牛丼は星より遠く

自分の意思を貫くこと、これはなかなか難しい。

そもそも、この世にいる全ての人間が自分の意思を貫いたらどうなるか。ちょっと考えればすぐに分かるが、おそらく社会システムが成り立たないだろう。つまり、この現代社会は各個人が意思を貫かないことで成り立つようにできている。各個人が意思を貫かず、どこかで折れることが前提なのだ。

つまり、僕らは知らぬ間に意志を貫かないように飼いならされている。断固たる意志で自分を貫ける人なんて稀で、ちょっと自分はおかしいのではないか?あまりに自分勝手なのでは?人に迷惑かけていいはずがない、と考え直す思考回路が生まれるようになっている。

自分だけが強硬な意思でAと考えていても、世間一般が当たり前のようにBであるという考えであった場合、そのAを最後まで貫ける人はそんなにいない。ただ単純にAだと信じて疑わないこと以外にも、自分がAであることでB派に多大な迷惑がかかっていたりする現状を目の当たりにしたら、それでもAだと貫けるだろうか。なかなか難しい。

会社のお昼休憩。僕はその意志を貫くことの難しさを実感していた。

「今日こそは牛丼を食べる」

お昼になるといつもそう決意してオフィスを出る。気づいたらお昼に牛丼を食べていない日々が続いていた。別に嫌っているとかそういうわけではなく、ただなんとなく牛丼を食べていなかった。これが明確な理由があるのならばいいのだけど、ただなんとなくという意味不明な要因なのでちょっと気持ち悪い。ならば今日こそは牛丼を食べる、そんな強い意志のもとオフィスを飛び出すのだった。

オフィスから牛丼のすき家までは徒歩で10分程度。その10分の間も誘惑は多い。激安の弁当販売を行うスーパーや、ランチタイムはライスが無料でついてくるラーメン屋など、総がかりで僕の意思を揺るがしにくる。いつもなら、お、ライス無料、と牛丼を食べる意思を投げ捨ててラーメン屋に寄ってしまうが、今日は違う。硬い意志のもとすき家に向かうのだ。

魅惑のラーメン屋の前にさしかかる。いつもとは違う看板が出ている。

「本日のみ!ライス特盛無料!」

牛丼食ってる場合じゃねえ!特盛無料だ!考える間もなくラーメン屋へと飛び込んだ。意思を貫くとはかくも難しいことなのである。

次の日、僕は反省した。とにかく反省した。昨日は大変なことをしでかしてしまった。あれほど固く決意したというのに、ライス特盛に負けてその意志を投げ捨ててしまった。今日こそは違う。絶対に牛丼を食べる。何があっても食べる。

魅惑のラーメン屋の前にさしかかる。なんか看板が置いてある。危ない危ない。目隠しして通り過ぎる。なんとかセーフだ。あとはこのまますき家まで歩くだけ。今日こそは牛丼を食べることができてしまう。

「おや、お昼ですかな」

職場の温厚な爺さんだ。交差点で信号待ちしていたら突如現れやがった。

「よろしかったらご一緒にどうですかなホホホホ」

相変わらず穏やかな爺さんと一緒にお昼を食べることになった。

「なんでも合わせますよ。お店を選んでください、ホホホ」

このご老人が牛丼を食べきれるとは思えない。あんなジャンクなもの食ったら死んじゃうんじゃないか。それにすき家なんていうあんな混沌としたガチャガチャした店に行ったことすらなさそう。

「じゃ、じゃあ、ソバでも食いに行きましょうか」

「よいですなあ、ホホホホ」

牛丼が遠い。とにかく遠い。何らかの大いなる意思を感じるほどに遠い。

昨日は不本意ではあったが仕方がなかった。爺さんに牛丼を食わせるわけにはいかない。あそこは上品なソバ屋が正解だ。しかし今日こそは違う。今日こそは絶対に牛丼を食べる。絶対にだ。

