宝塚記念2021徹底予想!(最終結論)

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四つ葉のクローバーを見つけるために他の三つ葉を踏みつけていたんじゃ、なんにもならない。

女は言った。四つ葉のクローバーを探す人は、その他の四つ葉に至らないクローバーを踏みつけている。


幸せを探すために他の何かを踏みつける行為は何より嫌悪の対象だと。でも、この世はそんな幸せで溢れているよね、皮肉なものね、幸せってそういうもの、と付け加えた。それは諦めに似た表情だったかもしれない。

 でもね、一説によると三つ葉は踏みつけられ、傷つけられ、それを修復すときに四つ葉になるらしいよ。踏みつけられ、傷つけられた先に幸せがある、むしろ傷つくから幸せがある。幸せってそんなものじゃないのかな。キノコみたいな髪型をした男がしたり顔でそう言った。

 誰かが幸せを求めて誰かを踏みつける。でもそこから新しい幸せが生まれるってことね。つまり、三つ葉もはやく踏みつけて欲しいって思っているのかもね。そのときは傷ついたとしても、その先に幸せがあるんだから。女はハウスマヌカンみたいになった短めの髪を撫でながらそう返した。

 きっとそう。キノコはまた、したり顔で笑った。

 

東京競馬場の外、少し外れた場所に小さな空き地がある。普段は臨時的な駐車場に使われているようで、黄色いロープが張られている場所だ。

そこでは、季節になるとよく分からない雑草が育ち切り、小さな黄色い花を咲かせる。普通、雑草ってそうなる前に駆除されるのだけど、これだけ放置されるとここまで大きくなるし、花を咲かせる種類もあるんだ、と毎年のことながら驚く。ここまでいくと雑草としてもさぞかし本望なんだろうと思う。

 片隅には、砂利の上にこびりつくかのようにクローバーが茂っている領域があって、近所の子供だろうか、数人の子どもが狂ったように四つ葉のクローバーを探していた。その光景を見ていたハウスマヌカンとキノコが冒頭の会話を展開していた。

 

 「四つ葉を探すために三つ葉を踏みつけてはいけない」

 「でも、踏みつけられるから三つ葉は四つ葉になれる」

 

こんな言説はよくあることだが、これらの考え方には重要な観点が抜けている。そう、たぶん、三つ葉は四つ葉になんかなりたがっていない、という点だ。

 

踏みつけられることで四つ葉になれる、なんて考え方をすると、さも四つ葉の方が上位の存在と思うかもしれないが、四つ葉を幸せの象徴と位置付けているのは人間だけで、三つ葉からしたらどうでもいいし、それで踏み荒らされるのは勘弁、といったところではないだろうか。

骨折状態を幸せである上位存在と勝手に位置づけられて、骨が強くなるから腕の骨を折ってやるよ、と言われてぜひ折ってくださいと懇願する人はいないはずだ。

 

人間が勝手にそう思っているだけ、当事者はそうではない。こういった四つ葉のクローバーの問題は、競馬にも同じことが言える可能性が存在するのだ。

 

僕たちは競馬が紡ぎだす物語にロマンを見出し、勝手にストーリーを膨らませる。あの馬がついに悲願の初GI制覇だ、あの馬がついに雪辱を晴らした、ライバルに負けてられないとあの名馬は奮起した。そういった背骨にあるストーリーは競馬を面白くする。これらは、あるアプリゲームが流行してからことさら強調されるようになったと思う。もちろん僕だって、そういったロマンは好きだ。競馬とはロマンとストーリーだ。そう言い切ることができる。

 

けれども、決して忘れてはいけない観点がある。クローバーが四つ葉になりたがっていないように、馬だってそう考えていないかもしれないのだ。というか、絶対にそう考えていない。その観点をずっぽり落として馬にロマンを背負わせることのエゴは知っておくべきである。

 

馬は頭のいい動物だ。けっこうなことを理解している。けれども、馬にとって悲願のGI制覇も雪辱もライバルも、比較的にどうでもいいことじゃないだろうか。彼らはただ、生きるために走っている。そこにロマンを投影しているのは人間のエゴなのだろう。

 

僕らが競馬を好きでいる気持ちはエゴで成り立っている。レース中に亡くなる馬もいる。予後不良となって安楽死される馬もいる。勝てなかった馬はどこに行くのだろうか。引退したすべての馬たちは悠々自適の余生を過ごせているだろうか。そんな多くの問題に目をつぶり、僕たちは競馬に夢中になる。そこにロマンという思いを勝手に投影していく。

 

僕たちはとんでもないエゴを抱え競馬に夢中になっている。そして勝手にロマンを投影し、さらにエゴを深めていく。少なくともその観点を忘れてはならないのだろう。僕らが熱狂する多くのことは、馬にとってはどうでもいいことなのだろう。

 

 

2015年、宝塚記念

 

この時、僕は70万円が必要だった。手元には35万円あった。この年の宝塚記念はとても手堅く、一番人気のゴールドシップでほぼ確勝だろうという雰囲気が蔓延していた。

 

長距離GIである天皇賞春、長距離GIIである阪神大賞典と勝利して望んだゴールドシップ宝塚記念。なにより、宝塚記念を得意とする馬だった。

 

2013年、2014年と宝塚記念を制覇し、同一GI三連覇がかかったレースだった。JRAの長い歴史において同一GIを三連覇した馬は存在しない。史上、もっともそれに近づいたのはゴールドシップの祖父にあたるメジロマックイーンだった。

 

91年、92年と天皇賞春を連覇し、迎えた93年。ライスシャワーに敗れたメジロマックイーンは2着に終わった。1着、1着、2着、僅かの差で偉業は達成されなかったのだ。それだけ同一GIを三連覇することは難しい。

 

けれども、ゴールドシップはやってくれると思っていた。なにより、祖父であるメジロマックイーンの悲願を達成したい、ゴールドシップ自身もそう熱望していると考えていた。そんな勝つ要素しか見えないゴールドシップ単勝1.9倍。35万円を賭ければほぼ70万円に届く勢いだ。いくしかない。なによりゴールドシップが勝ちたがっている。ゴールドシップはムラがある馬だけど、こういうときは強い。信頼できる。もう行くしかなかった。

 

そして迎えた宝塚記念。35万円の単勝。いける。ゴールドシップ、祖父の悲願を達成するんだ。

 

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35万円ぶち込んだゴールドシップの発走。

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 当時の”その瞬間”の僕のツイート。

 

 

結局、ゴールドシップゴールドシップだった。三連覇の偉業も、祖父の悲願も僕の35万円も、ゴールドシップにとってはどうでもいいことなのだ。彼は彼の好きなように振る舞い、たまに激走する。それだけだ。

 

この一瞬で120億が紙屑になったとか、そんなことはすべて人間のエゴの結果でしかない。

 

馬たちは一生懸命に走っている。生きるためだ。

クローバーは必死に傷を修復し、ときに四つ葉になる。生きるためだ。

雑草は必死に伸び、時に花を咲かせる。生きるためだ。

 

そこにストーリーを見出すのはすべて人間のエゴなのだ。そして競馬とはエゴなのだ。決してそこから目を背けてはいけない。

 

例え馬券が外れたとしても、レース後は全ての馬を「おつかれさま」と労ってあげるべきなのだ。

 

 

6月27日 宝塚記念 GI 阪神競馬場 2200m
◎カレンブーケドール
○モズベッロ
△クロノジェネシス
△レイパパレ
△キセキ