宝塚記念2021徹底予想!(最終結論)
四つ葉のクローバーを見つけるために他の三つ葉を踏みつけていたんじゃ、なんにもならない。
女は言った。四つ葉のクローバーを探す人は、その他の四つ葉に至らないクローバーを踏みつけている。
幸せを探すために他の何かを踏みつける行為は何より嫌悪の対象だと。でも、この世はそんな幸せで溢れているよね、皮肉なものね、幸せってそういうもの、と付け加えた。それは諦めに似た表情だったかもしれない。
でもね、一説によると三つ葉は踏みつけられ、傷つけられ、それを修復すときに四つ葉になるらしいよ。踏みつけられ、傷つけられた先に幸せがある、むしろ傷つくから幸せがある。幸せってそんなものじゃないのかな。キノコみたいな髪型をした男がしたり顔でそう言った。
誰かが幸せを求めて誰かを踏みつける。でもそこから新しい幸せが生まれるってことね。つまり、三つ葉もはやく踏みつけて欲しいって思っているのかもね。そのときは傷ついたとしても、その先に幸せがあるんだから。女はハウスマヌカンみたいになった短めの髪を撫でながらそう返した。
きっとそう。キノコはまた、したり顔で笑った。
東京競馬場の外、少し外れた場所に小さな空き地がある。普段は臨時的な駐車場に使われているようで、黄色いロープが張られている場所だ。
そこでは、季節になるとよく分からない雑草が育ち切り、小さな黄色い花を咲かせる。普通、雑草ってそうなる前に駆除されるのだけど、これだけ放置されるとここまで大きくなるし、花を咲かせる種類もあるんだ、と毎年のことながら驚く。ここまでいくと雑草としてもさぞかし本望なんだろうと思う。
片隅には、砂利の上にこびりつくかのようにクローバーが茂っている領域があって、近所の子供だろうか、数人の子どもが狂ったように四つ葉のクローバーを探していた。その光景を見ていたハウスマヌカンとキノコが冒頭の会話を展開していた。
「四つ葉を探すために三つ葉を踏みつけてはいけない」
「でも、踏みつけられるから三つ葉は四つ葉になれる」
こんな言説はよくあることだが、これらの考え方には重要な観点が抜けている。そう、たぶん、三つ葉は四つ葉になんかなりたがっていない、という点だ。
踏みつけられることで四つ葉になれる、なんて考え方をすると、さも四つ葉の方が上位の存在と思うかもしれないが、四つ葉を幸せの象徴と位置付けているのは人間だけで、三つ葉からしたらどうでもいいし、それで踏み荒らされるのは勘弁、といったところではないだろうか。
骨折状態を幸せである上位存在と勝手に位置づけられて、骨が強くなるから腕の骨を折ってやるよ、と言われてぜひ折ってくださいと懇願する人はいないはずだ。
人間が勝手にそう思っているだけ、当事者はそうではない。こういった四つ葉のクローバーの問題は、競馬にも同じことが言える可能性が存在するのだ。
僕たちは競馬が紡ぎだす物語にロマンを見出し、勝手にストーリーを膨らませる。あの馬がついに悲願の初GI制覇だ、あの馬がついに雪辱を晴らした、ライバルに負けてられないとあの名馬は奮起した。そういった背骨にあるストーリーは競馬を面白くする。これらは、あるアプリゲームが流行してからことさら強調されるようになったと思う。もちろん僕だって、そういったロマンは好きだ。競馬とはロマンとストーリーだ。そう言い切ることができる。
けれども、決して忘れてはいけない観点がある。クローバーが四つ葉になりたがっていないように、馬だってそう考えていないかもしれないのだ。というか、絶対にそう考えていない。その観点をずっぽり落として馬にロマンを背負わせることのエゴは知っておくべきである。
馬は頭のいい動物だ。けっこうなことを理解している。けれども、馬にとって悲願のGI制覇も雪辱もライバルも、比較的にどうでもいいことじゃないだろうか。彼らはただ、生きるために走っている。そこにロマンを投影しているのは人間のエゴなのだろう。
僕らが競馬を好きでいる気持ちはエゴで成り立っている。レース中に亡くなる馬もいる。予後不良となって安楽死される馬もいる。勝てなかった馬はどこに行くのだろうか。引退したすべての馬たちは悠々自適の余生を過ごせているだろうか。そんな多くの問題に目をつぶり、僕たちは競馬に夢中になる。そこにロマンという思いを勝手に投影していく。
僕たちはとんでもないエゴを抱え競馬に夢中になっている。そして勝手にロマンを投影し、さらにエゴを深めていく。少なくともその観点を忘れてはならないのだろう。僕らが熱狂する多くのことは、馬にとってはどうでもいいことなのだろう。
2015年、宝塚記念。
この時、僕は70万円が必要だった。手元には35万円あった。この年の宝塚記念はとても手堅く、一番人気のゴールドシップでほぼ確勝だろうという雰囲気が蔓延していた。
長距離GIである天皇賞春、長距離GIIである阪神大賞典と勝利して望んだゴールドシップの宝塚記念。なにより、宝塚記念を得意とする馬だった。
2013年、2014年と宝塚記念を制覇し、同一GI三連覇がかかったレースだった。JRAの長い歴史において同一GIを三連覇した馬は存在しない。史上、もっともそれに近づいたのはゴールドシップの祖父にあたるメジロマックイーンだった。
91年、92年と天皇賞春を連覇し、迎えた93年。ライスシャワーに敗れたメジロマックイーンは2着に終わった。1着、1着、2着、僅かの差で偉業は達成されなかったのだ。それだけ同一GIを三連覇することは難しい。
けれども、ゴールドシップはやってくれると思っていた。なにより、祖父であるメジロマックイーンの悲願を達成したい、ゴールドシップ自身もそう熱望していると考えていた。そんな勝つ要素しか見えないゴールドシップが単勝1.9倍。35万円を賭ければほぼ70万円に届く勢いだ。いくしかない。なによりゴールドシップが勝ちたがっている。ゴールドシップはムラがある馬だけど、こういうときは強い。信頼できる。もう行くしかなかった。
そして迎えた宝塚記念。35万円の単勝。いける。ゴールドシップ、祖父の悲願を達成するんだ。
35万円ぶち込んだゴールドシップの発走。
当時の”その瞬間”の僕のツイート。
ゴールドシップクソワラタ
— pato (@pato_numeri) 2015年6月28日
結局、ゴールドシップはゴールドシップだった。三連覇の偉業も、祖父の悲願も僕の35万円も、ゴールドシップにとってはどうでもいいことなのだ。彼は彼の好きなように振る舞い、たまに激走する。それだけだ。
この一瞬で120億が紙屑になったとか、そんなことはすべて人間のエゴの結果でしかない。
馬たちは一生懸命に走っている。生きるためだ。
クローバーは必死に傷を修復し、ときに四つ葉になる。生きるためだ。
雑草は必死に伸び、時に花を咲かせる。生きるためだ。
そこにストーリーを見出すのはすべて人間のエゴなのだ。そして競馬とはエゴなのだ。決してそこから目を背けてはいけない。
例え馬券が外れたとしても、レース後は全ての馬を「おつかれさま」と労ってあげるべきなのだ。
6月27日 宝塚記念 GI 阪神競馬場 2200m
◎カレンブーケドール
○モズベッロ
△クロノジェネシス
△レイパパレ
△キセキ
自分に返ってくる記事と返ってこない記事
(文章を書く人に伝えたい100のことPart54)
記事を書く上で明確に意識しなくてはならないものがあります。それが「自分に返ってくるのか」という点です。
返ってくるって何が? と思うかもしれませんが、厳密に説明しようとするとちょっと難しい表現になります。単純に身も蓋もない言い方をすると「書いたという事実」です。これが返ってくるのか返ってこないのか、これは明確に意識しなくてはなりません。
例えば、週刊誌を見てみましょう。なんでもいいです。じゃあ、週刊SPA!にしましょう。その辺で立ち読みしてきてください。週刊SPA!の記事にはひとつひとつ、誰が書いたか記名がされています。ほとんどがページの左下に書かれています。
たまにめちゃくちゃ下劣な記事の場合はこの記名の部分を「SPA!パパ活徹底攻略調査班」などとかいて名前を伏せることがありますが、基本的に記名がなされています。
