日曜日よりの使者

仕事に行きたくない仕事に行きたくない仕事に行きたくない。

とにかく本当に仕事に行きたくない。年末年始の休暇が終わるこの日は、とにかく仕事に行きたくない。普段の仕事行きたくなさを1とするならば今日は4億はくだらない。それくらい仕事に行きたくない。

なぜこんなににも年末年始休暇明けは仕事に行きたくないのか考えると、これはひとえに年末年始が持つ「非日常」という魔力のせいなのではないかと思う。ゴールデンウィークやシルバーウィーク、お盆休暇など他の長期休暇に比べて年末年始はとにかく非日常だ。クリスマスの残り香が仄かに香り、誰もが新しい年の到来に熱狂する。街は騒がしく、テレビも普段とは違うスペシャルな内容を放送する。会う人会う人、なんだか妙にかしこまって挨拶してきやがる、そんな非日常があるのだ。

非日常から日常に戻る時、誰しもが心に引っかかる何かを抱くはずだ。ディズニーランドで夢のような時間を過ごした後、日常へと帰依していくことは辛いはずだ。それと同じレベルのわだかまりが仕事始めにはあるのだ。

「はあ、仕事いきたくねえな」

職場への道を歩きながらそう呟く。

「そんなに行きたくないなら行かなくていいよ」

耳元で声が聞こえた。

「誰だ!?」

辺りを見回すが、誰の姿もない。ただ退屈ないつも通りの通勤経路の景色があるだけだった。

「幻聴まで聞こえるようになったか、これはいよいよやばい」

どうして僕らはここまで追い詰められてしまっているのだろうか。ただ、僕らは普通に生きていたいだけである。なのに茫漠と横たわる歴然たる悪意、別の名を仕事と呼ぶそれは徹底的に僕らを追い詰める。

また一歩、また一歩と職場へと近づいていく。それはまるで自分の頭を挟み込んでいる万力のハンドルを自分自身の手で少しづつ締め上げているかのようだった。

「このままずっと信号が赤だったらいいのに」

赤になった歩行者信号の前に立つ。赤いランプを背景に直立不動のシルエットが描かれている。

「あいつは仕事とかないんだろうか」

そう思った刹那、そのシルエットがこちらに向かって手招きしてきた。

「え……!?」

次の瞬間、生ぬるい薄皮のような何か、何かと何かの境界みたいなものが自分の体を包んだような気がした。そしてそのまま真っ暗な暗闇へと意識が落ち込むのを感じた。

 

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目が覚めると周りは深い霧に包まれていた。ほんの数センチ先も見えないような深い霧で、狭い部屋で何台も加湿器をフルパワーで稼働させたような状態になっていた。

「急激に天候変わりすぎだろ。とにかくこれだけ霧が深いと危ない」

ここは交通量の多い道路だったはずだ。これだけ視界が悪いと車が突っ込んでくることだってありうる。とにかく危険だ。

足元を見ると、よく知っているアスファルトではなかった。ただ踏み固めた赤い土がそこにあるだけだった。

「なんだここは」

気を失っている間に公園にでも移動してきてしまったか。これはまずい、仕事始めの日から遅刻なんて大変なことになってしまう。ポケットからスマホを取り出し、地図アプリで現在地を確認しようと試みる。けれども、スマホは真っ暗な画面のまま動こうともしなかった。

「どうなってるんだ、これは」

急に不安になってきた。霧の中を手探り、摺り足で移動するが、ただただ土の地面が続くだけだった。

「ウオオオーン!」

突如として大きな唸り声が聞こえる。それはまるで空気を振動させるかのような音で、遥か遠くから大音量で聞こえてくるようだった。得体のしれない恐怖が体を包む。同時に、まるでその正体不明の唸り声が合図であったかのように、みるみると霧が消え、視界が開けてきた。

「湖だ」

目の前には雄大な湖が広がっていた。

「なんでこんなことに」

どれだけ記憶を探ってみても、職場の近くにこれだけの湖があわけがない。つまり、どこか遠くまで来てしまったということだろう。いくら仕事に行きたくないからと言って無意識に逃避行的な行動をとってしまったしまったのだろうか。

