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通学路の松井さんは僕にだけ挨拶をしてくれない

松井さんは僕にだけ挨拶をしてくれなかった。

どうも使えないやつと思われているのか、仕事をやる気はあるのに仕事を回してもらえなくて少し憂鬱な気持ちで出勤していた時、少し思い立っていつもと違う通勤経路を歩いてみた。

そこで僕は一人の老人に出会った。あれは去年のこんな季節の頃だっただろうか。通りが一本違うだけでそこは世界が違っていて、繰り広げられる朝の風景もどこか別の世界のそれのようだった。

賑やかに走る小学生の集団、電車に間に合わないのか鬼の形相で時自転車を漕ぐスーツ姿のサラリーマン、仏頂面で犬の散歩をするご老人、井戸端会議に余念のない主婦たち、僕が知らなかっただけで通りの数だけ朝の風景が展開されているのである。

緩やかなカーブの手前に大きな木を庭に植えている家がある。立派な門構えの家で、その横の広大なスペースも月極駐車場として貸しているような雰囲気だった。その立派な門と駐車場の間のスペースに、その老人は立っていた。

「おはよう」

「おはよう」

「おはよう」

老人は家に前を通る小学生たちに挨拶をしていく。少し屈んで、目線を合わせてしっかりと挨拶をしていく。よくいる小学生を見守る地域の老人、みたいなものだと思う。駐車場のブロック塀のところには小学生たちが遅刻しないように大きめの時計が装備されていて時間が分かるようになっている。立派な門に備えられた表札をみると「松井」と書かれていた。

松井さんの見守りは小学生だけに留まらない。颯爽と自転車で駆け抜けるサラリーマンにも

「おはよう、仕事頑張って」

「おはようございます」

と会話を交わす。先にある保育園に子供を預け、自分の仕事に向かうであろうお母さんにも挨拶をする。

「おはよう、今日は暑いね」

「おはようございます」

きっと松井さんは小学生だけでなくこの通りを、いやこの街を見守っているのだろうと思う。誰だって朝の挨拶をされれば清々しい気持ちになれる。今日一日頑張ろうかという気分にもなってくるかもしれない。そのために松井さんは早起きをし、この通りに立っているのだ。

僕は緊張した。きっと僕も挨拶をされるのだろう。そうしたらどうやって返したらいいだろうか。自慢じゃないが僕は人見知りだ。上手に挨拶を返せる自信がない。それよりなにより、まだ起きてから一度も声を発していないので、上手に発声できなくて声が上ずってしまくかもしれない。オネエ系みたいな挨拶になったとしたら、松井さんにそういう人だと思われてしまう。どうしよう、どうしよう、ドキドキしながら松井さんの前を通過する。

松井さんは無言だった。

明らかに僕を無視していた。え?なんで?なんで挨拶してくれないの?動揺を表に出さないように平静を装いつつ、それでもしばらく歩いてから振り返って見てみると、やっぱり松井さんは朗らかに小学生にもサラリーマンにも挨拶をしている。完全に意図的に僕にだけ挨拶をしてくれていない。

あまりにも納得がいかなかったので次の日もその通りを通ってみると、やはり松井さんは立っていて、小学生たちに

「おはよう、今日は帰りに雨降るって予報で言ってたけど傘持ってきてないの?困ったらおじさんのところに寄りなさい」

と優しく声をかけていた。昨日のあれは気の迷いだったのだ。やはり松井さんは優しいのだ。昨日はちょっと松井さんも人見知りをしていたに違いない。初めて見る顔に戸惑っていたのは僕だけではなかったのだ。今日こそはきっと挨拶をしてくれる。僕は何度か咳払いをし喉の調子を整えてから歩き出し、松井さんの前を通過した。こい、いつでも挨拶を返す準備はできているぜ。

やはり松井さんは無言だった。

完全に僕だけを避けている。これはいったいどういうことだろうか。完全にパニック状態だ。

これはもしかしたら、松井さんは僕の外観から何らかの気配を感じ取っているのかもしれない。挨拶をしてはいけない何かを感じ取り、躊躇しているのではないか。例えば、僕が結構なデブなんで、デブは朝から腹を空かせて気が立っているはず、そこに挨拶なんかしたら噛みつかれるかもしれん、そう思っているのかもしれない。

