なぜ彼は先にいったのか

曲がりなりにも何らかの文章を書いている人間は常にアンテナを張り巡らせておくべきだ。それはプロのライターだとか、小説家だとか、エッセイストだとか、そういった文章を生業にしている人に限らず、趣味のレベルで発表している人もそうあるべきだ。

世の中には美しい言葉と優しいフレーズが溢れている。そして魅惑的な言葉たちがラインダンスを踊っている。それらはきっと誰かが誰かに伝わるように滲み出した魂のフレーズだ。それを受け止めてあげないということは、おっぱい丸出しで歩いている美女を無視するようなものだ。きちんとおっぱいを見てあげなければ失礼にあたる。

僕は、言葉を発した本人にそこまで深い意味がなかったような言葉でも、なんだかそこに哲学めいたものを感じて妙に考え込んでしまうことがある。それは素人であり趣味レベルであり下手くそとはいえブログなりで曲がりなりにも文章を発信している人間としての最低の責務のように思う。ただ、時にはその癖がとんでもない事態を引き起こすこともある。

あれはもう、10年くらい前になるだろうが、大阪で友人たちと遊んでいたときのことだった。久々の大阪、久々の友人、なんだか妙に舞い上がっていたのを今でも思い出す。

男が3人集まって風俗の話をしないわけがない。酒を飲んだ勢いで風俗に行こう、みたいに盛り上がったと思う。すぐに居酒屋を飛び出し、なんばの風俗店が密集する地域へと向かった。

酒の勢いでそういった密集地帯へと繰り出したが、当然ながらドーンと店に入る勇気はない。そういった地帯の通りを何度も行ったり来たりして、まるで怯える小動物のように小さくなって移動していた。

そうしたら、まあ、怪しげな、どう好意的に見てもゴミとか分別しなさそうなオッサンが近づいてきて、こう言った。

「お店お探し?飲み?抜き?こっちもあるよ?」

これって完全にコミュニケーションとして破綻してますよね。いきなり近づいてきてこれはない。挨拶すらない。まあ、怪しげな店を紹介してやるからついてこいやって言うわけですね。ここまで読んで、熟達した風俗マニアの方なんかは、ああ、これはボッタクリ風俗に連れていかれるな、って予想すると思いますけど、まあ、その通り、ボッタクリ風俗につれていかれます。けれども、今はそういう話をしてるんじゃない。ボッタクリかどうかなんてさしたる問題ではない。

確か、1万円ぽっきりっていうオッサンの話を信じて、僕らは怪しげな雑居ビルに連れていかれるわけです。入り口には小さなテーブルがあって、そこに座っている、ヒゲの男、それこそ、「ゲーム配信者?」とか質問してきそうなターバンの男風のやつに1万円払って中に入ると、カーテンで仕切られた小さな小部屋が沢山あるところに連れていかれます。

ここで友人たちとは別れて別々の個室に連れていかれるわけですが、カーテンを開けて個室に入ると、羊の死骸を置くみたいな小さなベッドがあってですね、そこで

「かわいい女の子きますんで、ぐふふ」

とか言う、これまた絶対に燃えるゴミの日に乾電池とか捨てそうな店員の言葉を信じて待つわけですよ。妄想とか、それ以外のところとか膨らませながら待っていると、シャッとカーテンが開いたんです。

「こんばんわ」

魔女?みたいなとんでもないクソババアがカーテンの隙間から顔出しているんですよ。ぜったいねるねるねるねのCM出てる、こいつみたいな老婆がこっちをのぞいとるんですわ。

「あんた、わたしみたいなおばちゃんはいややろ?若い子よんだるから追加で1000円払ってや」

みたいな話が分かること言うわけですよ。ごもっともだって思いながら1000円払うとそのままシュッとババアは消えるんですけど、仕切りがカーテンだけですからね、隣の個室でも同じやり取りしてる声が聞こえてくるんです。どうやらこのババア、私じゃ嫌だろってあちこち回って1000円を回収するのを生業にしてるみたいなんです。

まあ間違いなくボッタクリ風俗なんですけど、今はそういう話をしてるんじゃない。ボッタクリかどうかは全然関係ない。

しばらくというか、結構な時間待つと、まあ、さっきのババアよりは若いけど絶妙なブス、みたいなのが大登場してくるんです。どれくらい絶妙かっていうと、昔、友人の山本君が未成年なのにパチンコ屋でむちゃくちゃ出してたら、店の守り神みたいなヤクザがやってきて「兄ちゃん、未成年やろ、出しすぎやわ、あまりオイタが過ぎると、コンクリくくりつけて港に浮かぶことになるで」って脅されたんですね、普通ならブルっちゃうんですけど山本君はバカだったので、「コンクリくくりつけられたら浮かびませんね、重さで沈みます。だから港に浮かぶことになるという表現は不適切」みたいに絶妙に返して、店の外で殴られてました。それくらいの絶妙さのブスが来た。まあよくわかりませんよね。

とにかく、絶妙なブスが来て、まあ妥協するぜって思った矢先に、そのブスが言うわけですよ。

「あ、ちょっと忘れ物」

そういうや否やシュッとカーテンの向こうに消えるんです。で、全然帰ってこない。なんだこりゃって思って完全にタケノコ剥ぎ型のボッタクリ風俗なんですけど、まあ、別にその部分はどうでもいい。問題はこの後だ。

シャッとカーテンが開いて、やっと戻ってきたかと顔を見ると、さっきのねるねるねるのババアが顔を覗かしているんですよ。

「わたしじゃいややろ?1000円頂戴」

またお前か、と思いつつ1000円渡すとシャッと消えるんですね。

そんなこんなで、まったく性的サービスが受けられないままに時間だけが過ぎていき、何回か1000円も取られたりなんかしたんですけど、しばらくするとまたねるねるねるねのババアがやってきてこう言うんです。

「もう時間だけど延長するか?それなら延長料金必要だけど、絶対に延長したほうがいいと思う。いますごいかわいい子があいたからその子をつける」

みたいなことを言ってくるわけ。まだ金をむしり取ろうとするかと怒りすら覚えるんですけど

「そんな金はないから。それに友達もいるから延長はしない」

旨を伝えると、ババアが言うわけですよ。

「友達は延長した」

絶対にそんなわけないんですけど、友達も延長したんだからお前も早く店を出ても意味ないぞ、みたいな嘘を言ってくるんです。完全にボッタクリなんですけど、ボッタクリかどうかは大した問題じゃない。問題はこの後のババアのセリフだ。

「友達が延長するはずはない。そういう約束をしていたから」

僕が反論すると、ババアが言うわけですよ。

「もっとサービスがいい別の系列店にいかないか。私の顔で半額にする」

このババア、全然話が通じないどころかさらに別のボッタクリに連れていく気だ。底が見えねえ、いったいどこまでぼったくる気だ、と戦々恐々としつつ

「延長もしないし別の店にもいかない」

そうキッパリと断ると、ババアが言うんです。

「友達はもう先にいった」

ババア的には友達も行ったんだからお前も行こうぜって嘘ついてるわけなんですけど、なんか、僕はその表現に妙な哲学を感じてしまったのです。

友達はもう先に行った、かその表現はなんかいいな。妙に余韻がある表現だ。そもそも友達が先に行くという状況は感情めいた何かを感じさせる。つまり、裏になにか事情があったと読み手側に推測させることができるのだ。僕にもその友人にも、何らかの決意があった、そう読み取れるのではないだろうか。この表現はいい。

