おしっこを買いにいった秋山くんの話

一緒におしっこを買いに行かないか。

この世の中にはいろいろな人がいる。それこそ多種多様で、その様々な人が様々な経験をしているのだから誰かの興味を惹く逸話が数多く生まれているわけだ。

けれども、そんな多種多様の経験の中でも「友達に誘われておしっこを買いに行った」経験がある人はそうそういないはずだ。今回はそんなお話だ。

秋山君は気の弱そうな青年だった。同じ大学の同じ学部、けれども学科が違うので講義で一緒になることはない、そんな関係性だった。ただ、お互いに喫煙者だったので、講義室の前に置かれた灰皿の場所でよく一緒になったものだった。

秋山君はそんなものどこで売ってるんだと言いたくなるような、魔女が吸ってるみたいな、ちょっと擦れた「中身おっさんだから」と言い出しそうな20代後半のOLが吸っていそうな細長いタバコを吸っていた。だから印象的でよく覚えていたのかもしれない。

当時はそこまで分煙意識が進んでおらず、喫煙所なる存在もなかった。講義室の前に無骨な銀色の灰皿が置かれており、みんなそこでみんなタバコを吸っていた。

ただ、明らかに喫煙者が減少傾向に転じるような過渡期であったため、灰皿を囲むメンツは少なく、徐々に灰皿も統合されていった。そうして、別の学科の秋山君とよく灰皿を囲むことになった。

「どうですか? 単位のほうは?」

秋山君はいつもそういって魔女みたいなタバコに灰を落としながら話しかけてきた。どうやら彼は一浪して一留しているらしく、本来なら2つ学年が上のようだった。それがコンプレックスらしく、しきりに単位のことばかり気にしていた。

「まあまあですよ。必修さえ落とさなければいけます」

僕も毎朝、パチンコ屋に通い、サンダーVのモーニングを取り続けるという大学生にあるまじき生活を送っていたので、単位は危なかった。それでもなんとか留年しない程度の位置には付けていたので、まあそこまで心配はしていなかった。

「単位と財布は落とさないに限りますよ」

秋山君はそう言ってタバコの煙を吐き出し、少しだけ自虐的に笑っていた。秋山君的には渾身のユーモアだったようだが、僕にはちょっとその面白さは分からなかった。

ある日のことだった。

たしかその日は朝から激しい雨が降っていた。夏に降るそれとは少し様子が違っていて、少しだけ冷たい水滴が、秋の到来を予感させるものだった。

講義室の前のレンガ張りの通路には激しく雨が打ち付けており、喫煙者たちは屋根の下に置かれた灰皿の元に逃げるようにして移動し、タバコを吸っていた。そこで秋山君に会い、また単位がどうこうという話になった。

そこで彼がとんでもないことを言いだした。

「おしっこを買いに行きませんか?」

秋山君はいつもと変わらない笑顔を見せていたが、いつもと変わったとんでもないことを言いだた。

「おしっこを……買う……?」

おしっこという排泄的な行為と、買うという商業的な行為が頭の中で繋がらなかった。僕がまごまごしていると、秋山君は補足するように付け加えた。

「今日、必修の講義に遅刻してしまいましてね、晴れて単位を落とすことが決定してしまいました。まだ秋だというのに留年が決定です。だからおしっこを買いに行くんです」

皆さんはこれまでの人生の中で様々な補足説明を受けてきたことだと思う。基本的に、人と人とのコミュニケーションは断絶が前提だ。

つまり、人の意志や意図は多くの場合で人には伝わらない。だから補足説明が必要となる場面が多々ある。そういった事情もあって今これを読んでいる皆さんは多くの補足説明を受けてきた経験があると思う。けれども、この秋山君の補足説明以上に補足になっていない説明を受けた経験はそうそうないと思う。