ただ、多くの記事の場合、この記名を見て「ああ、誰々さんの記事か~」ってなる人はあまりいません。いたとしてそれはほぼ同業者であり、圧倒的多数の読者は誰が書いた記事かを意識して読みません。反面、同じSPA!内にある著名な人が書いたりするコラムコーナーは誰が書いたのか意識されます。
記事がめちゃくちゃ面白かった場合、それが特集記事の場合、あの記事面白かったとなりますが、誰が書いた記事なのかは論じられません。論じるのは同業者と身内。
著名な人が書く連載コラムの場合「○○さんのコラム面白かった」となるわけです。これが返ってくる記事と返ってこない記事の違い。
ここで誤解してはいけないのが、誰が書いたか意識されない記事はダメで、意識される記事は良い、ということではありません。記事にはそれぞれの役割があります。
では、返ってくる記事と返ってこない記事、そこにはどんな違いがあるのでしょうか。それは「この人が書いているという事実」それだけです。簡単な言い方をするとそれは個性なのかもしれません。
週刊誌の特集記事なんかは、その記事の内容を伝えることが主目的であり、書いている人の個性はノイズにしかなりえません。逆に、連載コラムコーナーなどは、個性のない文章よりは個性のある文章でないと、その人が書く意味がありません。
で、その個性なのですが、文章の個性を勘違いしている人にありがちなのが、奇抜な一人称を用いたり、奇抜な語尾を用いたり、そういった形で個性を出そうとすることです。ただ、それは個性ではありません。単なるへたくそです。
では、記事の個性とはなんでしょうか。それを紐解く前に、今度はWebの記事について考えてみましょう。
週刊誌の例を出しましたが、Webの文章でも同じことが言えます。特にWeb記事は返ってくる文章と返ってこない文章の差が激しいです。なぜなら記事に対するフィードバックが明確に激しいからです。
めちゃくちゃバズる記事があっても、極端な話、それは例えば取材対象がすごくて、そのパワーだけでバズった場合は、誰が書いたの? となることが少ないです。何度も言いますが、誰が書いたのか気になるのはほぼ同業者です。
そうではなくて、着眼点がすごい、調理方法がすごいという場合も、やはり誰が書いたの、とはあまりなりません。大部分の読む人にとって、誰が書いたのかはあまり重要なことではないのです。
けれども、そこで「自分が書いた」と存在感を発揮することは重要です。それが返ってくる記事ということになります。
これがあると、次も読んでみようかとなるひともいますし、興味なさそうなタイトルだけで○○さんが書いたものだし、と敬遠されないこともあります。なにより書いた人のSNS等のフォローに繋がる可能性があります。もちろん他の記事依頼にも繋がるかもしれません。
では、個性を出すにはどうしたらいいか。それはズバリ「ちょっと異質」です。
もともとも著名な方が記事を書く場合、もうそれは多くの人が誰が書いたのか認識してくれます。ただそうでない場合、やはり圧倒的に認知されません。
じゃあ認知されようとめちゃくちゃ奇抜なことをすると、たぶんダダ滑りします。目も当てられないことになります。やめたほうがいいし、たぶんボツになります。大切なのは「ちょっと異質」です。
僕が依頼されてよそのサイトに記事を書くようになったときに明白に意識したのが「ちょっと異質」です。はじめて書いたのがSPOTというサイトです。そこでの記事を見てみましょう。
最初に書いた記事がこれです。僕の記事を多く読んでくださってる方は驚くかもしれません。けっこう真っ当に旅の記録を書いているのです。
SPOTに書くことになった際に、あまりほかの記事から逸脱してはならないと、けっこう真っ当に書きました。ただし、他の記事より少しだけ「異質」となるように、面白エッセンスを少しだけ多めにしました。
こういう面白味のある旅レポートもありやな、誰が書いたんだろと、「少しだけ異質」で自分に返ってきたところで、完全なる異質をぶちこみます。
2発目に書いた記事がこれ。
狂った旅の記事を書くことで完全に自分に返ってくるわけです。「この人は狂った旅記事を書く人」という認知こそが、自分に返ってくるということです。
Books&Appsでも同じことをしています。Books&Appsに書くことになった際に、そこにある文章を徹底的に読み込み、雰囲気をつかみ、そこから「少し異質」にします。
Books&Appsに最初に書いた記事がこれ。
Books&Appsは特にビジネスパーソンに向けたノウハウ的な記事が多かったので、少しだけビジネスノウハウ的テイストを入れて、おふざけの要素を入れます。これが「ちょっと異質」です。
Books&Appsでちょっとふざけた文章を書く、この人は何なんだと自分に返ってきたところで
2発目でぶち込みます。
これらは完全に自分に返ってくることを意識して、1発目で「ちょっと異質」そして2発目で明白に「異質」にして爆発させます。
僕は今では色々なサイトに寄稿していますが、すべてのサイトで共通して意識していることがあります。それが「異質」です。
かならず、そのサイトの他の記事からは少し外れる内容を書いています。それが自分に返ってくることになるので。
何度も言いますが、自分に返ってくる記事が優秀で、返ってこない記事がダメということではありません。記事には役割があります。
ただ、もし自分に返ってくる必要があると感じたのなら「少し異質」を意識して書き始めるといいかもしれません。
ちなみに「少し異質」をやるのはそう簡単なことではありません。いばらの道です。なぜなら、サイトのカラーから外れるテイストは当たり前に嫌がられる傾向にあるからです。それをねじ伏せるパワーを記事に潜ませる、それが可能なように研鑽することこそ、長い目で見たときに「自分に返ってくる」ということなのかもしれません。
サンダーVと尾道兄さん
そこには3つの「V」が並んでいた。
1997年、香港返還などの話題がテレビから聞かれたその年に、伝説の名機、サンダーVはデビューした。スロットと聞くと僕はいまだにこのサンダーVを思い出す。思えば、僕の青春だったのかもしれない。
なにかスロットの実機を購入して懐かしさに浸る、という企画が立ち上がった時、迷うことなくサンダーVを購入すると決めていた。
ということで購入した。やや汚れて、パネルも黄ばんでいるが、間違いなくサンダーVだ。
過去の名機といえども入手はなかなか困難だった。ネット通販で購入したのだけど、めちゃくちゃ送料が高かった。さらに、持ってきた西濃運輸のおっさんがクッソ非力な感じで、ゼーハー言いながら死にそうになって配達してくれた。そうスロット機とは重いのだ。そんなものが我が家にあることがちょっとおかしい感じがした。あの日、あの時、熱狂した名機が我が家にある。それはなんだか奇妙な感覚だった。東京で知り合った友達が地元の町にいる、みたいな感覚だ。
このサンダーVという機種には大きな特徴がある。冒頭でも述べたように圧倒的な存在感を誇る三連Vの存在だ。
スロットはボーナス絵柄である「7」を止めて揃えることがメイン目的となることがほとんどだ。いわゆる、スリーセブンというやつだ。
ある時期から「7」以外の絵柄でも「7」と同じ役割を果たす絵柄が業界で流行しだした。僕の記憶が確かならば、ニューパルサー(山佐)のカエル絵柄が最初ではないかと思う。
それらは一気に大ブレイクし、その機種を特徴づけるユニーク絵柄として多くの機種で搭載されるようになった。
サンダーVにおいても、この「V」の絵柄が「7」と同じ役割を果たすユニーク絵柄となっていた。そこまでは他の機種と何ら変わらなかったが、サンダーVには大きな特徴があった。それが三連の「V」の存在だ。この衝撃は相当なものだった。
この辺は詳しく説明するとややこしいのだけど、スロット機はボーナスが成立して揃うぞ、という状態でないと出ない組み合わせがある。この3連「V」は出た時点でボーナスが揃う状態であることを示唆している。いわゆる1確というやつだ。これが出たらもう安心。そういった事情がこの3連「V」をさらにインパクトあるものにしていた。