「いいよ、その表現」

僕にそう言われたババアは19歳ガンいいこ桜井君みたいな顔をしてキョトンとしていた。

「友達はもう先に行った、余韻がある。なぜ先に行ったのか、それは友を思いやったのか、でもそれはあえて語らないほうがいいと思う。なぜなら、読み手が想像する余地を残すべきであって、全てを説明する必要はないからだ。もちろん、わかりやすさとは大切だ。独りよがりな表現は良くないけれども、すべてが説明されることはあまり得策ではない。今のテレビを見てみろ、説明だらけ、テロップだらけ、あれは実に品がない。全て解説されるとその通りの味方しかできない。何通りも解釈があって、それぞれ受け止め方で本質が変わるような表現を目指すべきだ。今のあなたの言葉にはその表現があった。友達は僕のために先に行ったのか、それとも自分のためなのか、またはほかの誰かのためなのか、そしてどこにいったのか、そういう想像する楽しさがある。ここではないどこかへ行った彼をここまで思う行為、これはもう哲学だ」

すごい面倒な奴だと思われたのか、そのままボッタクリ風俗からは解放された。

案の定、友人たちは延長も、別の店にも行ってなくて、店の外で小動物のように震えていた。たぶん同じ目にあったのだろう。とんでもないババアに何度か1000円を払ったに違いない。

「いやーあのババアすごかったな」

「すごかった」

「ありゃ1000円払ってでもお断りするわ」

そう会話していると、ずっと黙っていた友人が

「俺はあのババアに抜いてもらった」

と驚愕の言葉を放った。

「友達はもう先にいった」

確かに先にいっていた。やはり読み手に様々な想像をさせて、余韻を残すこの言葉は上質の表現なのだ。

空が明るくても月はそこにある

窓の外を見るとまだ空は明るいのに薄っすらと月が輝いていた。本来は夜にこそ発揮されるべき薄く白いその輝きは、まるで何らかの理由や訴えがあるかのように思えた。

昼間の月はその存在自体が悲しい。僕らは自然と月は夜に輝くものであると考えていて、本来はそこにいてはいけないくらいに思っている。昼間に月が見えようものなら、やや場違いくらいに思うはずだ。

ただ、月は普通にそこにいる。昼間だろうがなんだろうがそこにいることは多い。ただ自分で光ることが来出ず、ただ太陽の光を反射することしかできない月は、昼間の空にいても気づかれないことが多いだけなのだ。

こうして太陽との角度の妙と空の明るさによって、そこにいるのに気付いてもらえない昼間の月が見られるこの瞬間はなんだか悲しい。別に月は禁を破っているわけではないのに、そう捉えられてしまうからだ。本当に、昼間の月は淡く、薄く、悲しいものなのだ。

こうして空に月が見えるということは、少しだけ空が暗くなってきたことだろう。つまり、日も傾き、もうすぐ日没を迎えるということだ。そんな深い時間なのに、僕らはまだ教室に残されていた。

帰ることができなかった最大の要因は、「帰りの会」だった。これは毎日その日の授業を終えた後に催される会で、日直が司会となって開催される。あくまでも児童たちが自主的に開催している会という体裁をとっており、担任教諭はオブザーバー的に様子を見守っているというスタイルだった。

通常、この帰りの会は何も問題がなく滞りがなければすぐに終わる。朝の会で立てた「活発に発言する」などの目標が達成できたのかの確認や、注意事項の伝達、各種当番の確認など、長くても10分もあれば終わってしまう内容だった。

しかしながら、これはあくまでも平和な日の帰りの会メニューであり、実際は、滞りなく進行する日は稀だった。言い換えると、この会は常に紛糾していた。10分で終わる、なんて言われたら鼻で笑われるくらい長く重いものになっていた。

その原因の一つが、全ての帰りの会メニュー終了後に司会である日直が、 「他に連絡のある人はいませんか?」 と皆に尋ねるコーナーの存在だった。ラジオでいうところのリスナー投稿コーナーに近い。

大抵、でしゃばりな婦女子などが、どうでもいいような連絡事項を伝えるために手を挙げたりして面倒くさいことこの上ない展開になる。生き物係の女の子が、ありがとうって伝えるならまだしも、「みんなで飼っていた亀の太郎が死にました。みんなで黙祷しましょう」 などと、とんでもないことを言い出す。早く帰って遊びたい僕らはたまったもんじゃなく、ソワソワしながら黙祷したりなんかした。一度くらいなら太郎のために黙祷だってするが、それが何週間も続くので完全に狂気じみていた。こういった良くわからない要素が徐々に帰りの会を長いものにしていった。

しかしながら、もっと僕らの帰りを遅くし、なおかつ完全に意味不明な魔のメニューが帰りの会には存在していた。 それが「今日の困ったこと」というコーナーだった。これは考えたやつを中世に送り込んで磔にしてやりたいくらいどうしようもないコーナーだった。

なんでも、その日困った体験をした人が、皆の前でその体験を赤裸々に告白し、その困った体験がクラスの誰かが原因で引き起こされているならば、皆でその原因である人を告発し、正す。というなんとも有難いやら迷惑やら分からないコーナーだった。誰かが困ったら、皆で議論し誰もが困らないようなクラスを作ろう。そういう趣旨があったようで、確か女子の中心的な人物の発案で始まった新コーナーだった。磔にするべきである。

「今日、昼休憩の時に、赤井君と坂本君が廊下を走っていて私にぶつかりそうになりました、とっても困りました」

でしゃばり女子が、待ってましたとばかりに手を挙げて告発する。大抵このコーナーで告発する人物は決まっていて、ほとんどが女子だった。そして糾弾されるのは男子と相場が決まっていた。

女子達は一丸となって赤井君と坂本君を攻めたてる。赤井君も坂井君も最初はばつが悪そうに照れ笑いしているけど、その責めっぷりにどんどん顔色を失っていく。

「赤井君は昨日も走っていました!」

「その前の日も走ってました!」

容赦ない追撃とはこのことだ。赤井君も坂井君も完全に意気消沈。それでも女子は止まらない。

「ちゃんと謝ってください!」

とヒステリックにまくしたてる。 それを受けて、赤井君と坂本君は少し照れながら立ち上がり、

「廊下を走ってすいませんでした」

などと頭を下げる。そこに罪悪感はない。確かに廊下を走ることは悪いことかもしれない。けれども、このやり方では女子に責められ、ただ嫌な思いだけをして形だけ謝っているに過ぎない。本当の根っこのことろで走ったことを悪いと思っているかというとかなり疑問が残る。子供心にこれに何の意味があるのか物凄く疑問だった。

議論が一通り落ち着くと、担任の教諭(40代女)の登場である。教諭は全てをまとめにかかる。廊下を走った彼らに再度注意を促し、告発した女子をそれとなく誉める。そして、皆も廊下を走らないようにしましょう。 などと言って話をまとめ、終了である。 これで晴れて帰りの会は終了し、僕らは解放され、家に帰ることができるのだ。もちろん、赤井君と坂井君も、裏山の敷地を多学年の連中に取られないよう、廊下を走って消え去っていく。

そんなある日、またいつものように帰りの会が進行し、魔の「困ったことコーナー」が到来した時、一人の女子が手を挙げ、僕を指さしながらこう告発した。

「今日、ドッジボールのときに、pato君が中山君の顔にボールを当てていました!私、見ました」

途方もない告発だ。あまりこういうことを言いたくないが、ドッヂボールとはボールを当てるゲームだ。その過程で不幸にも顔面に当たってしまうこともあるだろう。決して褒められたことではないが、取り立てて責められるべきことでもない。