「留年が決定したからおしっこを買いに行く?」

全く意味が分からず、まごまごとしていると、秋山君は人差し指と中指の間に挟んだ魔女みたいな細長いタバコをヒラヒラさせるとさらに補足説明を続けた。

「前々から決めていたんです。留年が決定したらおしっこを買いに行こうって。ほら、手帳にも書いてある」

どうしよう。説明されればされるほど意味が分からなくなる。いまいったい何に巻き込まれつつあるんだ。

誇らしげに提示された手帳の「備考」の欄にはしっかりと「おしっこ購入」と紫色のペンで書かれていた。意味が分からなすぎてなんだか恐ろしくなってきた。

「ちょっとこれを見てください」

今度は当時流行していた銀色の折り畳み式の携帯電話の画面を見せつけてきた。詳しくは覚えてなかったけどこんなことが書いてあったと思う。

それは隆盛を誇っていた出会い系サイト、スタービーチの画面があって、そこでおしっこを売ってくれる女の子を募集したとのことだった。

「おしっこを売ってくれる人いませんか? なるべくたくさん売ってくれる人を優先します。3.8リットルで5千円から!」

3.8リットルで5千円という値段が妥当なのか、ダンピングしすぎなのか、それとも相場を壊すほど高値なのか全く分からないのはさておき、基準の単位が3.8リットル、ガロンで買おうとしてることに恐怖を覚えた。冷静に考えると1ガロンのおしっこをもってくる女って恐怖でしかない。

「定期的に投稿しているんだけど全然売ってくれる人いなくてさ」

秋山君はそういって寂しげな表情を見せた。そりゃそうだ。1ガロンのおしっこを持ってこれる女性はそうそういない。よくよく考えたら当たり前のことだ。いるはずがない。

「ただ、今日になってメッセージが届いたんだよ。この「ミホ」って子なんだけど、今朝出したので良ければって来たんだよ!」

いたのかよ。しかも今朝したのって、ミホは早朝から1ガロンのおしっこをするのかよ。

「留年が決まった日におしっこを売ってくれる女性が現れる。これは運命だと思うんです。だからきょう買うしかない。一緒にいきましょう」

最初から最後まで一貫して意味が分からなすぎて爽快さすら感じるようになってきた。それでもこれから講義もあるし、持ちきれなくなった1ガロンのおしっこを持たされたりしたら嫌だなあ、と思った。

「いや、僕はまだ留年が決定してないので、別におしっこ買いに行かなくても……」

そんなことを言って断ったと思う。僕自身も自分で言いながらすごく意味不明な断り方をしていると思った。断じて留年とおしっこ購入はリンクしていないのに受け入れつつある自分がいた。

けれども秋山君は引き下がらなかった。

「こういう取り引きは危険が伴うんです。美人局みたいなこともあるかもしれないし、お金だけ取られるかもしれない。だから決して一人で行ってはいけないんです。これは鉄則ですよ」

まるで麻薬の取引みたいなトーンで話されるし、おしっこ購入界の暗黙のルールみたいな話をあたりまえにされても困る。

「じゃあ行くよ」

気が進まない感じもあったが、それ以上に1ガロンのおしっこを売りに来る女にも興味があった。何を食って育ったら1ガロン(約3.8リットル(米国基準))のおしっこを持ってきて、それを金に換えようという思考が生まれるのだろうか。もちろん、買う方、つまり秋山の心理にも興味がある。なぜ彼はそんなにもおしっこを買おうとするのか、それを見届けなくてはならないと思った。

取り引き現場は、郊外にある国道沿いのホームセンター、そこの駐車場だった。なんでホームセンターなのかは分からない。向こうが指定してきたそうだ。いつのまにかすっかり雨は上がっていて、駐車場には無数の水たまりができていた。

「なんでホームセンターなんだろう?」

僕がそうたずねると秋山君は、

「わかんないけど、3.8リットルのおしっこが入る容器とかを購入するんじゃないか」

みたいなことを言っていた。ここで気が付いた。こいつの言葉の中で僕に理解できることが何一つないということに。朝採れのおしっこを持ってくると言っていたので、ここで容器を買う必要はない。あるとするならばここで買ってその容器に直におしっこをすることだが、それはそれで怪物だ。3.8リットルも出るわけがない。

駐車場でポカンと待っていると、明らかに攻撃力の高そうなワゴンR浜崎あゆみの音楽をガンガンに鳴らしながら入ってきた。なんでだろうか、もしかしたら普通に木材とかを買いに来た客かもしれないのに直感的に分かった。あいつが1ガロンのおしっこを売りに来た女だと。直感的にそう感じた。

あいつだ。メールではワゴンRが目印って言ってたから」

ワゴンRから降りてきた女は、もしかしたら3.8リットル、つまり1ガロンのおしっこなら出すかもしれない、と信じてしまいそうなパワフルな感じの女性だった。ファイナルファイトで電車の中で襲ってくる紫の敵に似ていた。

「はい、これ。5千円だったよね」

車の後部座席から、2リットルの爽健美茶のペットボトルが3本登場してきた。3本ともに茶色い液体がパンパンに詰まっている。3.8リットルの取引なのに2リットルがパンパン、それが3本である。6リットルだ。こいつは6リットルのおしっこを持ってきやがった。なんでこいつ6リットルも持ってきたんだ。もはや自分がいまどういう世界線にいるのかわからなくなっていた。