打ち込んでみる。
機械音が6畳の部屋に響き渡る。スロット実機は思った以上に音がうるさい。ただ、それは心地よいものだった。
絵柄が、ストップボタンの感触が、音楽が、あの日の僕にトリップさせてくれる。そう、夢中だったあの日にタイムスリップできるのだ。僕の意識もいつの間にか「あの日」に旅立っていた。
★
1998年夏、僕らはこの3連「V」を毎日のように追い求めていた。
前年に彗星の如くホールに現れたこのサンダーVは瞬く間に多くの店をサンダーVに染め上げていった。その人気から翌年の98年になっても店の主力機種として君臨し、多くの人を虜にしていた。
当時のホールは、朝からの客付きをよくするために「モーニング」というサービスを行っていた。
単純に言ってしまうと、普通はたくさんコインを入れて何回もプレイし、抽選を受け、ボーナスを揃えられる状態にすることを目指すのだけど、朝っぱらから何台かは、もうボーナスを揃えられる状態になっている、というものだ。朝からだから「モーニング」という。これはなかなか衝撃的なサービスだった。
ボーナスを1回揃えるとだいたい5000円分くらいのコインが出てくる。視点を変えて考えると何枚かの5000円札が朝から店の中に落ちている状態だ。それを拾いに朝っぱらから多くの客が殺到していた。
このサービスはもう今の時代では禁止されており、行われていないが、当時は当たり前のサービスだった。やっていない店の方が珍しかった。ただ、その規模に差異はあって、あの店はモーニングが何台、あの店は何台と傾向があった。多くモーニングが投下されている店は人が集まり、競争率が高くなるという摂理が働いていた。
僕が通っていた店は老人が多かった。老人は動きが遅いし、なにより3連「V」を停める技術がない。前述したように、3連「V」はボーナスが揃う状態でしか停まらないので、モーニングの有無を調べるのに最適だ。開店と同時にサンダーVのコーナーになだれ込み、端の台から三連Vを狙っていく。停まらなければ隣の台だ。これが老人にはなかなか厳しいようだった。僕らは三連Vが止まらない時点でモーニングなしと判断できるが、老人は自分の力量のせいで停まらないのか、モーニングがないからなのか判別できないのだ。
そんな中で猛威を奮っていた僕は、連日、モーニングを取得していた。
早い話、朝起きて店に並ぶだけで5000円貰えるのだ。金のない大学生だった僕には最高のアルバイトみたいなものだった。行くだけで5000円くれる、こんな楽園は他にはないと思いつつ、老人を蹴散らし、毎日のように3連Vを停めていたのだ。
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また規則正しい機械音が部屋の中に響き渡った。
思い出に浸りながら打ち込んでいると、すぐに3連Vが出た。
「これだよ、これ、これのために毎日早起きしてたんだよな、大学にもいかずになあ」
ついつい呟いてしまった。
思い出は常に優しい。なんとなく良い思い出ばかりだったような気がするが、おそらくそれは都合よく改竄されたものなのだろう。軽やかに毎日モーニングを取っていたような記憶だが、それは初期だけで、実際にはそうではなかった。すぐに思い出した。
★
ある日のことだった。三連V取り放題の楽園にライバルが現れた。
それは「尾道兄さん」と呼ばれる若い男だった。細身の飄々とした男で、なんでも、名前の通り、尾道に住んでいるらしかった。尾道から毎日きていると豪語していたが、普通に考えて異常である。尾道はここから50キロくらい離れた場所だ。何かがぶっ壊れている。
「毎日6時に家を出るんだ」
尾道兄さんは行列の老人にそう宣言していた。
この言葉だけでどれだけ頭のおかしい人物であるかが伺える。50キロ運転してきてサンダーVのモーニングを取りに来ているのだ。5000円を取りに来ているのだ。普通に尾道にもそういう店はあるのにだ。なぜか、ここまで来ているのだ。もしかしたらあまり損得とか計算できない人なのかもしれない。
ただ、尾道兄さん、頭はおかしいが行動は素早かった。
開店と同時に残像を残しながらサンダーVのコーナーに走り、あっという間に数台を打ち込んで三連Vを射止めるのだ。僕も負けじと素早さを上げ、三連Vを射止める。だいたい20台くらいサンダーVが設置されているこの店で、モーニングは2台投入されていたのだけど、僕と尾道兄さんが奪取する日々が続いた。
「あいつ素早いな」
僕はそう感じて尾道兄さんを認めていた。
「あいつは少し動きが遅いけど、モーニング投下のクセを見抜く嗅覚がすごい」
尾道兄さんも僕のことをそう認めていたと思う。早い話、良きライバルとして認め合っている間柄だった。そう書くとカッコイイ感じがするが、やってることは5000円のモーニング取りである。それも老人を蹴散らしてだ。
そんなある日、事件が起こった。
連日、2台しか投下されないサンダーVのモーニング、それを僕たちに取られることを良く思わなかった老人たちが結託したのだ。
老人たちは何をどうやっても素早さで僕らに勝てなかったし、三連Vを止めることができなかった。そこで老人たちは死ぬほど早く店に来るという作戦をとり始めた。
早起きだけは得意なので、集団で先頭に並び、開店と同時に何人かがモタモタとして後続をブロックする。その隙に先頭の爺さんがサンダーVに走り、三連Vを射止めるのである。
これは本当に悪質な作戦で、ブロック役の爺さんが心筋梗塞みたいな素振りを見せてせき止めてくるので本当にシャレにならなかった。僕も尾道兄さんも「そこまでやるか」という思いでいた。
★
ひょんなことを思い出して笑ってしまった。酷かったな、あの心筋梗塞ブロック。懐かしい気持ちに胸を焦がしながらサンダーVを打ち続ける。
また淡々と機械音が響いていた。
なんかこれ、いつまでも打っていられるな。そう思いながら淡々とサンダーVを回す。設定1にしてあるので今度はなかなかボーナスが出ない。スイカを揃えても何も重複しないし、中チェも全く熱くない。ただの2枚役だ。そんな事実が妙に新鮮だ。
「あの心筋梗塞ブロック、どうやって攻略したんだっけ」
ふと考えた。
また、あの日のサンダーVへと記憶が旅立っていった。
★
ある日、いつものようにサンダーVを打っていると、尾道兄さんが僕のところにやってきた。僕と尾道兄さんは、毎朝顔を合わせていたけど、ちゃんと会話をしたことはなかった。ただ、顔を知っている人、なかなかやるヤツ、そういう印象だけだ。そんな人が話しかけてくるのだから、まあ、非常事態なのだ。
「そろそろあれを攻略すべきだと思う」
何の話かと思ったが老人軍団の心筋梗塞ブロックのことだった。人道的な観点から嘘だとわかっていても苦しんでいる老人を蹴散らすわけにいかず、見事にブロックされ、モーニングを取れない日々が続いていた。僕はそこまで深刻ではなかったけど、50キロ離れた尾道から来ている彼は深刻だ。
「でもどうやって?」
そう言うと尾道兄さんはニヤリと笑った。
「俺に任せておけ」
自信に満ち溢れた尾道兄さんの姿がそこにあった。この人、こんな表情ができる人だったんだ。もっと陰気だと思っていた。
次の日、開店前の行列に並ぶと、そこにはすでに何人かの老人がいて、一体、何時から並んでいるんだよという勢いで君臨しておられた。しかしながら、そこに尾道兄さんの姿はなかった。
「今日はトクさんが心筋梗塞で」
「よっしゃ任せておけ」
老人たちはそんな会話をしていた。今日も心筋梗塞ブロックが炸裂するらしい。心筋梗塞で、ってホントめちゃくちゃなセリフだな。
昨日あれだけ攻略すると豪語していた尾道兄さんの姿はない。彼は恐れをなして逃げてしまったのだろうか。というか、そもそも尾道から来てること自体がおかしいのだ。来ないことの方が自然なのかもしれない。
「ひとりで戦うしかないのか」
そう決意した時、約束の男がついに現れた。
「待たせたな!」
尾道兄さんは自信満々にやってきた。