中山君とはクラスの女子に大人気のナイスガイで爽やか小学生だった。女子一番人気の中山君が被害者ということで女子達はいつも以上にヒートアップしていた。

「はやく謝ってください」

「はやく謝ってください」

「はやく謝ってください」

「はやく謝ってください」

もう女子達は謝れの大コールだった。女子たちがウェーブを初めてその熱気がスタジアムを取り巻き始めてもおかしくないほどの一体感だった。けれども、僕にだって反論の余地はある。

「ちょっと待て、俺は確かに中山君の顔面にボールを当てた。でもその場で中山君に謝ってる。それでも許さないと中山君が怒るのはまだわかる。でも、お前ら女子が怒るのは意味が分からない。なんか迷惑かけたか?」

帰りの会のルールでは発言の際には挙手をして司会の許可を得ることになっていたが、そんなルールも忘れて立ち上がり熱弁を振るった。

僕の長い人生において、これほどの正論を吐いたのはこの時だけかもしれない。それほどに的確で適切な反論だった。勢いづいていた女子一同は、少し困った表情を見せた。確かに……私達は迷惑してないわ……。勢いでコールに加わっていた大半の女子達は、困惑といった表情だった。一生そこで反省してろ、そう思った。

「迷惑かけてるわよ!」

告発した女子が再度立ち上がった。その目はまだ死んでいなかった。

「由美子ちゃんはね、中山君のことが好きなのよ。中山君が顔に当てられるの見て、由美子泣いちゃったんだから!!由美子ちゃんに迷惑かけてるのよ!!」

完全な逆恨みじゃねーか。そんなこと言われてもどうしようもない。

しかしながら、これで女子達には大義名分ができたことになる。

「そうだ!そうだ!謝れ!謝れ!」

の大合唱が始まった。由美子ちゃんなんて惨劇を思い出してか、再度泣き出す始末。死ねブス。

もはや手におえる状態ではない。別に悪いことしたとは思っていないが謝って終わりにしたい。でも、由美子ちゃんに謝る義務はない。というか、絶対に謝りたくない。僕のプライドが謝罪を拒みつづけた。謝れば帰れるのに僕は謝りたくなかった。

激しく交わされる議論、もはや収拾がつかなくなったとき日直が切り出した。

「じゃあ、謝るかどうか多数決をとります」

多数決とはこの世で最も愚かな意思決定方法である。まるで全ての正義かのように扱われているが、合理性のみを追求した最もまずいやり方だ。使用する場面を謝るととんでもないことになる。

この提案を拒否したいところだが「議論が割れた場合は多数決。その結果には従うこと」という鉄の掟が帰りの会にはあった。これだったら揉めたらコインでという旅団の掟のほうがまだ良い。

もはや逆らうことはできない。 結果は41対3の大敗だった。 こうして、僕はわけもわからず由美子ちゃんに謝ることになった。女子達は大喜び。 その他の男子達も「やっと帰れる」とばかりに大喜び。もはや拒める状況ではなかった。

「中山君の顔面にボールをぶつけてごめんなさい」

僕は由美子ちゃんに謝った。たぶん人生においてトップクラスに入る意味不明な謝罪だったように思う。

もはやこのクラスの帰りの会は民主主義や裁判なんてご立派なものではなく、ある種の魔女裁判のように機能していた。告発されたら道理に外れていようが、どう弁明しようが有罪である。逃れる術はない。そして、もっともっと残酷な事件が起こるのだった。そう、あの惨劇が。

帰りの会。また、いつものように女子が手を挙げお待ちかねの「困ったことコーナー」が始まった。告発タイムである。常連のラジオリスナーのような軽快さで女子の告発が始まった。

「最近、松井君の周りが臭いです。松井君はちゃんとお風呂に入ってください」

とんでもない告発だ。クラス中がざわめいた。

こう言ってしまっては失礼かもしれないが、 松井君の家は貧乏だった。うちの家も貧しかったが、その上をいく貧しさのように感じられた。僕は貧しい者同士、勝手に松井君にシンパシーを感じていた。

松井君はいつも汚らしい服を着ていた。しかも毎日同じだった。確かに風呂にもちゃんと入っていなかっただろう。少し垢っぽい感じがいつもしていたし、髪だってボサボサでフケだらけだった。

松井君の住んでいる借家には風呂がなかったのだ。銭湯に行く余裕もあまりなかったようだった。ボロボロのジャージをまるで制服のようにどんな場面でも着ていた。

しかし、いくら松井君が汚なく、臭いとはいえ、それは人として言ってはならないことだ。人には人の、松井君には松井君の事情というものがあるのだ。しかも、帰りの会という公の場で声を大にして告発してよい内容ではない。

この当時、帰りの会で謝る男子に気を良くした女子達は、かなり暴走気味になっていた。毎日、なにか告発して、男子をやりこめてやりたかったのだ。彼女たちはいつも満足げな表情をしていた。

しかしながら、男子だって、いつも帰りの会でやり玉に挙げられるのは嫌なものである。おまけに意味不明の謝罪をさせられるとあれば、そうならないように品行方性になっていく。もう廊下だって走らなくなったし、ドッヂボールでイケメンを狙わなくなった。そう、告発する内容がなくなったのだ。

本来の趣旨からすれば理想の世界の到来のはずだ。なにせ、困ってる人がいなくなったのだから。けれども、男子が品行方正になって困ったのは女子だった。颯爽と告発し、謝罪される快感は麻薬のようで、一度味わったらそうそうやめられるものではなかった。告発したい告発したい、男子に謝らせたい、彼女たちの想いは爆発寸前にまで達していた。

そして、この告発に至ったのである。何度も言うが、松井君だって家庭の事情があってのことだし、人として言っては いけないことである。しかし、女子達の暴走は留まることを知らない。

「そうよ、くさいわよ!」

「それに汚いし!いつも同じ服だし!」

「謝ってよ!」

汚くってごめんなさい、不潔でごめんなさい、と謝れというのだろうか。なにか間違っている。それを受けた松井君は悲しそうにうつむいているだけだった。なんだか僕はすごく心が痛かった。見ていられなかった。

僕は松井君が好きだった。彼は無口な方だったが、心優しいし、ギャグセンスは抜群で、たまに発する言葉の一つ一つが面白いし貴重だった。それに松井君は絶対に人の悪口を言わなかった。そんな松井君ぼことが好きだった。誰もが毎日風呂に入ってお洒落をして良い香りを振りまけるほど裕福なわけではないのだ。

松井君は今にも泣き出しそうだった。もう見ていられなかった。このままでは松井君が傷つきボロボロになってしまう。どうすれば松井君を救えるのだろうか。そうだ!先生だ!こんなことがあっていいはずがない。このような信じがたい告発を先生が見逃すわけがない。その内、この議論を先生が止めてくれるだろう。その上、女子達を叱りつけてくれるだろう。松井君を救えるのは先生しかいない。

そう期待してオブザーバーである先生に視線を移すと、 「うんうん活発な議論だわ。青春だわ」とでも言いたそうに微笑を浮かべて議論を見守っていた。だめだ、このババア。

松井君が今こうして傷つけられているというのに、まったく気づいていないどころか、よくやったといわんばかりの顔をしている。全てが狂っている。教室もクラスメイトも、先生も、全てが狂っている。そして、一番狂っているのは僕だった。

「早く謝りなさいよ!臭いのよ!」

女子達はもはや集団ヒステリー状態だった。 男子だって、面白半分に「臭い!臭い!」と囃し立てていた。

「はやく謝っちまえよ、帰れねーじゃん」

と少しニヒルを気取っている奴だっている。もはや松井君に味方はいなかった。この広いクラスに独りぼっちである。そう、僕はこんな状況にあって何も言えなかった。一番狂っていたのは僕だった。

僕は卑怯だった。怖かった。松井君と同じようにうちも貧しく、僕だって決して綺麗で清潔というわけではなかった。同じ服も結構着ていた。だから松井君をかばってお前も臭いって言われるのが怖かった。