「これ本当におしっこなの?」

秋山は食い下がった。そう、確かにおしっこにしては茶色すぎる。これお茶じゃないか。というか、そのまま爽健美茶が詰まっているんじゃないか。それが3本で5千円で売れるならばめちゃくちゃ効率の良い商売だ。6リットルおしっこを出すことを考えれば誰だってそうする。

「ちゃんとおしっこだよ」

女も負けじと食い下がった。ちゃんとおしっこ、って言葉、この先の人生で聞くことはないんだろうなって漠然と思った。

その光景を眺めながら、いや、普通に考えて世間一般ではおしっこより爽健美茶の方が価値があるだろ。どう考えても客先で爽健美茶が出てきたら喜ぶけど、おしっこ出てきたら怒るだろう。どうしてここではその価値が逆転してるんだ、と不安になった。いま僕はどんな世界線にいるんだ。

「本当におしっこなのか確認して欲しい」

秋山君はものすごく嫌なことを言った。世の中にはパワハラモラハラが蔓延し、セクハラだってあちこちで起こっている。その一環で嫌なことを言ってくる人ってたくさんいるんだけど、僕はこの時の秋山ほど嫌なことをいった人物を知らない。僕のこれまでの人生においてこの言葉が最も嫌な言葉だった。たぶんこの記録はそうそう破られることはないと思う。

「え? どうやって?」 

動揺しながら答えると、秋山は即座に言い放った。

「臭いとか、味とか」

そうそうに「人生において最も嫌な言葉」の記録が破られることになってしまった。嫌すぎる。本当に嫌すぎる。いとも簡単に記録越えしてくるんじゃない。

「おしっこだってぇ」

女はファイナルファイトの敵みたいな顔しやがって、甘えた声を出しやがる。黙ってろ。これがおしっこだったらお前絶対に体のどこかがおかしいぞ。まっ茶色じゃねえか。

それでも秋山の勢いはすさまじいものがあるので、臭いを嗅いでみるのはいやだし、ましてや味わうなんてとんでもないと思いつつ、引っ込みがつかなくなって爽健美茶のペットボトルを手に取ったところ、全く封が開いていなかった。手応えが完全なる未開封だった。

「これ未開封だよ、これ爽健美茶だよ!」

匂ったり味わったりしなくていい。未開封なら絶対に偽物だもん。僕のテンションも上がった。何が本物で何が偽物なのかもはや分からない状態だけれども。

それを聞いた秋山君は怒った。魔女みたいなタバコに火をつけ、凄みを効かせてファイナルファイトに詰め寄った。

「おしっこだと思わせておいて爽健美茶とはねえ」

自信満々に言ってるけど普通は逆だ。爽健美茶と見せかけてフェイクでおしっこならわかる。分からんけど分かる。

ファイナルファイトは開き直った。

「バーカ、3.6リットルもおしっこでるわけないだろ」

ここまでの一連の流れで初めて「ごもっとも」と言いたくなるセリフが飛びだした。

追い詰められたファイナルファイトワゴンRに乗り込み悪態をつきながら浜崎あゆみを轟かせて去っていった。リアガラスには浜崎あゆみのマークがさっそうと光り輝いていたのが印象的だった。

「くそ、偽物だったか」

秋山君は悔しさをにじませた。

すっかりと日が傾いていて、薄い雲を通り過ぎてオレンジ色の光が駐車場を照らし、水たまりに反射したその夕暮れが駐車場を照らし始めたライトの色と混じって少しだけ黄色がかっていた。それはまるでおしっこの色のようだった。

「おしっこってほっといても自然と出るもんじゃん。だからゲン担ぎで、単位も自然と出るようになると思ったんだけどなあ」

秋山君は終始一貫して理解できない言葉を発していた。

「まあ来年も頑張るわ。なんとかおしっこを入手して単位も取らないとな」

本当に一貫して理解できない言葉を発していた。おしっこ手に入れるよりちゃんと出席して課題を出してテスト勉強してください。

それから秋山君に会うことはなかった。次の年も、その次の年も、大学で見かけることはなくそれからしばらくして学内からは灰皿が撤去された。

秋山君どうしてるかなあ。今でも雨上がりの夕暮れを見ると思い出す。道路にできた水たまりが少し黄色がかりおしっこみたいになっているのを見て、せめて幸せであって欲しいと願ってやまない。




ひとりNIKKI SONIC 2020 No.01 Numeri pato