ。とっさに私のことを抱き寄せて路上に伏せる。パラパラと車のガラスの破片が雨に混じって降り注いできた。

「これは反政府軍のテロだ。急ごう、職場が危ない」

職場はすでにテロ組織によって制圧されていた。上司たちは縛られ、ロビーに集められていた。その様子を丘の上から双眼鏡で眺めていた。

「君は知らないかもしれないが、前からテロの兆候はあった、くそっ、だけれどもこんなに手際が良いとは。完全に僕の落ち度だ。連中のことを見くびっていた」

デブは言った。

「今から僕はあの排気ダクトを通って潜入してくる。なあに刺し違えてでもテロ組織の連中はかならず排除する。心配するな」

私は勇気を出して言った。

「私も何か手伝いたい。なにかしたいの」

これは私の物語だ。絞り出すように言ったその言葉を受けてデブは小さく笑った。

「じゃあここで俺の無事を祈っててくれ。そして無事にテロ組織を壊滅できたら俺と、いいや、それは死亡フラグだなやめておこう(笑)」

私は小さくうなずいた。

「気を付けてね」

「大丈夫訓練は受けているから」

デブは親指を立ててニカッと笑う。

「いってくるぜ!」

排気ダクトに飛び移るデブ、ひっかかった。デブすぎて排気ダクトを通れない。笑っちゃいけないと思いつつ、足をバタバタさせる姿が滑稽で吹きだしてしまった。

「私が代わりに潜入します」

デブは引っかかって抜けなくなる恐怖から青ざめていた。雨なのか汗なのかわからないがじっとり濡れていて臭かった。

「なんでわたしが」

そう思いながら排気ダクトの中を這っていく。けれども悪い気はしなかった。自分ってこんな一面もあるんだ。始まった物語は自分の中の自分に出会わせてくれる。自分自身をつまらないと思う人は単純に物語が始まっていないだけなのだ。

ロビーに到着した。天井の格子から光が漏れている。様子を伺うとテロリストは5人。既に上司は殺されていた。残念だが仕方がない。

「さあそろそろ人質もろともここを爆破しちまうか」

「待ちなさい!」

颯爽と排気ダクトから登場する。しかし一瞬でマシンガンの銃口が私を囲んだ。私、大ピンチ。覚悟した。私は死ぬんだ。テロリストに撃たれて死ぬんだ。でも、そういう物語なんだからそれでいいんだ。何もないより、何かあって死にたい。目を瞑って覚悟した。その瞬間だった。

ダダダダダダ

想像していたよりずっと軽くて無機質な銃声がロビーに響き渡った。銃声ってもっと重くて血なまぐさいものだと思っていた。しかしながら、その銃弾はすべて天井に向けて放たれていた。

「くさい」

「目にクル臭さ」

「目がぁ、目がぁ!」

テロリストたちは悶絶し始めた。その先にデブが立っていた。雨なのか汗なのか異様にじっとり濡れているデブは臭かった。その匂いにテロリストたちは悶絶し始めたのだ。

「おれ助けに来ようと思ったんだよ、でも急にテロリストたちが苦しみだして」

おろおろするデブ。臭い。すぐに警官隊が突入してきたが警官隊たちも悶絶していた。人質たちも気を失うものまでいた。デブ自身が最大のテロなのかもしれない。私の物語は動き出した。あのよく知らないデブに手を振ることで私の物語は動き出した。物語には、特殊な事情や能力がつきものだ。人とは違う何かが物語を動き出す。きっと、私はこのデブを臭いと思いつつもそこまで悶絶しないという特殊能力があるのだ。

「いやーなんでみんな苦しんでるんだろうね」

頭をかきながらそう話すデブ。わたしの物語はまだまだ続きそうだ。


さすがにこれはない。テロリストが職場を占拠する意味がわからない。さすがに人が気を失うほど臭いわけではない。あと、がんばればダクトは通れると思う。そうなるとこの説もあり得ない。

まあ、ここまで来たらもうこの説しかないっすよね。そうですよ。もう皆さんも気づいていると思います。意識的に避けてきましたが、もうこの説しかありえません。絶対にこれです。いきましょう!

5.僕のことが好き

皆さんには悪いですけど、これが一番しっくりくるんですわ。前々から彼女は僕に気があった。でもその思いを伝えられなくて困っていた。どうしたらいいんだろう、悩んだと思いますよ。親友にも相談したんじゃないかな。あんなデブどこかいいのとか言われちゃって、ちょっとムッとしてね。好きなんだも、しょうがないじゃん、ってちょっと唇を尖らして言うわけですよ、カーッまいったな。カーッ、照れるな。

で、今度会ったら手を振ってみようとか思ったんじゃないですかな。彼女は美人ですから、これまでアピールすることはあってもアピールされたことはないはずなんですよ。だからどうしていいのかわからない。そして手を振るという結論に到達した。みんなそんなはずはないとか思うかもしれませんが、それは嫉妬ですよ。残念ながら筋が通ってる。理論的すぎる。

勇気を出して手を振ってくれた彼女。なんていうかそれに答えてあげるのが僕の責務でしょう。本当は誰が見てるのか分からないからこういうの困るんですよ。朝からイチャイチャしやがって思われたりしたら困るっしょ。でもね、彼女の思いに応えてあげなきゃいけないと思うんです。

だから僕も小さく手を振り返しましたよ。そしたらアンタ、彼女が笑顔でさらに手を振ってくるじゃないですか。悪いな、お先に!俺行くわ、お前らもいつまでもインターネットインターネットいってんじゃないぞ、現実を見ろ、な?

さらに手を振って応戦。これからどういう付き合い方をしていくか悶々と考えていると僕の後ろから声がするんです。

「おはよー」

その後ろの影は小走りにパシャパシャと音を立てて僕を追い抜いていく。そして彼女に駆け寄り、きゃあきゃあと声をかける。彼女の取り巻きの女性だ。

「おはよー、偶然だね」

「うんー、今日ちょっと寝坊したからー」

彼女は、後ろにいる取り巻きに手を振っていた。振っていた手が生き場がなくなってすごく困っているように見えた。不倫疑惑が出てすぐに始球式しなきゃいけない人くらい困っているように見えた。

あまりの恥ずかしさに俯く。降っていた雨は変わらず路上の水たまりに波紋を作り出す。やはり雨の中の傘は居心地が悪いものなのだ。次の季節が早く来ないものか。

 

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