慣例どおり、無情にも多数決が始まった。

「松井君が不潔過ぎるので、謝るべきだと思う人は手を挙げてください」

一斉に女子達の手が上がった。男子も手を挙げた。手を挙げなかったのは僕と松井君と最も親しかった友人それに松井君だけだった。大敗だ。

松井君は、不潔というだけでクラス中に謝ることになった。教壇に立ち、皆の方を向く松井君。涙が頬を伝っていた。どうしようもない卑怯な自分がそこにいた。

「僕が不潔で皆に迷惑かけてごめんなさい」

彼がどういう気持ちでこのセリフを言い、頭を下げたのだろうか。

「聞こえません!」

後ろの方で女子が叫ぶ。聞えているはずだ。ワザと聞こえないと言って何度も謝らせる。もうやめてくれ、これ以上松井君を傷つけないでくれ。何度も何度も泣きながら「不潔でごめんなさい」と謝る松井君を見て、僕も涙が出てきた。

「ほんとに臭いよね」

「そうそう、死にそうなぐらいに臭いよね」

「死ねばいいのに」

戦いに勝った女子達が勝ち誇ったかのように言う。さぞかし気分の良いことだろう。そしてまとめるために担任のクソババアが出てきた。

「はい、今日は活発な議論でしたねー。松井君も清潔にしてこなきゃだめよ。皆もちゃんと清潔にしてくるようにね」

コイツはほんとにバカでどうしようもない。

次の日から、松井君は学校に来なくなった。僕は何度も家まで誘いに行ったが、会ってはくれなかった。彼にしてみれば、何もすることができなかった僕も、よってたかって彼を傷つけたクラスメイト達と同罪なのだ。

松井君を誘いに家まで行くとき、まだ空は明るいのに淡く薄い月が見えた。月はそこにいたのである。それはまるで僕のようだとおも思ったし、松井くんのことのようにも思えた。僕らはそこにいてはいけない存在なのかもしれない、そう思えたのだ。

いまだに昼間の空にぽっかりと月が浮かんでいると、松井君のことを思い出す。薄く白いその輝きは、やはり悲しく、そして綺麗なのだ。その美しさが僕の心を締め付けるのだ。

太陽は罪な奴

この間、休みを利用して新江ノ島水族館に行ったんですけど、すごいのな、なにがすごいって江ノ島の海が。

水族館の裏手はそのまま砂浜になっていて、海の家が立ち並んでいて、水族館を鑑賞した後もひょいと海の家に行ってご飯を食べられたりするんですけど、僕が連想するようなオールドタイプの「海の家」って感じのものは少なくなっていて、なんていうかアウトロー的な店が軒を連ねていたりするんです。

その店の外にも中にもアウトロー的な方々が生息しておりまして、ドゥンドゥンという音楽が爆音でかかる中、お前絶対に危険ドラッグやってんだろって人が我が物顔で歩いているわけなんですよ。

もしかしたらなんですけど、ここではむっちゃ危険ドラッグが流通していて、下手したら2千円札より円滑に流通している可能性があるんですけど、海で焼きそば食ってかき氷食ってってイメージとは程遠く、なんかガパオライス食ってジーマ飲んで、みたいなアウトロー感があったんです。

そんな中、とびきりおしゃれっぽい感じの店に入りましてね、海の家というよりは、しゃらくさいアウトローが集まるバーみたいな雰囲気の店に入ったんですけど、もちろん店内は、ドゥンドゥンという音楽が流れてて、店員なんてバリバリタトゥー入ってて顔に金属いっぱいついててですね、注文すら取りにきやがらねえ。

たまりかねて、こっちからカウンターに出向いて注文したんですけど、この店員どもが「うっす」とか言って聞いてるんだか聞いていなんだか、なぜか厨房にいる別のアウトローにオーダー伝えた後にハイタッチしてるし、本当に意味が分からなかったんです。

そんなこんなで運ばれてきた品物を、ザザーンザザーンという波の音を聞きながら食っていたんですけど、そうすると、隣に10人くらいの大所帯のアウトローが座ってきたんです。

アウトローどもは店に入ってきた状態でビンのビールをラッパ飲みしててですね、すげえうるさいんですよ。海に来てテンション上がってるのか、すげえうるさい。大体男7、女3くらいの配分なんですけど、男は完全にエグザイル的だし、女だって、絶対に手をつないでジャンプして空中に浮いてる写真をフェイスブックに上げてる感じですよ。そいつらが会話してるんです。

「今日のバーベキュー、最高かよ」

「それな」

みたいな会話してるんですね。どうも仲間内でバーベキューに来て、それは終わったか何かで、飲みたりないからこの海の家にきた、みたいな感じなんですけど、完全にアウトローなんでしょうね、タトゥーをどこに入れるか、みたいな会話で盛り上がってるんですよ。

「おれ、今日はマジで楽しかった」

「おれも」

「安心できるメンツってお前らだけなんだよねー」

「久々に集まれてマジ感謝」

みたいな会話が展開されていて、どうやらそれぞれ別の生活を歩んでいる昔の仲間が久々に集まってバーベキューをしたらしく、近況報告みたいなものが始まったのです。

こうなんていうか、アウトローはアウトローで大変なんだなって思ったんですね。向こうだって僕のようなデブのオッサンの生き様なんて知ったこっちゃないでしょうが、それと同じように僕もアウトローの生き様は知らないんですね。で、どうも彼らを見ていると、普段いかにアウトローなのかがちょっとしたステータスみたいになってるんですね。

「この間、ごちゃごちゃうるせえ上司、睨み返してやったらマジびびったてたわ、あのハゲチャビン」

まずグループのリーダー格っぽいアウトローが、スコットノートンみたいな肉体をしたアウトローが切り出します。

「パネェ」

「さすがジャクソン」(確かにこう呼んでた)

ただ、そんな好戦的な俺もこのメンツでは牙を抜かれる、マジ落ち着く、みたいな感じで会話が展開していくわけです。すると、その横の、ガンバ大阪井手口陽介っぽい人が言います。

「俺はこの間、ラーメン屋に並んでたんだけど、行列に横入りしようとしてきたハゲチャビンを怒鳴りつけてやった」

この人たちはどれだけハゲチャビンに恨みがあるのか知りませんけど、ここでまた武勇伝ですよ。

「パネェ」

「さすがRD(アールディー)」(確かにこう呼んでた)

なんか順番にいかに自分が暴れたかをカミングアウトしていく流れになって、電車でうるせえホスト風を怒鳴ってやったとか、アマゾンの箱がでかすぎるから宅配の奴怒鳴ってやった、DVD一枚をダンボールで運んできやがる、とかですね、そういった武勇伝が続いていたんですよ。で、武勇伝の後にはそれでもこのメンツだと落ち着く、みたいな流れになるんです。

で、いよいよ、僕がちょっと注目していた一番端に座る男の順番になったんです。

「ん?どうだ?ヨウヘイ」

どうもその男はヨウヘイって呼ばれているんですけど、なんていうかあまりこのメンツに溶け込め切れてないんですね。早い話が、あまりアウトロー感がなくて、どちらかといえばこっち側っぽい。色白でもやしっ子みたいな感じですし、アウトロー列伝にもあまり心躍ってない様子がしたんです。

そんな彼でも武勇伝を言わなければならない雰囲気なんですが、彼にそのようなものがあるとも思えない。どうもグループ内でも彼の立ち位置はそうみたいで、どうせないだろ、お前に武勇伝なんてって感じでジャクソンもRDもニヤニヤしてるんです。