次の日も松井ストリートを通った。タイミングの良いことに、僕より少し前を僕以上のデブが汗だくになって歩いていた。しめしめ、これで真相がはっきりするぞ。たぶん前のデブも空腹で気が立っていると思われているはず。きっと挨拶されないはず。

「おはよう、今日は暑いね」

「ぶひい」

デブは挨拶された。僕もぶひいと返す準備はできていたが、やはり僕だけ挨拶されなかった。おかしい。もしかしてデブが原因ではないのか。

そうなるとこれはもう原因は一つしか考えられない。たぶん、松井さんは僕に息子の面影を見ている。たぶん、僕と息子さんは似ているんだろう。そして不幸な事故で松井さんは何らかの理由で息子さんを失ってしまった。こんな悲しい思いを他の人にさせてはいけないと朝のラッシュに通りに立つようになった。そこに息子に似た少しデブな男の登場だ。彼と挨拶をし仲良くなりたかった。でも、そうして彼が事故にでもあったら?ワシは二度も息子を失うのか?それは松井さんの心の叫びだった。

大丈夫だよ、松井さん。僕はいなくなったりしない。ずっとここにいる。だから安心して僕に挨拶をして。とは言っても臆病になっている松井さんには伝わらないだろう。ここはいっちょ明日にでも松井さんの前でトラックの前に飛び出して、「僕はしにましぇん」くらい言わないといけないかもしれない。そう決意して松井ストリートにいくと、松井さんはマダムたちに取り囲まれていた。明らかにいつもと様子が違う。

スマホを取り出し、急遽メールが来てそれに返信しなければならない風を装ってその様子を伺っていた。どうやらマダムたちが松井さんに詰め寄っているようだった。

「ちょっと、なんでうちの子だけ」

「そうよ、なんで子供を差別するの」

「子供たちは傷つきやすいんですから自覚を持ってもらわないと」

マダムたちはかなりヒートアップしている。松井さんは両眼を閉じてじっと聞き入っていた。そしてマダムたちの次の言葉に僕は衝撃を受けた。

「どうしてうちの子にだけ挨拶をしてくれないんですか!」

なんということだろうか。松井さんは、僕だけでなく、他の特定の子供にも意図的に挨拶をしていなかったのだ。

「理由を教えてください!許しませんからね!」

詰め寄るマダム。松井さんはゆっくりと目を開き答えた。

「私はここを通る人の顔を全部覚えてます。そして、向こうから挨拶してくれるのをずっと待ってます。一度でも挨拶をしてくれた人には次は私から挨拶するようにしています。わたしは誰かに頼まれて立ってるわけでもないですからね。挨拶をしない人にはしないだけですよ」

さすがに長時間スマホのチェックは不自然で、そのまま通過するしかなかったのでこの後がどうなったかは分からない。けれども、僕が挨拶をされない理由が分かってしまった。欲しいなら待っていてはいけない。自分から取りに行かねばならないのだ。よくよく考えれば、どうして何もせずに挨拶をされると思い込んでいたのだろうか。松井さんは誰かに雇われて挨拶マシーンとして立っていたわけではない。何もせずに挨拶されると思い込んでいたのがおかしいのだ。

次の日、勇気を出して松井さんに挨拶をした。

「おはようございます」

その日最初に出した声だけあって、上ずってオネエ系のようだった。松井さんは満面の笑みで

「おはよう、今日も頑張って」

そう返してくれた。

待っていてやってくるものは誰かの押し付けだけである。思想だったり都合だったり、そういったしがらみが絡み合った結果にコロリとやってくるだけで、それは自分のものではない。

「その仕事俺がやるよ」

仕事をやる気があるのに回ってこないと愚痴を吐くより、勇気を出してそういうべきだ。なんだか職場での僕の立場も少し良くなったように思う。きっと松井さんは子供たちにそう教えたかったんじゃないだろうか。

あれから一年。松井ストリートにもう松井さんは立っていない。なんだか昨年の夏過ぎに葬式的なことを慌ただしくやっていて、それ以来、玄関脇に置かれていた松井さんの杖もなくなっていた。

それでも子供たちは松井さんの家の前を通ると大きな声で木に向かって挨拶をする。僕も上ずったオネエのような声で大きな木に向かって挨拶をしている。駐車場に置かれた時計だけが変わらず今でも時を刻み続けている。