「俺に任せておけ」
自信の男はそう言った。
いよいよ開店が近づき、老人軍団と僕たちの睨み合いが続いた。バチバチと熱い火花が散っており、天下分け目の決戦、かなり熱い展開のような気もするが、何度も言うように5000円取れるかどうか、というだけである。妙にみみっちい。クソみたいな闘いだ。
いよいよ開店だ。
ワーッと先頭の老人軍団が重い体を引きずりながらサンダーVコーナーに走る。そして心筋梗塞役の爺さん、トクさんが、入り口を塞ぐようにしてしゃがみ込む。
「う……うう……」
完全なる大根演技なのだけど、効果は抜群だ。後続を一気にブロックする。乱暴に蹴散らすわけにはいかない。みるみると先頭集団との差が開いていく。
「どうするんですか、尾道兄さん!」
尾道兄さんの表情を伺う。そして兄さんは満を持して動き出した。
「う……うう……」
心筋梗塞爺さんの横にうずくまる尾道兄さん。お前も心筋梗塞かい。こいつバカだろ。
こんなことをしても先頭の爺さんたちはもうサンダーVコーナーに到達している。足止め効果なんて一切ない。意味がない。効果がない。なのに尾道兄さんは迫真の演技だ。むしろ心筋梗塞が二人になったのでさらに通路を塞がれて邪魔だ。
しかし、そこで異変が起こった。
「なんだなんだ」
「おい、急病だってよ」
「大丈夫かー!?」
先頭を走っていた老人たちが何事かと引き返してきたのだ。効果てきめんじゃねえか。全員バカだろ。
結局、この事件により、僕らと老人軍団との間で紳士協定みたいなものが結ばれるようになった。心筋梗塞ブロックは虚構と現実の区別がつかなくてシャレにならないので禁じ手とし、その代わり僕と尾道兄さんは行列の最後から入店する、ということになった。
これによって老人軍団と互角な感じになり、モーニングを取れることが半々くらいになった。それでもまあ、やはり落ちている5000円であることは変わりなかったので、美味しい状態だった。
「尾道兄さん、いまどうしてるんだろうか」
こうして懐かしのサンダーVに触れていると、ふいにそんなことを思い出した。
僕より少し年上くらいだったはずだから、いまや立派なおっさんになっているはずだ。そこには僕の人生と尾道兄さんの人生があって、サンダーVを介してそれがクロスしていた。そう考えるとなんだか奇妙な気がした。ただまあ、老人軍団のほとんどはもうこの世にいないかもしれない。それこそガチの心筋梗塞かもしれない。
「デュワデュワデュワン」
目の前のサンダーVから予告音が鳴った。
この予告音もこの機種の特徴の一つだ。むしろ、予告音こそがサンダーVだという人もいる。
詳細な説明は省くけれども、これが鳴るとちょっと期待していいぞ、となるのだ。自然と期待度が高まり、胸躍る、そんなギミックだ。
「そうだ、そうだ、この予告音で尾道兄さんと喧嘩したんだった」
あの時、サンダーVの予告音はちょっと期待できる程度のギミックだったけど、現代では、忘れていた何かを思い出すギミックになっていた。なんとも面白いものだと感じつつ、またあの時のサンダーVコーナーへとトリップした。
★
あの日、心筋梗塞ブロックを破って以来、僕と尾道兄さんはけっこう仲良くなっていて、サンダーVのコーナーで情報交換をするようになっていた。
「最近、モーニングが投下された台の設定が悪い。たぶん設定1だこれ」
「そもそもサンダーV全体で設定が悪い」
「それよりも、モーニングが1台しか投下されていない日も増えた」
そんな会話をしているところで、尾道兄さんがちょっと得意気な顔で話を切り出した。
「そういえば、予告音が鳴った時にさ、右打ちして7を下段に狙うと激熱だよ」
そんなことを言っていたと思う。通常、スロットは左から順番に止めていく方法が一般的だ。ただ、予告音が鳴った時だけは右側から押し、下段に「7」が止まったら激熱。そう言うのである。
「ただ、これだけじゃなくて、下段に7が止まったら中リールも7を狙って止める。さらに下段に7がきたら90%くらいの確率でビックボーナスだよ、熱いでしょ」
絵にするとこんな感じだ。
「90%くらいってところが最高じゃない? 100%じゃない。すごくドキドキする」
尾道兄さんはそう言って笑っていた。この人、こんな表情もできるんだ。そう思った。
なるほどなあ、と思いつつも予告音が鳴った時にやってみたが、そもそもこの出目が止まらない。うまくいかないのだ。ちなみに、この方法はスイカをフォローできないのであまりにやりすぎると微妙に損をしていく。
「出ないですよ」
右リール下段はけっこう出るのだけど、中リール下段がなかなか止まらず、どうしてもこういう状態になってしまう。それでもまあまあ熱く、ボーナスの期待が持てる出目なのだけど、どうしても中リールの7が下段に止まらない。
「そんなことない、パチスロ必勝ガイドに載ってたもん」
尾道お兄さんもそう言って隣で打ち始めるが、やはり止まらない。何度もやっても止まらない。引き込みがシビアなのか、それとも僕らの力量が足りないのか本当に止まらなかった。
「嘘だったんじゃないの」
僕がそう言うと、尾道兄さんは激怒した。
「うるさい! 予告音が聴こえないだろ!」
これは確かにその通りで、サンダーVの予告音はボリュームが小さかった。おまけに当時のパチンコ屋は「〇〇番台大当たりしました」と店内放送を大ボリュームでガンガンやって客を煽っていたので、本当に耳を澄ましていないと聞こえなかった。この予告音聞こえない問題は、当時のサンダーVユーザーの多くが困っていた。
「うるさいのはそっちだろ」
「はあ?」
こんな感じで煽り合いになってしまい、売り言葉に買い言葉、最終的に「じゃ尾道で打てよ、わざわざくんなよ」「おまえこそちゃんと大学行けよ」みたいな煽り合いになってしまった。完全なる喧嘩状態だ。下段に7が止まらないことだけで喧嘩したなんて世界でも僕らだけなんじゃないか。
結局この事件以来、尾道兄さんと会話することはなくなってしまった。
こうやって思い出してみると、本当にバカらしい。なんであんなことで喧嘩してしまったのだろうか。なんだか胸が締め付けられるような気がした。
もっとやりようがあったんじゃないか。それどころか、仲直りするタイミングだってあったんじゃないだろうか。
そうだ、あの後も下段に7が止まればそれをきっかけに仲直りできるんじゃないかと狙ったけど、やっぱり止まらなかったんだ。
「それ以外には仲直りのタイミングなかったなー」
そう呟いて思い出した。僕は記憶を改竄している。正確に言うと、仲直りのタイミングはあったのだ。その記憶を封印しているだけだった。いにしえの時代からやってきたサンダーVの実機が、僕の記憶の箱を開けてしまったようだった。
★
寒い日だったように思う。
行列に並んでいて、その日も紳士協定を守って僕と尾道兄さんは列の最後尾に並んだ。ただ、喧嘩中なので会話はしなかった。この頃になると店側が渋りだしたのか、1台もモーニングが投下されない日がちらほら見られるようになっていた。
「そろそろダメかもわからんね、この店」
老人たちがそんな会話をしている中で、やはり僕と尾道兄さんは会話しなかった。けれども、いよいよ開店するという段階になって、突如として尾道兄さんが話しかけてきた。
「俺さ、実家の工場で働くんだわ。いつまでもスロットって年じゃないしな。だからもうこの店には来ない」
尾道兄さんの引退宣言だった。
そこで、過去のわだかまりを全て捨て、仲直り出来たら良かったのだけど、僕の精神はそこまで成熟していなかった。
「あっそ」
みたいなことを言い、そのままサンダーVのコーナーに雪崩れ込んだと思う。本当に、まったく成熟していない子供みたいな精神だ。思い出すだけで恥ずかしい。確か、その日は一台もモーニングが投下されていなかった。
次の日から、尾道兄さんは本当に来なくなった。
そして僕自身は、激しい後悔に襲われることになった。
どうしてあんな態度をとってしまったのだろう。どうして仲直りできなかったんだろう。予告音なんてどうでもいいじゃないか。下段に7が止まらなくてもどうでもいいじゃないか。どうして、新しい道でも頑張ってね、そう言えなかったのか。