そしてついに、ヨウヘイが口を開く。ついに彼の武勇伝が語られた。

「おれさ、この間、AV女優のサイン会行ったんだよ。人気のある女優で4時間くらい待ったかな。で俺の番になったんだよ。でも目の前には大好きなAV女優いるんだ。でもな、俺、握手せずに帰ってきたわ」

RDとか、はあ?みたいな顔してるんです。私19歳でがんになったときいい子でいるのをやめました、って言われた時の桜井君みたいな顔してるんです。他の女子やアウトローも「ハテナ?」って顔してて、ジェイソンなんて

「それのどこが武勇伝だよ。だっせー!」

とかバカにしてて、グループがドッと盛り上がったんです。

「さすがヨウヘイ」

「ウケル。サイン会(笑)」

「見事にオチ持っていったな。全然武勇伝じゃねえ」

そう盛り上がる面々の横で僕は一人震えていた。ガタガタと震えていた。

「こりゃあとんでもねえ武勇伝だ」

まず、AV女優のサイン会や握手会に行ったら、絶対に握手する。許されるならチンポくらい出す意気込みで臨むはずだ。なのに、4時間も待って握手しない。これはもう悪魔が産み落とした闇の子と言っても過言ではない。

ヨウヘイはきっと認めたくなかったのだ。自分が夢中になっているAV女優が、初めて画面以外を通して目の前に現れたとき、その実在性を認めたくなかった。そして、その彼女が実在する一人の人間であると感じたとき、自分がどれほど卑怯な人間なのか痛感したのだと思う。

4時間待ったのだ。それもいつも抜きまくってるAV女優だ。どんなにその実在性を否定したとしても、普通なら、まあ握手くらい、となる。そこを彼は誤魔化さなかった。自分を押し通した。それは上司を睨むより、何も悪くない宅配の人を怒鳴るよりとんでもない武勇伝だ。自分を押し通したのだ。

「やっぱヨウヘイはウケるな」

「ヨウヘイおもしろい」

お前らごときがヨウヘイ様を呼び捨てにするな、そう思ったが、RDとかマジ喧嘩強そうなので黙っていた。

夏の海に集うアウトローたち、その中にもとんでもない武骨な精神力を持ったナイスガイがいることが僕にとってはとても嬉しかった。照り付ける太陽に波の音、本当に太陽は罪な奴なのだ。

夏の魔物

夏といえばホラー、という感覚が実のところよくわからない。

怖い話やなんかを聴いて怖い思いをして、ぞーっとなってなんや寒くなったわ、暑いに夏にはこれが一番やな、となるために夏はホラーなんだと思うけど、あいにくデブにそれは通用しない。

例えばお化け屋敷に行ったとしたら、怖い思いをして走り回って叫んで、出るころには汗グッショリ、なんならちょっと湯気でてる。Tシャツの色もちょっと変わってるくらいだ。涼しくなったわーとは絶対にならない。

そういったわけで、夏にホラーなんて本来なら逆に暑くなって汗だくになるのですが、世間一般ではホラー特番なんかも増えてですね、やはりそういう雰囲気になってきますから、夏はホラーなんでしょう。というわけで今日はちょっとそういう話をしてみたいと思います。

僕がまだ子供だった頃、町の片隅に見るからに恐ろし気な洋館が立っていた。それは昔、産婦人科の医院だったらしいが、とうの昔に廃業していて完全なる廃屋だった。レンガ造りの古めかしい壁にツタが覆い茂り、見るからに何か出そうな外観だった。

もちろん、もともと産婦人科だったという極上のいわくもあるわけで、夜になるとホルマリン漬けの胎児が動き出すだとか、分娩中に死んだ母親が子供を探してさ迷い歩くだとか、もっともらしい噂が独り歩きするようになっていた。

当然、知る人ぞ知る有名な心霊スポットとして日々、不良グループやカップルなんかが隣町や隣の県からやってきて楽しんでいく一大観光地になっていた。もしかしたら、誰か行くんだかしらないよく分からない記念館なんかよりも重大な観光資源だったかもしれない。

そういった有名な心霊スポットなのだけど、終わりが来るのは早かった。土地と建物を誰かに買われて取り壊されることになったのだ。やはりいわくつきの土地と建物、ということでただでさえ田舎なので安いのに、破格というレベルで安く買い取られたらしい。

いくら安いといっても地元で結構名が轟いている心霊スポットを買うヤツなんているのか、誰だよ、その物好き、頭おかしいんじゃないか、どこのだれだよって思うけど、なんてことはない、買ったのはうちの父親だった。

うちの親父は自営業をしていて、それを自宅でやっていたのだけど手狭になっていたので新しい拠点が必要だと考えていた。そこで激安だった心霊スポットを購入し、そこを更地にしてプレハブを建てることにしたのだ。

祟りとか呪いで取り壊せない、とかそういうことがあるかと思ったが、別にそんなことはなかった。単に不気味ってことで噂が独り歩きしていただけの場所なので、そういった呪いの類はなく、すぐに更地になってプレハブが建った。僕が高校生の時だ。

これに喜んだのは、実は僕だった。思春期真っただ中だった僕は、家にいるのが煩わしく、このプレハブで過ごすことが多くなった。家からも離れていて親の干渉がない。さらにはトイレも台所もあって畳の部屋まである。おまけにクーラーも完備だ。気楽すぎてここで暮らすことしか考えられなくなっていた。

親父が仕事を終えるとこのプレハブは誰も使わなくなる。そこに移動していって自由な夜を満喫する。もともとは著名な心霊スポットだった場所ということもあって最初はすこし怖い気持ちもあったが、次第に慣れていった。ただ不可解なことが全くなかったと言ったら嘘になる。

金縛りにあったり、ドアの向こうから数千人くらい歩いている雑踏のような音が聞こえてきたり、金縛りにあい、どうしようかと思っていたら、自分の周りに散乱していた書類を踏みしめる音だけが聞こえてきて、その音が螺旋状に自分に近づいてきたりと、そういった不可解なことがあった。けれども、今日はその中でも最も怖かった話をしたい。

その日は、なんだか疲れていてすぐに寝た。プレハブの中には畳の休憩所みたいな小さな部屋があり、そこに布団を持ち込んで寝ていた。あまりの暑さにクーラー全開で寝ていたのだけど、一晩中つけっぱなしは良くないので程よい時間に切れるようにタイマーをセットしていた。

ただ、その時間設定があまりよくなかったみたいで、暑苦しさに目が覚めてしまった。たぶん、カーテンの隙間から見える暗さからいって真夜中のようだ。このプレハブでこんな時間に起きてしまうと、たいてい金縛りにあう。いやだなーこわいなーと思いつつ布団の中でうだうだしていると、声が聞こええてきた。

「・・・クス」

「・・・クス」

うわー、なんかでてきたー、声が聞こえるーいやだなーこわいなーと思いながら布団の中で震えていると、その声はさらにはっきり聞こえてきた。

「・・・ックス」

「・・・ックス」

「セックス」

絶対セックスって言ってる!