「こんにちは!」

ハッキリと声が聞こえた。

「誰だ!?」

辺りを見回す。けれども、誰の姿もない。

「ここよ、ここ」

それでも声は耳元で聞こえる。

「あれ? あれ?」

キョロキョロとあたりを見回すと視界の端に緑色の何かが見えた。

「え!?」

そこには手のひらほどの大きさの小さな人間がいた。背中から生えた四つの羽を忙しそうにばたつかせ、僕の耳の周りを飛んでいる。

「妖精!?」

「そう、妖精。私の名前はメルル、よろしくね」

もう何がどうなっているのか分からない。仕事に行きたくない気持ちで信号待ちをしていたら急に謎の湖に連れてこられ、おまけに目の前には妖精がいる。悪い夢でも見ているのだろうか。

「その妖精が僕に何のようだい?もし君が僕をここに連れてきたのなら早く僕を元の世界に返してくれ。仕事に行かなくちゃならないんだ」

静かすぎる湖、存在するはずのない湖、そして妖精、ここがいつもの世界でないことは何となく感じていた。できることなら早く戻してほしい。

「あら、随分な物言いね。私があなたを連れてきたんじゃないわ、あなたは望んでここに来たの」

メルルはつんとそっぽを向きながらそう答えた。

「自分から望んで?そんなわけない。偉い人の仕事始めの挨拶を聞かなかったら大変なことになるんだぞ。仕事に行かせてくれ」

僕がそう言うとメルルはさらに羽をばたつかせ、少し距離をとってこちらに向き直って言った。

「ここは仕事に行きたくない人が導かれる湖なの。どうしても仕事に行きたくない、そんな気持ちが限界まで高まった時、人はここに導かれるわ」

なるほど、そういうことか。あまりにも仕事に行きたくない気持ちが高まりすぎてここに導かれてしまったのか。自分の抱えていた気持ちを思い出し、妙に納得してしまった。あれだけ行きたくないと連呼していたんだから、きっと限界に達していたんだろう。

「で、この湖に導かれてどうなるんだい? 仕事をせずにここで一生暮らすのかい?」

それならば望むところだ。仕事もせず、この湖のほとりでのんびりと面白おかしく暮らすのも悪くはない。

「さあ? そんなこと聞かれても私にはわからない」

メルルは突き放すようにそう言った。

「え? どういうこと? 君の立場的にはこの世界の案内人みたいなものじゃないの?」

メルルの立ち位置はこの世界のことを熟知した案内人的なものであるはず。それなのに、この世界が存在する意味や目的を答えられないとは何事か。

「私は案内人なんかじゃないわ。ただ一つ、役割をもってこの世界に召喚されているの。それはあなたに役割を教える、それだけが私のこの世界での役割」

「どういうこと?」

いまいち理解できない。僕の問いにメルルは鼻の頭を指で触りながら言った。

「わ、私にもよく分からないわ。この世界に来たばかりだし。ただ、この世界には沢山の仕事をしたくない人が導かれ、召喚されてくる。その全ての人がこの世界での役割を振り分けられているの」

「なんのため?」

「だから、わからないわよっ、そんなこと!」

メルルは顔を真っ赤にし、鼻の頭を触りながら左右にちょこまかと動いた。

「と、とにかく、私の役割はあなたに役割を伝えること、それで終わりだから」

「ふーん、そうなんだ。で、僕の役割はなんなの?」

僕も言葉を受けてメルルは湖の向こうの大きな山を指さした。まるで深い紅葉のように赤く彩られた大きな山が悠然と立っていた。

そして、急に説明口調の棒読みで説明を始めた。

「あれは山に見えるけど、仕事の鬼と呼ばれる鬼です」

「ふんふん、ずいぶんでかい鬼だな。鬼っていうくらいだから悪者だろうし狂暴なんだろう、近づきたくないねー」

「この世界は仕事に疲れた人々がやってきて、この世界の役割をもらいます。けれども、その役割を果たせないときは、ああやって仕事の鬼に取り込まれ、現世の何倍も過酷な仕事に従事させられるのです。永遠に抜けられない仕事の輪廻に取り込まれるのです」

「それは大変だねえ」

「あの鬼はこの世界の歪み、肥大しすぎるとこの世界を維持することができなくなります。仕事に疲れた人々の憩いの地であるこの世界が崩壊すれば、多くの人が仕事に疲れ、悲しい選択をしてしまうでしょう」