あまりに後悔が激しいものだから、何週間かして、僕は尾道までいった。老人軍団に聞いた尾道兄さんの情報を総合し、彼の実家がやっている工場に目星をつけていた。
尾道兄さんの実家の工場はすぐに見つかった。詳しくは書かないが、その業種の工場は尾道には一つだけだった。
そこには尾道兄さんとそのお父さん、ちょっとややこしいけど尾道兄さんのお兄さんみたいな人、3人で汗だくになって働いている姿があった。小さな工場だ。大きく開いた鉄扉の向こうに一生懸命働いている尾道兄さんの姿があった。
僕は少し離れた公園からその姿を眺めるだけで、何も言えなかった。言葉を持ち合わせていなかった。急に、3連Vだとか下段7とか言っている自分が恥ずかしいものに思えた。
結局、そのまま帰ってしまった。
★
あの頃、僕らは3連Vを求めて一生懸命生きていた。けれども、それは人生において必要なことだったのだろうか。一生懸命思い返してみる。
たぶん必要ないことだったのだろう。
確かに不必要な事象だった。けれども、何事も必要・不必要で人生を図ることほど息苦しくバカらしいことはない。時にはアホみたいに生きる日々も必要なんじゃないか。それでこそ、一生懸命に生きるときに張りがでるってものだ。
3連Vを求めたあの日々、僕達はバカだった。でも尾道兄さんは足を洗い、工場で働きはじめた。尾道兄さんとお父さん、その兄、必死に働く三人が輝かしい3連Vに見えた。だから僕は声をかけられなかった。
「僕の人生に3連Vはあるのだろうか」
思い浮かばないのなら、きっとまだ一生懸命が足りないのだろう。
そんなことを思い出しながら、しんみりと、いにしえのサンダーVを打ち込んだ。古いスロット台を打つと、あの日へとタイムスリップさせてくれる。
たまにはいいものだ。忘れていた思い出が僕を少しだけ元気にしてくれた。
そうすると、あっけないほど簡単に、あれが出てきた。なんであの時出なかったんだろうと思うほど、あっけなく出た。
出ましたよ、尾道兄さん。
きっと今もどこかで頑張っていると思う尾道兄さんに、これを見せたいと思った。
サンダーVの3連V、その姿にホールの誰もが畏怖した。けれども、人生の3連Vだけは、自分の力で見つけるしかないのである。サンダーVとはそういうスロット機だ。
狭い部屋に響くチープなファンファーレがなにより心強いものに思えた。
おしっこを買いにいった秋山くんの話
一緒におしっこを買いに行かないか。
この世の中にはいろいろな人がいる。それこそ多種多様で、その様々な人が様々な経験をしているのだから誰かの興味を惹く逸話が数多く生まれているわけだ。
けれども、そんな多種多様の経験の中でも「友達に誘われておしっこを買いに行った」経験がある人はそうそういないはずだ。今回はそんなお話だ。
秋山君は気の弱そうな青年だった。同じ大学の同じ学部、けれども学科が違うので講義で一緒になることはない、そんな関係性だった。ただ、お互いに喫煙者だったので、講義室の前に置かれた灰皿の場所でよく一緒になったものだった。
秋山君はそんなものどこで売ってるんだと言いたくなるような、魔女が吸ってるみたいな、ちょっと擦れた「中身おっさんだから」と言い出しそうな20代後半のOLが吸っていそうな細長いタバコを吸っていた。だから印象的でよく覚えていたのかもしれない。
当時はそこまで分煙意識が進んでおらず、喫煙所なる存在もなかった。講義室の前に無骨な銀色の灰皿が置かれており、みんなそこでみんなタバコを吸っていた。
ただ、明らかに喫煙者が減少傾向に転じるような過渡期であったため、灰皿を囲むメンツは少なく、徐々に灰皿も統合されていった。そうして、別の学科の秋山君とよく灰皿を囲むことになった。
「どうですか? 単位のほうは?」
秋山君はいつもそういって魔女みたいなタバコに灰を落としながら話しかけてきた。どうやら彼は一浪して一留しているらしく、本来なら2つ学年が上のようだった。それがコンプレックスらしく、しきりに単位のことばかり気にしていた。
「まあまあですよ。必修さえ落とさなければいけます」
僕も毎朝、パチンコ屋に通い、サンダーVのモーニングを取り続けるという大学生にあるまじき生活を送っていたので、単位は危なかった。それでもなんとか留年しない程度の位置には付けていたので、まあそこまで心配はしていなかった。
「単位と財布は落とさないに限りますよ」
秋山君はそう言ってタバコの煙を吐き出し、少しだけ自虐的に笑っていた。秋山君的には渾身のユーモアだったようだが、僕にはちょっとその面白さは分からなかった。
ある日のことだった。
たしかその日は朝から激しい雨が降っていた。夏に降るそれとは少し様子が違っていて、少しだけ冷たい水滴が、秋の到来を予感させるものだった。
講義室の前のレンガ張りの通路には激しく雨が打ち付けており、喫煙者たちは屋根の下に置かれた灰皿の元に逃げるようにして移動し、タバコを吸っていた。そこで秋山君に会い、また単位がどうこうという話になった。
そこで彼がとんでもないことを言いだした。
「おしっこを買いに行きませんか?」
秋山君はいつもと変わらない笑顔を見せていたが、いつもと変わったとんでもないことを言いだた。
「おしっこを……買う……?」
おしっこという排泄的な行為と、買うという商業的な行為が頭の中で繋がらなかった。僕がまごまごしていると、秋山君は補足するように付け加えた。
「今日、必修の講義に遅刻してしまいましてね、晴れて単位を落とすことが決定してしまいました。まだ秋だというのに留年が決定です。だからおしっこを買いに行くんです」
皆さんはこれまでの人生の中で様々な補足説明を受けてきたことだと思う。基本的に、人と人とのコミュニケーションは断絶が前提だ。
つまり、人の意志や意図は多くの場合で人には伝わらない。だから補足説明が必要となる場面が多々ある。そういった事情もあって今これを読んでいる皆さんは多くの補足説明を受けてきた経験があると思う。けれども、この秋山君の補足説明以上に補足になっていない説明を受けた経験はそうそうないと思う。
「留年が決定したからおしっこを買いに行く?」
全く意味が分からず、まごまごとしていると、秋山君は人差し指と中指の間に挟んだ魔女みたいな細長いタバコをヒラヒラさせるとさらに補足説明を続けた。
「前々から決めていたんです。留年が決定したらおしっこを買いに行こうって。ほら、手帳にも書いてある」
どうしよう。説明されればされるほど意味が分からなくなる。いまいったい何に巻き込まれつつあるんだ。
誇らしげに提示された手帳の「備考」の欄にはしっかりと「おしっこ購入」と紫色のペンで書かれていた。意味が分からなすぎてなんだか恐ろしくなってきた。
「ちょっとこれを見てください」
今度は当時流行していた銀色の折り畳み式の携帯電話の画面を見せつけてきた。詳しくは覚えてなかったけどこんなことが書いてあったと思う。
それは隆盛を誇っていた出会い系サイト、スタービーチの画面があって、そこでおしっこを売ってくれる女の子を募集したとのことだった。
「おしっこを売ってくれる人いませんか? なるべくたくさん売ってくれる人を優先します。3.8リットルで5千円から!」
3.8リットルで5千円という値段が妥当なのか、ダンピングしすぎなのか、それとも相場を壊すほど高値なのか全く分からないのはさておき、基準の単位が3.8リットル、ガロンで買おうとしてることに恐怖を覚えた。冷静に考えると1ガロンのおしっこをもってくる女って恐怖でしかない。
「定期的に投稿しているんだけど全然売ってくれる人いなくてさ」
秋山君はそういって寂しげな表情を見せた。そりゃそうだ。1ガロンのおしっこを持ってこれる女性はそうそういない。よくよく考えたら当たり前のことだ。いるはずがない。
「ただ、今日になってメッセージが届いたんだよ。この「ミホ」って子なんだけど、今朝出したので良ければって来たんだよ!」
いたのかよ。しかも今朝したのって、ミホは早朝から1ガロンのおしっこをするのかよ。