どういうことだ。なんで霊がセックスって言うんだ。もしかしてなんだけど、霊って結構女性であることが多いし、僕の好きな黒髪の地味目な女性であることが多い。僕らは無意識のうちに幽霊を真面目なものだと捉える傾向にある。つまり、彼女たちはこの世に出てくる原因となった恨みだとか呪いだとかを真面目に覚えていてそれをはらすために人々を怖がらせると考えるのだ。けれども、これは幽霊の中でも優等生なのではないだろうか。つまり、もっと幽霊にも不真面目な奴がいて、例えば何らかの呪いがあるのに出てくるんだけど、でもセックスしたいや、みたいなヤリマンの幽霊が存在していてもおかしくないのである。だいたい、この現世で真面目に一つのことに打ち込める人間なんてそうそういない。みんな何か別なことに心移りする。なぜ幽霊になると真面目に呪いに打ち込めると考えるのだろうか。そちらのほうがおかしい。幽霊になったのに競馬に狂う、幽霊になったのに強いイベントの日にパチンコ屋に並ぶ、そんなことがあるようにセックスに打ち込む女幽霊もきっといるはずなのである。

なんてことだろうか、セックス狂いの女幽霊が来た可能性がある。これはちょっと一大事だ。おそらくこのまま展開していくと、僕は大きな決断を迫られるだろう。つまり、幽霊と性行為をするのか、それとも人間の女性がいいと拒むのか、その決断をきっと強いられる。

ガサガサ

声は聞こえなくなったが、明らかにプレハブの周りを動く気配がする。完全にセックス霊が来ている。プレハブ周りの雑草が描き分けられるガサゴソといった音が聞こえる。どうも、その音から察するに気配は1つではない。最低でも4つはありそうだ。

まいったなー4体のセックス霊か、どうするか。頭の中にはハーレムもののAVが予習復習のように流れ始めていた。

ガタガタガタ

この畳の部屋からは直接見えないが、入り口の引き戸を強引にガチャガチャやる音が聞こえてきた。普通なら恐怖に叫びたいところだが、セックス霊だと思うとあまり怖くない。

「よし、決めた!」

霊でもいい。そう思った。これはもう経験しておくべきだと思った。むしろ、最初に霊で練習しておくほうがプレイの幅も広がりそうだ。意を決して僕は布団から起き上がり、入り口へと向かった。電気をつけると霊がびっくりすると思ったので、暗闇の中を進んでいった。霊でも電気を消してって恥ずかしそうに言うのかなって思った。

ただ、入り口付近に霊の姿はない。なるほど、さすが霊だ、霊的にじらしてきやがる。入り口のドアを開けて外に出て、裏手に回った。本当に茂みの中に4つの人影が見えた。本当にいた。

5P

そう思った時、その人影が叫んだ。

「うわー、ごめんなさい」

「ゆるしてくださいゆるしてください」

その人影は2組のヤンキーカップルだった。どうも、隣の県から来てる人たちみたいで、肝試しに行こうぜってなって怖い廃産婦人科の洋館の噂を聞きつけてここの来たらしい。ただ来てみたら洋館ではなく、プレハブだったのでおかしいと思って色々と調べていたら、僕が出てきて腰が抜けるほど驚いたらしい。

なるほど、最初に聞こえたセックス的な声は、こいつらこの後にそういうお楽しみの話をしていたんだな。

僕は恥じた。追い込まれて、もう初体験は霊でいいと決断するまでに至った自分を大いに恥じた。それはよくよく考えると寒気がするほど怖いことなのだ。そう、霊とかそういうのではなく、そこまでしてセックスしたい自分が怖い。自分の中に封印された悪魔みたいなものを感じて怖くなった。この自分の思いが一番のホラーだった。一番怖い。

ここはもう心霊スポットではない、とヤンキーカップルに告げたのだけどどうもまた廃産婦人科だという情報だけが再ブレイクしたらしく、この夏は毎晩のように肝試しにヤンキーやカップルが来ていた。もう説明するのも面倒なので、そういうやつらが来るたびにシーツかぶって霊のふりして追いかけまわしていた。ひどいときはロケット花火を打ち込んでくるヤンキーとかいたので、500メートルくらいは全力疾走で追いかけまわしてやった。完全に汗だくだ。

やはり夏のホラーとは涼しくなるなんて代物ではなくて、汗だくになるものなのだ。

 

うんこ5分前仮説

もしこの世界が5分前に作られたものだとしたら。

そんな思考実験を「世界五分前仮説」ということを知ったのはインターネットにそう書いてあったからだ。これは「この世界は実は5分前に始まったのかもしれない」という仮説で、どちらかといえば哲学の部類に入る。

そして、この仮説を完全に否定することは不可能とされている。つまり、本当にこの世界は5分前に作られたかもしれないのだ。5分前以上の記憶があるのだからそんなことはありえない、と否定したとしても、ただ単にそれは5分以上前の記憶を植え付けられた状態で世界が始まったに過ぎない、となり、仮説を否定することにはならない。

もっとわかりやすく言うと、5分以上前にオナラをした記憶があり、部屋内にはまだ臭気が立ち込めていたとしても、その記憶は植え付けられたものだし、臭気も誰かが準備したものなのだ。もしかしたら、残り香があるという感覚だけを植え付けられている可能性だってある。

これは記憶と過去の連続性、という話になるのだけど、ここではその話はしない。あらゆる過去を立証する手段が、5分前にそういう風に作られただけ、と説明されればそうであるとしか考えられないわけだ。今こうしている僕も、その周りも、すべてが5分前に作られた可能性を完全には否定できないということである。

こういった思考実験は、答えが出ることはほとんどない。むしろ、答えが出ないから好まれる傾向にあり、まあ、暇だということしか言えないのだけど、応用して発展させることで人生というものをより良いものにできる。

例えばこういった思考実験で最も有名といえる「シュレディンガーの猫」というものがある。これはまあ、ある条件で毒ガスが出る装置と猫が箱に入っている。ある条件を満たせば、毒ガスが出てネコは死ぬし、満たしていないなら生きている。結果は箱を開けるまで分からない。つまり、箱を開けるまでは猫は生きている状態と死んでいる状態が重なり合っている、というやつだ。

これを応用すると、すごいウンコがしたい、かなり危機的状態だ。けれども、実際に箱を開けるまでには、ウンコを漏らした僕と、涼しい顔をした僕が重なり合った状態で存在する。例え、漏らしたとしても、観測者が観測するまでは、漏らしていない自分も重なり合っているのだ。これは漏らしてベチョベチョになっている僕としては随分と心強い。

モンティホール問題、という有名な確率論の思考実験もある。あるクイズ番組で、プレイヤーの目の前に3つの扉があり、それぞれ閉まっている。1つのドアの後ろには景品の新車があり、残り2つのドアの後ろには、はずれを意味するヤギがいる。プレーヤーが1つのドアを選択すると、司会者のモンティは、選択されなかったドアのうちヤギがいるドアを開けてみせる。これで新車がある可能性があるドアはプレイヤーが選んだドアか、モンティに開けられなかったほうのドアか。ということになる。ここで司会者からプレイヤーにドアを変えてもいい、と言われる。その場合、プレイヤーは変えたほうが新車が当たる確率が高くなるのか?という問題だ。

これは直感的には、変えようが変えまいが新車が当たる確率は同じ、と思うかもしれないが、細かい条件があるが、実は変えたほうが2倍当たる確率がある、という答えになっている。直感で感じる確率と実際の確率が違うというパラドックスの問題だ。これも現実世界に応用することができる。

今、おなかが痛くてトイレに駆け込んだところ、三つある個室ブースがすべて閉まっていたとする。プレイヤーは腹を抱えながら一つの個室の前で待機した。すると、予想通り、目の前の個室が開いたが、そこはどういう使い方をこうなるのかと目を疑いたくなるほど汚れていた。ちょっとここに腰掛けるレベルではない、なんかドワーとかなってる。前の奴は何をしてたんだという状況の場合だ。

ここで司会者のモンティが現れ、隣の個室のドアを無造作に開けたとする。そこにはウンコをしているサラリーマンがいて急に開けられたので激怒している。モンティはその怒りを全然気にしていない様子だ。結構図太い。この場合、このまま汚れた個室でウンコをするのか、それとも開けられていないもう一つの個室を開けるのか、という問題だ。

直感的には、汚れた個室でウンコをするのが正解のようにおもうかもしれないが、実はそうではない。もう一つの個室を開ける、が正解である。なぜなら、モンティが開けた個室で激怒しているサラリーマンの怒号を聞いて、もう一つの個室のサラリーマンもウンコを終わらせる準備をするはずだからである。結果、そこそこ綺麗な個室でウンコをすることができる。というわけだ。

このように、多くの思考実験は答えが出ることはないが、私生活に応用すればそれはそれは健やかな時間をすごすことができる。そこで冒頭の世界五分前仮説を思い出してみよう。ぶっちゃけるとこの世界が5分前に作られようが何億年前に作られようがどうでもいいのだけど、これを私生活に応用するとなかなか役立つ。

例えば、ウンコに行きたくて仕方がない。けれどもいけない。そんな状況を想像してみよう。重要な会議の席とか、厳粛な葬儀の途中とか、熱海浜松間の電車の中とか、そういうシチュエーションを想像するといい。ウンコに行きたい、でもいけない!どうしよう!