 「なるほど、この世界の崩壊は現実世界の崩壊を意味するわけだね。ならばその仕事の鬼をなんとかしないとダメなんだね、で、どうするの」

僕の問いかけに、まだ妙な説明口調のメルルの話が続く。

「あの鬼を倒さなければなりません」

「そりゃそうだ」

「それがあなたの役割です」

「は?」

妙な声をあげてしまった。その声に驚いたのか茂みから数羽の鳥が飛び立ち、水面に波紋を立たせた。

「いやいや、無理だって。山よりでかいやん。無理無理、ひとひねりにされる」

この緑色の小さいのは何を言ってるんだろうか。できることとできないことってやつを考えてほしい。全力で拒否してみせるのだけど、

「できるかできないかは関係ありません。それがあなたの役割、そして、それを伝えるのが私の役割」

メルルは冷たく言い放った。

「あの仕事の鬼を倒す。できなかったら……」

「役割が果たせなかったら、あの仕事の鬼に取り込まれ、未来永劫、仕事の苦難を味わうだけです」

メルルは鼻の頭を触りながらそう言った。

「それはいやだなあ」

僕が渋っていると、メルルは少し苛立ちながら切り出した。

「とりあえず、やるやらないはともかく近づいてみたら。鬼がいるのは湖の向こう岸みたいだし」

「うーん」

「ほら、ついて行ってあげるから早く早く」

こうして僕とメルルは、とりあえず倒すかどうかはともかく、仕事の鬼に近づいてみることにした。

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「メルル、あれは?」

「だから分かんないって、私は案内人じゃないんだから」

見ると湖畔に二人の人間が座っている。

「こんにちは」

「あ、どうも」

話しかけると、二人のうちの少し顔色が悪い男が愚痴るように切り出した。

「いえね、さきほど妖精から説明があったんですけど、どうやら仕事に疲れてこっちの世界にくることになったんですけど、こっちの世界でも役割ってやつがあるみたいで、ねえ、でも妖精のやつ説明終わったら役割終わったってすぐ消えちゃって、ちょっとどうしていいのか分からなくて困ってるんです、ねえ」

顔色の悪い男は横に座る真っ赤に日焼けした男に向かって助けを求めるような視線を落とした。

「まったく、不親切な妖精だよ」

二人とも怒りが収まらないといった様子だ。

「ふーん、役割終えたらすぐに消えちゃう妖精もいるんだ。私みたいに責任感の強い妖精でよかったわね、感謝しなさい」

メルルが何か言っていたが無視して、二人に話しかける。

「そもそもお二人の役割って何なんですか?」

顔色の悪い男は青い顔をしてため息交じりに答えた。

「彼は誰かを止める役割だって言うんです。そして私は誰かを導く役割だっていうんです」

顔の赤い男は小首をかしげて言った。

「意味不明だろう」

「それは意味不明ですね」

僕がそう答えると、続けざまに顔の青い男が言った。

「そちらの役割は?」

あまり言いたくないが仕方がない。

「彼女は役割を僕に伝えるのが役割です。そしてその僕の役割が、あれです」

向こうに見える大きな山を指さした。改めてみるとやはりでかい。頭の部分には少し雲がかかってる。

「ああ、あれか」

「ええ、あれです。あれを倒すらしいです」

「それは難儀だな」

「ええ」

倒せるわけがない、それは二人にも共通認識としてあるようだった。まるで憐れな人を見るような二人の視線がいたたまれなくなり、二人に別れを告げてそそくさとその場を離れることにした。

「とにかく頑張ってくださいね」

「ええ、お互いに」

会話を切り上げ、メルルと共に歩き出す。

「絶対に無理だとかそんな話してるよね」

「まあそうだろうな」

湖に沿って伸びる長い長い一本道をただただ突き進んでいった。

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 湖の周りを彩っていた瑞々しい植物たちがなりを潜め、代わりに枯れ果てた木々たちが立ち並ぶようになってきた。