「留年が決まった日におしっこを売ってくれる女性が現れる。これは運命だと思うんです。だからきょう買うしかない。一緒にいきましょう」
最初から最後まで一貫して意味が分からなすぎて爽快さすら感じるようになってきた。それでもこれから講義もあるし、持ちきれなくなった1ガロンのおしっこを持たされたりしたら嫌だなあ、と思った。
「いや、僕はまだ留年が決定してないので、別におしっこ買いに行かなくても……」
そんなことを言って断ったと思う。僕自身も自分で言いながらすごく意味不明な断り方をしていると思った。断じて留年とおしっこ購入はリンクしていないのに受け入れつつある自分がいた。
けれども秋山君は引き下がらなかった。
「こういう取り引きは危険が伴うんです。美人局みたいなこともあるかもしれないし、お金だけ取られるかもしれない。だから決して一人で行ってはいけないんです。これは鉄則ですよ」
まるで麻薬の取引みたいなトーンで話されるし、おしっこ購入界の暗黙のルールみたいな話をあたりまえにされても困る。
「じゃあ行くよ」
気が進まない感じもあったが、それ以上に1ガロンのおしっこを売りに来る女にも興味があった。何を食って育ったら1ガロン(約3.8リットル(米国基準))のおしっこを持ってきて、それを金に換えようという思考が生まれるのだろうか。もちろん、買う方、つまり秋山の心理にも興味がある。なぜ彼はそんなにもおしっこを買おうとするのか、それを見届けなくてはならないと思った。
取り引き現場は、郊外にある国道沿いのホームセンター、そこの駐車場だった。なんでホームセンターなのかは分からない。向こうが指定してきたそうだ。いつのまにかすっかり雨は上がっていて、駐車場には無数の水たまりができていた。
「なんでホームセンターなんだろう?」
僕がそうたずねると秋山君は、
「わかんないけど、3.8リットルのおしっこが入る容器とかを購入するんじゃないか」
みたいなことを言っていた。ここで気が付いた。こいつの言葉の中で僕に理解できることが何一つないということに。朝採れのおしっこを持ってくると言っていたので、ここで容器を買う必要はない。あるとするならばここで買ってその容器に直におしっこをすることだが、それはそれで怪物だ。3.8リットルも出るわけがない。
駐車場でポカンと待っていると、明らかに攻撃力の高そうなワゴンRが浜崎あゆみの音楽をガンガンに鳴らしながら入ってきた。なんでだろうか、もしかしたら普通に木材とかを買いに来た客かもしれないのに直感的に分かった。あいつが1ガロンのおしっこを売りに来た女だと。直感的にそう感じた。
ワゴンRから降りてきた女は、もしかしたら3.8リットル、つまり1ガロンのおしっこなら出すかもしれない、と信じてしまいそうなパワフルな感じの女性だった。ファイナルファイトで電車の中で襲ってくる紫の敵に似ていた。
「はい、これ。5千円だったよね」
車の後部座席から、2リットルの爽健美茶のペットボトルが3本登場してきた。3本ともに茶色い液体がパンパンに詰まっている。3.8リットルの取引なのに2リットルがパンパン、それが3本である。6リットルだ。こいつは6リットルのおしっこを持ってきやがった。なんでこいつ6リットルも持ってきたんだ。もはや自分がいまどういう世界線にいるのかわからなくなっていた。
「これ本当におしっこなの?」
秋山は食い下がった。そう、確かにおしっこにしては茶色すぎる。これお茶じゃないか。というか、そのまま爽健美茶が詰まっているんじゃないか。それが3本で5千円で売れるならばめちゃくちゃ効率の良い商売だ。6リットルおしっこを出すことを考えれば誰だってそうする。
「ちゃんとおしっこだよ」
女も負けじと食い下がった。ちゃんとおしっこ、って言葉、この先の人生で聞くことはないんだろうなって漠然と思った。
その光景を眺めながら、いや、普通に考えて世間一般ではおしっこより爽健美茶の方が価値があるだろ。どう考えても客先で爽健美茶が出てきたら喜ぶけど、おしっこ出てきたら怒るだろう。どうしてここではその価値が逆転してるんだ、と不安になった。いま僕はどんな世界線にいるんだ。
「本当におしっこなのか確認して欲しい」
秋山君はものすごく嫌なことを言った。世の中にはパワハラやモラハラが蔓延し、セクハラだってあちこちで起こっている。その一環で嫌なことを言ってくる人ってたくさんいるんだけど、僕はこの時の秋山ほど嫌なことをいった人物を知らない。僕のこれまでの人生においてこの言葉が最も嫌な言葉だった。たぶんこの記録はそうそう破られることはないと思う。
「え? どうやって?」
動揺しながら答えると、秋山は即座に言い放った。
「臭いとか、味とか」
そうそうに「人生において最も嫌な言葉」の記録が破られることになってしまった。嫌すぎる。本当に嫌すぎる。いとも簡単に記録越えしてくるんじゃない。
「おしっこだってぇ」
女はファイナルファイトの敵みたいな顔しやがって、甘えた声を出しやがる。黙ってろ。これがおしっこだったらお前絶対に体のどこかがおかしいぞ。まっ茶色じゃねえか。
それでも秋山の勢いはすさまじいものがあるので、臭いを嗅いでみるのはいやだし、ましてや味わうなんてとんでもないと思いつつ、引っ込みがつかなくなって爽健美茶のペットボトルを手に取ったところ、全く封が開いていなかった。手応えが完全なる未開封だった。
匂ったり味わったりしなくていい。未開封なら絶対に偽物だもん。僕のテンションも上がった。何が本物で何が偽物なのかもはや分からない状態だけれども。
それを聞いた秋山君は怒った。魔女みたいなタバコに火をつけ、凄みを効かせてファイナルファイトに詰め寄った。
「おしっこだと思わせておいて爽健美茶とはねえ」
自信満々に言ってるけど普通は逆だ。爽健美茶と見せかけてフェイクでおしっこならわかる。分からんけど分かる。
ファイナルファイトは開き直った。
「バーカ、3.6リットルもおしっこでるわけないだろ」
ここまでの一連の流れで初めて「ごもっとも」と言いたくなるセリフが飛びだした。
追い詰められたファイナルファイトはワゴンRに乗り込み悪態をつきながら浜崎あゆみを轟かせて去っていった。リアガラスには浜崎あゆみのマークがさっそうと光り輝いていたのが印象的だった。
「くそ、偽物だったか」
秋山君は悔しさをにじませた。
すっかりと日が傾いていて、薄い雲を通り過ぎてオレンジ色の光が駐車場を照らし、水たまりに反射したその夕暮れが駐車場を照らし始めたライトの色と混じって少しだけ黄色がかっていた。それはまるでおしっこの色のようだった。
「おしっこってほっといても自然と出るもんじゃん。だからゲン担ぎで、単位も自然と出るようになると思ったんだけどなあ」
秋山君は終始一貫して理解できない言葉を発していた。
「まあ来年も頑張るわ。なんとかおしっこを入手して単位も取らないとな」
本当に一貫して理解できない言葉を発していた。おしっこ手に入れるよりちゃんと出席して課題を出してテスト勉強してください。
それから秋山君に会うことはなかった。次の年も、その次の年も、大学で見かけることはなくそれからしばらくして学内からは灰皿が撤去された。
秋山君どうしてるかなあ。今でも雨上がりの夕暮れを見ると思い出す。道路にできた水たまりが少し黄色がかりおしっこみたいになっているのを見て、せめて幸せであって欲しいと願ってやまない。
ひとりNIKKI SONIC 2020 No.01 Numeri pato
patoが2020年に書いた記事まとめ
2020年、とても大変な年でしたがみなさんお疲れさまでした。毎年恒例の書いた記事振り返りです。今年はコロナ禍の影響もあり、僕自身も大きく体調を崩したという事情もあり、あまり記事を書かないようにしたのですが、求められるままに書いていたら結構な量を書いていました。
早速、1月から振り返ってみましょう。
年が明けてすぐにこの記事が発表された。記事自体はずいぶんと前に書き上げていて入稿も済ましていたが、いろいろとメディアの都合で伸び伸びになってしまい、年明け一発目の公開となった。多くの人に読んでいただけたようだった。