ここで5分前仮説の登場だ。このウンコは5分前に作られたものだ。もしそれより以前にウンコが存在したとしても、それはそういった記憶を植え付けられただけにすぎない。つまり、これはまでできて5分のひよっこうんこである可能性があるのだ。なんだか我慢できそうだ。

また、不幸にもウンコを漏らしてしまった場合でも、それは実際に漏らしていない可能性がある。つまり、もしその漏らした記憶が5分以上前のものであるならば、それはそういった記憶を植え付けられただけで、本質的には漏らしていない可能性があるのだ。なんだか明日も頑張って生きられそうな気がしてくる。

このようなことを悶々と考えながら、コンビニでウンコをしていたら鍵が壊れていたみたいで、知らないおっさんにバーンとドアを開けられた。これも5分前仮説で、恥ずかしいのは5分間だけで、5分経過すれば、それはただそのような出来事の記憶を植え付けらている。実際には開けられていない、と心を慰めることができるのだ。是非ともお勧めの生き方である。

そして、あの開けたオッサンはもしかしたら司会者のモンティかもしれない。

セミと秋ナスとイチローあとなんか長い話

職場の上司から届いたメールには、長々と業務の指示に関する記述が書かれていたのだけど、その文末に以下のような意味不明な文章が書かれていた。

「3つの果実があったとします。その果実はどれも甘くみずみずしい。あなたはそれを食べる日を楽しみに待っている。ただ、それをかわいそうな子供に分け与えるとします。子供は3つ全部でなくとも1つだけでも分けてもらえればそれだけで病気の母親が助かると言っています。あなたならどうしますか?」

なんか怪しい宗教なりマルチなりをはじめたと疑いたくなる文面だが、これ、実はいつもの上司特有の戦術で、言いにくいことを言わなければならない時にくっそ遠回しに言ってくるってやつだ。

問題の文面、解読するには少しコツが必要だ。主体をなすのは「3つの果実」だが、甘くみずみずしく誰もが楽しみにしている3つのもの、そう、今週末に控える三連休のことを指している。その三連休の一つを誰かに差し出せば、その誰かが助かると言っている。つまりこれは、申し訳ないんだが、三連休のうちのどこか一日を出勤してきてくれないか、という申し出だ。すげえ分かりにくい。

ただ、力関係を利用して強引に「三連休は出勤してくること」と突破してくる偉い人が多い中、申し訳なさそうに遠回しに言ってくるこの人には好感が持てる。だからいつも、この人の言いたいことを汲み取って、こちらから「三連休っすね。どこか一日出勤しましょうか?」か僕が言い出すまでが既定路線だ。

ただ、少しだけ邪な気持ちが僕の中に芽生えた。ダイレクトに出勤を命令された場合、ダイレクトに承諾するかダイレクトに断るかだ。ただ、このように曖昧に遠回しに言われた場合、遠回しに返答したらどうなるだろうか。その部分には大変興味がある。すぐに返事を書いた。

「3つの果実を一つ、困っている人にあげるという話ですが、その3つの果実いずれもが等価の果実であるとは思えません。リンゴは同じように見えてすべて違います。大きさも甘さも色も。それと同じでこれら3つの果実も同じでしょうか?だからまずこの3つの果実の違いを定義し、それらを吟味して、本当に上げた人のためになる果実を差し出すべきで、それができない現状では差し出すのは得策とは思えません」

例えば3連休と言ってもその3日の休み全てが同じ休みではありません。1日目はココロオドルでしょうし、二日目は少し疲れているかもしれません、三日目は連休明けのことを考えて少し気が重いかもしれませんね。それらを同じ果実に例えるのがおかしい、まずはそこから考えるべきでは?という提案です。つまり、断っているということです。

すると、遠回しな言い方が伝わらなかったと思ったのか、上司がさらに別の手段で攻めてきます。

「秋ナスは嫁に食わすな、という言葉をご存知ですか?あれは、昔、家の中で嫁の地位が低くて、秋ナスのような旬の美味いものを嫁なんぞに食わせてはいけない、もったいない、と姑あたりが言った言葉という説がありますが、別の意味もあります。ナスは体を冷やす効果があります。跡継ぎを生む嫁が美味いからとナスを食いすぎ、体を冷やしてしまってはいけない、と嫁を気遣う言葉であった説もあるのです。同じ言葉なのに蔑むか気遣うか、別の意味があるのが興味深いですね」

なるほど、そう来たか。これはつまり、3連休出て来いというのは、嫌がらせのように聞こえるかもしれないが、実は3連休出てきて職場を回すのは君しかいない、期待しているよ、という意味なんだよ。全く真逆の意味があるんだよ、という主張でしょう。つまり、やはり遠回しに三連休出てきてほしいという頼みに違いない。すぐに返事を書きます。

「秋ナスを嫁に食わせない、それは嫁を蔑んでいるのか、気遣っているのかという話ですが、もし気遣っているとしても「跡継ぎを生むから体を冷やしてはいけない」という姑の利己的部分が垣間見えます。むしろこちらのほうが悪質で、嫁を一人の人間と見ていない。単に跡継ぎを生むだけのマシーンのように考えているのではないか。気遣うように見せて自分のことしか考えていない。こちらのほうが随分と悪質ではないでしょうか」

期待しているから三連休出てきて、これは僕に対する期待とみると美談だが、単純に文句を言わなさそうなので期待している、だけに過ぎない。それは随分と利己的ではないか、そういった遠回しの断りです。

するとしばらく時間をおいて、また上司から来ました。

「イチローがメジャー通算三千本安打を達成しそうです。ここで連続マルチヒットでもして一気に達成してほしいところですね。ただなかなかスタメンに入れないところがもどかしいです。メジャーでは休養を重視する傾向にあります。他の選手が休養の時にスタメン入りし、結果を残したいところですね。彼が出塁すれば盛り上がります。かれが努力に勤める姿は他の選手にも良い影響をあたえる。あのような偉大な選手は他にはいないですよ。チームメイトにも頼られているイチロー。あのような人が部下になることを望むものです」

もちろん、ここまでの文章はこれだけを送ってきているわけではなく、他の業務上の指示の最後に書かれているのだけど、これはなかなか難解だ。これを三連休出勤してほしいと読み解くことは難しい。イチローなら連休でも出てきてくれるという主張ではない。イチローはたぶん連休は連休で休む。これはなかなか高度でかなり上級者でないと解読することは困難だろう。いちおう、わかりやすく色を付けるとこうなる。