「彩も何もあったもんじゃないな」

「気を付けて、ここはもう仕事の鬼のテリトリーだから」

地面を踏みしめると水分を失った乾いた土がボロッと崩れ去り、包み込むように革靴を取り込んだ。前方に黒いもやのようなものが見える。

「あれは?」

近づこうと一歩踏み出したその時だった。

「止まれ!」

大きな怒鳴り声が聞こえた。ビクッとなって歩みが止まる。けれども、横を飛んでいたメルルはそのまま先に進んでしまった。

「きゃああああ!」

青光りする稲妻が幾度となくメルルを襲った。

「メルル!」

乾いた地面に横たわるメルルをそっと両手で掬い上げる。メルルはその小さな体を震わせ、荒々しく呼吸していた。羽は傷つき、至る所を火傷している。

「メルル、メルル」

問いかけるが返事はない。

「ここは仕事の鬼の結界、だから行ってはならなかったんじゃ。けれどもお嬢ちゃんが身をもって結界を破ってくれた」

いつの間にか顔の赤い男が後ろに立っていた。

「ついてきてたのか?」

「ああ、俺たちの役割を果たすには、あの鬼を倒すあんたについていくべきだろうって思ったからな。正解だったようだな」

横には顔の青い男も立っている。心配そうにメルルを覗き込んでいる。

「あ、動いた」

メルルはゆっくりと目を開けた。

「バカ、感謝しなさいよ。妖精は普通、役割を終えたら帰っちゃうんだから、ここまでついてきてあげたばかりか、あなたのために結界まで破ってあげたんだから」

メルルは意識を失いそうになりながら、苦しみながら羽を動かしている。

「メルル!もういい、しゃべるな!」

メルルはそれでも懸命に体を起こし、何かを伝えようとする。

「ごめんね、私、嘘ついていた。私の本当の役割は、あなたのために結界を破ること。それが私に与えられた役割だったの。果たせてよかった」

「メルル……」

「私思い出した。あなたも私も、毎年ここに来ているの。そして同じことを繰り返しているの、元の世界に戻ったら記憶は失われてしまうけど、仕事が嫌になるたび、この世界に来ている。みんなそうなの。私たちは前世とその前世からずっと、ずっと」

「メルルー!」

その小さな小さな勇気の塊は、もう動かなくなっていた。

「思い出したよ、俺。俺はずっとメルルと一緒にここで戦ってたんだ。仕事始めで仕事が嫌になるたび、ずっと戦ってたんだ。メルルはさ、言いにくいことを言う時に指先で鼻を弄る癖があるんだ。俺、いつもそんなメルルに勇気づけられて」

顔の青い男が、肩に手を乗せそっと囁く。

「いきなさい」

「ああ」

メルルを男に渡し、立ち上がった。仕事の鬼に対峙する。

「誰かの役割のために自分の役割を全うする。それが仕事だというのなら俺は何度でも挫折してやる。嫌になるたび、失敗するたび、悲しくなるたび、心が疲れる果てるたび、それでも仕事をしてやる。それが俺の役割だから。誰かのため、それが自分自身のためだから」

光の柱が体を包んだ。

「きれい。ほら、メルルちゃん、これが君の仕事の成果だよ。みんな解放されていく」

顔の青い男の手の上でそっとメルルの体が光に溶けていった。

顔の赤い男も青い男も、その体を溶かして光に溶け込んでいく。光の柱はそのまま仕事の鬼をも包み込んだ。同時に無数の光が生まれ、そして柱へと同化していった。

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気が付くと、いつもの通勤経路、信号待ちの交差点に立っていた。

「あれ、ん? なんでこんな突っ立ってるんだ。信号青じゃないか。っと、仕事始めから遅刻ギリギリだよ」

ドタドタと走りよる足音が聞こえる。毎朝、この信号で同じになる女の人だ。たぶんこの近くのオフィスで働いているんだろう。スーツ姿があまり似合わない女性だ。もちろん話したことなんてない。ただ、なんか今日は自分でも不思議になるくらい自然に話しかけることができた。

「あけましておめでとうございます」

彼女は目を丸くして驚いていたが、すぐに普通の表情に戻り

「あけましておめでとうございます。いつもここで会いますよね」

「そうですね」

彼女は満面の笑みを見せてくれた。まだ息が弾んでいる。

「今日から仕事始めで仕事行きたくないなって思ってたら遅刻しかけちゃいました」

「僕もですよ、あ、さっさと渡っちゃいましょう」

信号を渡りきると彼女が辺りを見回し、そっと耳元でこう呟いた。

「あのー、すごく言いにくいんですけど、ズボンのチャック、開いてますよ」

そう言いながら彼女は鼻の頭を指で触っていた。

「新年からこりゃ失敬」

チャックを閉めて職場へと歩き出す。歩行者用信号の青信号と赤信号のシルエットの紳士がこちらに向かって手を振っていたが、僕は気が付かなかった。

さあ、嫌な嫌な仕事を始めよう。