オフィスを出て、またラーメン屋の前を目隠しして通り過ぎる。絶対に替え玉無料とかやってやがる。あいつらはサタンだ。交差点でも周囲を警戒する。お爺ちゃんとか上司とか、すき屋を妨げそうな人物はいない。さらには激安弁当を売るスーパーの誘惑にも耐えた。そして、そして、ついにすき家に到達した。

長かった。本当に長かった。あとはもう、牛丼を注文するだけである。ここで大いなる神々の意思が働いて満員御礼ソールドアウトという展開もあるかと思ったが、お昼なので混みあっているものの、カウンターが一席だけあいている。そこに滑り込むように座った。ついに、ついに、牛丼に手が届く。牛丼が食べられることが嬉しいのではない。自分の意思を貫けることが嬉しいのだ。

同時期に入店した五人がカウンターで並んでいたらしく、店員が左端からオーダーを聞いていく。僕は一番最後になりそうだ。左端の野球賭博してそうな男がオーダーする。

「豚あいがけカレーで」

ぶっきらぼうに言った。続いてその横の横領していそうなサラリーマン風の男がオーダーする。

「チーズカレー、大盛りでおねがいします」

なるほど、チーズカレー行くとはなかなか通だな。次はその横の妻子に逃げられたっぽいおっさんだ。

「おんたまカレー」

あれ美味いよね、と思いつつ途方もないことに気が付く。ここまで3人が連続してカレーをオーダーしている。まさか、ここは牛丼屋だろう。カレーなんてちょっとおまけ的なメニューじゃないか。なんでこんなに連続するんだ。次の、仲の良い男子グループなんだけど他のメンツはみんな彼女がいるのに一人だけ彼女いなさそうな大学生がカレーをオーダーしたらどうなってしまうんだ。

「からあげカレー大盛りで」

この異常事態に気が付いたのか、対面のカウンターに座るホスト風の男が苦笑いした。

「やばい、期待されている!」

そう思った。たまたま並んだ5人の客が偶然にも連続してカレーをオーダーする。そんな珍事があれば向かいのホスト風の男もマダムにちょっと面白い話として話題を提供することだできるだろう。マダムもそんな楽しいことがあったなんて!とボトルの一本も入れるかもしれない。そうすればおれホストに向かないわって新潟に帰ろうとしていた彼だってもう少し頑張ろうかって気になるかもしれない。果たして僕はここで牛丼をオーダーできるのか!?周囲に期待を裏切って空気を読まずに牛丼をオーダーできるのか?

「ポークカレー、大盛りで」

ダメだった。自分の意思を貫けなかった。あのホスト風のキラキラした瞳に負けた。せめて面白可笑しく話してマダムを喜ばしてくれ、頼んだぜ。

次の日、断固たる決意でオフィスを飛び出した。ラーメン5杯無料でも気にしない。老人に出会っても無視する。客が全員カレーを頼んでいて店からカレーが溢れていて、店員がカレー頼んでくれると助かるなーって顔してたって断固として牛丼を頼んでやる。そう、今の俺は意志の塊だ。絶対にカレーを頼んでやる!ついにすき家に到着した。いくぞ!

「本日、店内工事のため休業いたします。リニューアルオープンはX月○日」

なんの、まだ手はある。牛丼を食えばいいのだ。あの激安スーパーの激安弁当の横に安くはないけど牛丼弁当があったはず。それを食えばいい。スーパーに走った。一個だけあった。ついに牛丼を食べることができたのである。

食べていて違和感を感じ、パッケージを見ると、そこには堂々と「豚丼」と書いてあった。確かにこれ、豚肉だ。

とにかく牛丼が遠い。自分の意思を貫くことはかくも難しいことなのだ。今日こそは、今日こそは牛丼を食べると決意して、今日も僕はオフィスを飛び出す。それでもやはり自分の意思を貫くことはできないのだ。