このあとに大きく体調を崩すこととなった。
多くく体調を崩し、起き上がることもできない状態でこれが公表された。以前に書いた記事の続編というか、続編でもないのだけど同じ手法で書いた記事だ。
以前書いたものがこちら。醤油を100本レビューしながら全く別のストーリーが展開していく両記事は、おかげさまでたくさんの人に読んでもらえた。ぼく個人としては、まったく起き上がることができないのだけど、それでも約束だから記事の告知と拡散をしなくてはならないと、這うようにしてツイートしたのを今でも覚えている。
本人が体調を崩して全く動けない状態であっても、まるで自動化されたかのように次々と記事が公開されていく。鹿児島から青森まで高速道路SAでラーメンを食べるという、狂気の沙汰みたいな連載もこのときに完結した。記事自体はずいぶん前にすべて書き上げていたので、本当に本人とは別世界で記事が公開されているような感覚だ。
これは今でも反省しているのだけど、毎週、火曜日に更新されていた日刊SPA!の連載、「おっさんは二度死ぬ」の連載も、止まってしまった。さすがに体調不良のなかで週刊連載は厳しい。体調が悪いなら仕方がないと受け入れていただけた担当さんと副編集長さん、イラスト担当のマミヤさんには今でも感謝しかない。
体調不良から回復すると、今度はコロナ禍が本格的になり、国内のあらゆるものが停止した。いまでも印象に残っているのは、突如として3月最後の土日が外出自粛期間となり、みなが家ごもりを始めたことだ。
みんな家にいて暇だろうと、noteにて、1時間に1本、24時間連続更新する、というよくわからない企画を実行した。現在はnote/cakesの不祥事を受けてすべての記事を削除してしまったのでそのログは残っていないが、いくつか評判が良かった記事はここはてなブログに移管済みだ。
最後の記事はヨッピー氏が代打日記(!)としてくれたものだ。このほかにも、noteにあった文章はいくらでもここに復活させることができるので、要望があれば教えてほしい。
さて、noteの24時間更新を経ていよいよ絶好調になってきた。ただし、世間では緊急事態宣言が発出され、事態終息の気配すらなくなっていった。僕がいつも寄稿している「おでかけメディアSPOT」もお出かけか難しい状態になり、「引きこもりメディアSPOT」になってしまった。
そこで、おもいっきり引きこもりに特化したコタツ記事を書いた。
1741市町村の「日本一」をコタツに入りながら調べるというこの記事。単純な検索だけでなく、その地方の広報誌なども読み込んで調べているので、莫大な時間がかかってしまった。いまだに日本一が見つかっていない市町村があるので、ご存じの方はぜひとも教えてください。
調子が戻ってきたので、いくつかコラム的な記事を書かせていただいた。それでも世間はゆっくりと閉じていくかのようだった。
そこで、なにかパーッと取材記事でも書きたいと思い、けれども移動自粛があるので取材に行くわけにはいかない、どうしたものかと悩んでいると、ある重要な事実に気が付いた。
この記事は、新型コロナが騒がれたちょっと初期のころ、僕が体調を崩す前に取材を行ったものだった。体調を崩して記事がけなくて、時期を外してしまったという事情もあったので、そのまま書かずにボツにしようと考えていたネタだった。これが残っているので、記事にした。
ちなみに、取材で撮影した写真データが入ったSDカードのデータを手違いでぶっ壊してしまい、サルベージするソフトを8000円で購入して復活させた。
ダイエット記事も書いた。おっさんが31日間ダイエットする記事で、「食生活が心配」との多数の声をいただいた。
家から出なくても韓国のチェジュ島を巡れるような、みんなが必死になってストリートビューを見るような記事はできないか、と依頼を受けて書いた記事。本当に謎を解かないと先に進めない。普段の記事の8倍くらい手間がかかってしまった。
さくマガ開設1周年記念の記事。1年前のこけら落とし記事が、ビジネス系メディアサイトとしてはあるまじきラーメン記事で、けっこう偉い人に怒られたくせに、1周年記念もラーメン記事を依頼されてしまった。
なんにせよ、久々の取材となった。
なかなか好きなコラム記事。思えば僕はもう15年くらいずっと栗拾いツアーに誘われなかった怨念を文章にしているので、そのうちその怨念が渦巻いて実態化して、京の都を脅かす厄災になる。
年末になって2つの大反響記事が立て続けにでたので、みなさんもぜひとも年末年始の時間があるときにお読みください。
ということで、こちらも恒例の2020年に僕が書いた文章で好きな文章です。
みんな、何かを好きになり、何かに夢中になり、なにかに摩耗し、何かに失望し、何かに傷つけられてきた。
のめりこむことに対して待ち受ける結末は幸福でないことがままある。
僕らが住むこの世界は、あまりに言葉が多くなりすぎたのかもしれない。
(母を亡くした時、僕は布団を丸洗いしにコインランドリーに行った。Dybe!)
「出会って4秒で合体」が4秒ではなかったということだ。それはつまりこの世から信じられるものがまた一つなくなってしまうということだ。
(「出会って4秒で合体」は本当に4秒で合体しているのか。多目的トイレ)
ということで、みなさんの2021年が良い年でありますように!
チンポの中の小銭
NikkiSonic2020という名のpatoさんのひとり相撲をご覧の皆さまこんにちは。フリーライターのヨッピーと申します。今回は主催のpatoさんに代わり、代打日記を務めさせて頂きます。
僕が代打日記を書くにあたって、まずこの「代打日記」というシステムについて触れておかなければいけません。
太古の昔、まだブラキオサウルスが陸上を闊歩していた頃、インターネット上では「テキストサイト」と呼ばれる文章がメインのコンテンツ、今でいう所のブログのようなサイトが隆盛で、一切日光を浴びていないであろう、青白い顔をしたオタク達が「デュフフ」とか「コポォ」などと言いながら夜な夜なキーボードを乱打しながらそのサイトを更新していたのであります。
ただし、そういったオタク達がこぞって書いていたのは今のブログ記事のように「インフルエンサーになろう!」とか「月収〇〇万円を簡単に達成する方法!」みたいな、いわゆるお役立ち記事みたいなものでは一切なく、あくまで「日記」であって、「サザエさんのタイ子おばさんはマジで抜ける」とか「おっさんがスクール水着を着てみた」などなど、IQが限りなくゼロに近い、知性のカケラも無い駄文ばかりがインターネットの海に流されておりました。恥ずかしならが僕自身も「空想上でバイト先の店長を惨殺する日記」みたいなものを書いていた事を記憶しています。
中には今でいうTwitterの裏垢のように、ミニスカサンタのコスチューム(ただし顔にはモザイク入り)の写真をアップしながら、夜な夜な「今日は〇〇の××でおセックスしました♪」みたいな日記を書く女性管理人の方もいらっしゃり、そういう方の掲示板には「△△さんは今日も素敵ですね^-^オフ会しないんですか?(笑)」みたいなコメントを毎日欠かさず書くまくるオフパコ狙いのオタクどもが大量に発生したりもしておりました。
僕も「こんなやり口なら簡単にアクセス稼げそうでいいな」と思い一念発起、知人の女性に頼み込んで撮って貰った胸の谷間のアップ写真を管理人のアイコンにしたサイトを3時間で完成させ、その後スケベ日記をつづり始めた所一瞬でアクセスカウンターが爆発し、毎日毎日、大量のヤバい感じのメールがメールボックスに殺到したのでドン引きしたことを覚えています。
そんなテキストサイト界隈で一時期流行ったのがこの「代打日記」というシステムでして、今で言えば「オモコロ」のライターがデイリーポータルZで記事を更新し、デイリーポータルZのライターが「オモコロ」で記事を書くようなものです。
その頃はけっこう頻繁にその「代打日記」が行われていた記憶があるのですが、あまりやすぎると、
・その人の文章を読みに来たのに、赤の他人の文章が表示される
・仲良しアピールっぽくてちょっと気持ち悪い
みたいな理由から「慣れ合うな」「クズ」「お前の日記なんて読みたくない」などとボロカスに叩かれる可能性もあります。
ただし、代打して貰う側、代打する側双方にとって「新規の顧客を掴めるチャンス」でもあるわけですから、「代打日記を書く」となると結構気合を入れて自分をアピールする必要があったことも事実です。
つまり、今日この代打日記のタイミングで、僕は僕自身のアピールをする必要があるわけで、「果たして何をアピールするべきか?」「僕が他人に誇れるものってなんだ?」と6時間ほど悩んだのですが、僕にはひとつ、他人に誇れる特技があることを思い出しました。
それが……、
チンポの皮が異常に伸びる事です。
これは、本当に、マジで「世界一なのでは?」と思うくらいには伸びます。
「それって、お前が勝手に言ってるだけでしょ?」みたいな意見ももちろんあると思うので、ひとつ、思い出話をさせてください。
あれは僕が会社員を辞めてすぐの頃です。
「ヨッピーが会社を辞めたから祝ってやろう」そんな理由で開かれた、引っ越し先の僕の新居に集って開催された飲み会だったように記憶しておりますが、開始から3時間も経つといつもの通り僕が泥酔しはじめる一方、友達同士がくだらない事で論争になり、ちょっと険悪なムードになりつつありました。
「まどマギは典型的なループ物でシュタインズ・ゲートの影響が~」
「それを言うならYu-noに触れないのはおかしい」
など、早口でまくしたてる友達に囲まれた僕は、すぐに「ここでチンポ出したらウケるかな」みたいな思考をするようになりました。
僕は基本的に「チンポを出すとなんとなく場が丸くおさまる」という、人生における哲学を持っているからです。
しかし、「まあまあ、これでも見て落ち着きなよ」とチンポをボロロンと出したところで、ハッキリ言って僕の友人は僕のチンポなど見飽きているので場がおさまるとは思えません。
僕は小手先のテクニックに頼りすぎていて、「険悪なムードでチンポを出す」というハック術がコモディティ化してしまったのであります。
そう考えた僕は、こうつぶやいたのです。
「俺さ、たぶんチンポの皮が世界一伸びるんだよね」
「またなんかわけのわからないことを」そんな顔をしながら友人が僕の方をチラッと見たのですが、
やはり「結局すべての作品は何かの模倣で~」などと再び論争がはじまったので、僕はおもむろに自分の財布に入っていた小銭を全て机の上にブチまけ、
「これが全部、チンポの皮に入る」と宣言しました。
「え?本当に?」と、ここで論争が止まりました。
小銭の数を数えてみた所、
500円玉が1枚、
100円玉が12枚、
50円玉が2枚、
10円玉が8枚、
あとは5円玉と1円玉が1枚ずつ、合計1886円の小銭の山です。
「これはきつくない?」まあまあの小銭の山を見て友達が言います。
「いや、無理でしょ」もうひとりの友達も論争をやめて僕の方に向き直ります。
「じゃあ、見ててよ」
変な病気になっても怖いので、一度洗面所で洗って綺麗になった小銭を、
広げたチンポの皮に収納していきます。
「すげえ!どんどん伸びる……!」
「うおおおお……!全部入った!」
「むしろまだ余裕あるんじゃね?」
「おい!お前も小銭出せ!」
「バカ野郎!ちゃんと洗ってこいよ!」
そうやって友達から集めた小銭をどんどんチンポに収納していき、
最終的には100円玉を10枚追加、2886円もの小銭をチンポの皮に収納することに成功したのです。
「すげえ!これもう財布じゃん!」
小銭でパンパンになったチンポを見ながら友達が歓声をあげます。
「小銭だけじゃないぜ」
そう宣言した僕が、今度は近くにあった100円ライターを綺麗に収納して見せつけたのがハイライトでした。
「うおおお……!これはマジで世界一かも……!これ、入るか……?」
「いてててて!!ライターなんて絶対入んねえよ……!」
この話を聞いて、「さすがにそれは盛ってるのでは?」「作り話じゃね?」と思う人もたくさんいると思います。それももっともな話ですが、僕がここでアピールしておきたいのは、
・ヨッピーがチンポの皮に100円ライターを入れたのはこの時だけではない
という事です。
この特技がまあまあウケ、味をしめた僕は幾度となく、
飲み会でこの「チンポの皮に100円ライターを収納する」という特技を見せつけているので、恐らくはこの「ヨッピーのチンポの皮には100円ライターが入る」という事実の証人になってくれる人は、何十人といるはず……!
更に言えば、小銭を入れる遊びもたくさんやりました。いまだかつて僕より多くの小銭を収納する事に成功した人に会ったことはありません。やはり、世界一ではないか?と思うのであります。
※ちなみに、その場にいる人達から集めた小銭をチンポの皮に入れるので、
「じゃあ、返すわ」といってお金を返すとだいたいみんな嫌そうにします。
・・・
最近の騒動の影響で、全国のライブハウスが倒産の危機を迎えていて、僕が散々お世話になった新宿のロフトプラスワンも大打撃を受け、現在ですでに7000万もの損失をかぶっているそうです。
そこで、騒動が落ち着いたアカツキには、そのロフトプラスワンで、「真夜中の下ネタ祭り」と称したイベントを開催、その中のコーナーで「ヨッピーがチンポに100円玉を入れてギネス記録を狙う会」というのを行いたいと思っております。
僕のチンポの皮に、限界まで、パンパンに収納した100円玉を、運動会の玉入れみたいな感じで「ひとーつ!」「ふたーつ!」と会場が一体となって数える、そんな大団円のコンテンツを行うつもりですので、その際は皆さんのご参加をお待ちしております。
リスペクトがないなら書くべきではない
文章を書く上で一番大切な気持ちはリスペクトだと即答できる。
多くの文章は何かの対象に向かって書く。そこで、誰かを笑わせたい、楽しませたいという動機で書くのならば、やはりリスペクトは必要だ。これは「面白い、楽しい」と「リスペクト」の親和性が高いことに起因する。
つまり、SNSの運用の項目において「誰が書いてるのか」が重要な時代になっていると述べたが、リスペクトのない傍若無人な人間が書いた文章を楽しめるのか、という問題になるのだ。そういった技法もあるにはあるが、かなり高度だし、諸刃の剣であることは理解しておいた方がいい。
例えば、これは醤油100本をレビューするという、ちょっと正気とは思えない記事だが、なぜ「タコの刺身にあう」という観点で述べているのかわかるだろうか。多分わからないと思う。
この記事は、延々と醤油を味わいながら別の軸を持った物語が展開していく。ある意味、純粋な醤油レビューではなく、お遊びの要素が徐々に記事を侵食していく。そこで、醤油を完全に脇に追いやってしまうことを僕は良しとしない。
醤油1本を考えると、多くの人が一生懸命に汗を流して作り上げているはずだ。そういった物作りの気持ちをないがしろにしてはいけない。なので、この記事ではどんなにお遊び要素が侵食してこようとも、ほとんどの人が読み飛ばしそうと予想できても、しっかりと手を抜くことなく最後まで醤油をレビューしている。
さらに僕は絶対に「まずい」と書きたくなかった。勘違いしてはいけないのは、別に「まずい」と書いてもいいのだ。ただ、それは真剣に向き合って感じた時に書くべきだ。少しでもお遊び要素がある記事で書くべきではない。お遊びのついでに「まずい」と言われた醤油、それに携わる人の気持ちはどうなるだろうか。
醤油を作る人、それに携わる人をリスペクトすればするほど、僕の姿勢で「まずい」とは書けない。少なくともこれが分からない人間は文章を書くべきではない。
では、「まずい」と書かないためにどうするか。何でもかんでも美味いとかく記事にそこまで価値はないのだ。そこで登場するのが「タコの刺身にあう」という観点である。これなら「タコの刺身には合わない」という判定がもたらされる。醤油自体は美味いけどタコの刺身には合わない、となる。
僕の知る面白い文章を書く人はみんな対象にリスペクトがある。だからこそ愛のある面白いものが作れるのだろうと思う。