「イチローがメジャー通算千本安打を達成しそうです。ここで続マルチヒットでもして一気に達成してほしいところですね。ただなかなかスタメンに入れないところがもどかしいです。メジャーでは養を重視する傾向にあります。他の選手が休養の時にスタメン入りし、結果を残したいところですね。彼が塁すれば盛り上がります。かれが努力にめる姿は他の選手にも良い影響をあたえる。あのような偉大な選手は他にはいないですよ。チームメイトにもられているイチロー。あのような人が部下になることを望ものです」

これにはこうやって答える。

「セミは何年も地面に潜っていて、地上に出たとき、自分が一週間の命だと知っているのでしょうか。断じて違うと思います。その一週間を意味深いものだと考えているでしょうか。ないと思います。ただ何も考えず飛び回り、何も知らずに一週間目に死ぬのです。そこに理由や哲学はない。セミはただセミなのです。僕らにも寿命はあります。ただ寿命や先の心配をしてわだかまりの中で生きていくのは悲しいことです。いま、地面から飛び出したと思って日々を生きていくのは難しいことです。ただ暑い中、ミンミンいってわかりあえば良いのです。少なくとも僕はそう思います」

色を付けるとこうなる。

「セミは何年も地面に潜っていて、地上に出たとき、自分が一週間の命だと知っているのでしょうか。じて違うと思います。その一週間を意味深いものだと考えているでしょうか。ないと思います。ただ何も考えず飛び回り、何も知らずに一週間目に死ぬのです。そこに理由や哲学はない。セミはただセミなのです。僕らにも寿命はあります。ただ寿命や先の心配をしてだかまりの中で生きていくのは悲しいことです。いま、地面から飛び出したと思って頑張ったすることは難しいことです。ただ暑い中、ミンミンいって生きていけば良いのです。少なくとも僕はそう思います

すぐに上司が返してきて

「セミはきっと知っていると思います。彼らがなぜあんなにも鳴くのか。それはまるで命の叫びのように感じられます。俺はここに存在していたんだ、確かにここにいるんだ。見てくれ、聞いてくれ、感じてくれ、そういうものではないでしょうか。同じように我々も生きた痕跡を残すべきなのです。どうやって生きたのか、どう過ごしたのか、その痕跡を、鳴き声を残すべきだとは思いませんか」

「おっしゃることは理解できます。セミの声が生きた証、。素敵な考え方だと思います。ただ我々が木にとまって大声で叫んでもパトカーを呼ばれるだけで、ちょっと説教されて帰されるくらいです。裁判記録も残らないでしょう。名は残らないのです。人間が生きた証を残すのは大変なことです。セミのように簡単にはいかないのです。だから人生は面白い。難しいほどゲームが面白いように」

これ、三連休の出勤要請と、それを断ってる会話ですからね。遠回しすぎてもう訳わからない。

「確かに、人間が生きた証を残すのは大変です。ただ一つだけ残す方法があります」

「なんでしょうか」

「誰かの記憶に残ること。それは生きた証ではないでしょうか。人はどれだけ他人に影響を与えたか、それが生きた証になるのではないかと考えます。つまり人に影響を与えるのです。」

「なるほど、どのようにして影響を与えるのでしょうか」

「真っ当に生きることです。奇抜なことをして人の記憶に残ったとしても、それはすぐに消えてしまいます。単にパフォーマンスでは、鮮烈に記憶されたとしてもすぐ消えてしまう。ただまじめに真っ当に生きる姿を見せる。そのほうが末永く人の記憶に残り、生きた証となるのです。だからセミは真っ当に地道に鳴き続けている。余生のすべてを使って」

「真っ当に生きる。それが一番難しい。簡単に言われても、それが難しいことはすぐに分かります。一体、どうすればいいのでしょうか。」

何度も言いますけど、三連休の出勤要請と、それを断ってる会話ですからね、ソクラテスと弟子の会話くらい意味不明になってる。いよいよ上司も業を煮やしたのか。

「三連休出勤してくれば真っ当に生きられます。私の記憶にも残ります」

「断ります」

元も子もないダイレクトできやがった。最初からそう言えよって思うのですけど、こちらもダイレクトに断ってやった。

物事を遠回しに言うスキル、これは大切なことのように思います。けれども、言いにくいことを遠回しに言うのは逃げであることがほとんどです。時にはダイレクトに逃げずに。でも、遠回しに言う気遣いも忘れずに。そういった難しさがあるのです。

さて、三連休の出勤を断りましたが、別に予定もないですけど、お金もありません。することがないので、誰か酒と飯を奢ってほしいと思うのですけど、ダイレクトに言うと厭らしいので、遠回しに、三つの果実は全て僕のものになったが調理ができない。調理器具もないし、調理方法も知らない。誰か器具を出してくれて一緒に味わってくれる人はいないか、そういって今日の日記を締めたいと思います。

カラカッサの屈辱

長い人生において人は幾多の危機に晒される。それが生命の危機だったり、社会的地位の危機だったり、自分の何らかの危機を脅かす状況に直面することがある。果たして僕らはその危機を乗り越えるだけの準備をしているかと言われれば、答えはNoである。なぜなら、僕らは危機が来ると分かっていながら、危機が来ないと心のどこかで考えているからだ。

街を歩いていていきなり刺されると思うか?家で野球中継を見ていていきなり隕石が直撃すると思うか?選挙に行って爺に殴られそうになるか?これらの危機が絶対に起こり得ないかと言えば違う。けれどもそれを想定し、準備をしている人はいないと言い切ることができる。

通り魔が出たら困るから、と鎖かたびら着て外出する女の子なんてくのいちくらいだろうし、隕石に備えて屋根を強化する人もいない、選挙にいくとき殴られる覚悟で行く人もいない。そう、全く準備をしない状況だ。

ただ、多くの危機は、それこそ準備どころか予想すらしていない時と場所で起こる。そういうものだ。

「コラー!この中にカラカッサってやついるだろ!殺してやる!」

ハート様みたいな体躯の良い男、ラッパーが好みそうなアウトロー的なファッションに身を包んだ巨漢の男が吠えた。そして僕の胸倉をつかむ。誰が、こんな恐ろし気な男に吠えられ、なおかつ「カラカッサ」などという意味不明な名前で呼ばれなければならないのか。確かに危機なのだけど、こんな危機、予想できるはずがない。

それは、地方の小さなパチンコ屋で起こった話だった。家が近所だったこともあり、僕はその小さなパチンコ屋に通い詰めていた。完全に人間のクズだ。頻繁に通っていると、だいたい店に来ているメンツは同じで、いわゆる「常連」みたいなものが形成されていることに気が付く。

異常に日焼けした真黒な男や、今にも死にそうな婆さん、ちんぽこみたいなキノコヘアーの若者、明らかに孫の体育のジャージを着てるとしか思えない爺さん、個性豊かな様々なメンツがオールスター軍団を形成していた。

普段、生活していたら絶対に会わないような、それこそ外を歩いていてもこんなのいないっていう濃厚なメンツに囲まれながらその店の常連と化していたんだけど、ある時、何気なく覗いたネット掲示板で衝撃的なものを見つけてしまった。

「○○店の話題について語るスレッド」

地域の話題を扱う掲示板が集まるサイトがあって、基本的にローカルな話題が中心で、○○って製作所の事務の雅子って女はヤリマンです!みたいな誰も得しない話題が大好物な僕はそれらの話題を探していたのだけど、そうしたら行きつけのパチンコ店について語る場所が出てきたのだ。

こんなマニアックな話題も扱ってるのか、ヤリマン情報だけじゃないんだと感嘆し、例えば、木曜日はどの台が出る傾向にあるとか、今日は出ない日だとか、そういったマル得情報が語られていると思い、そのスレッドを覗くと、衝撃的な話題が展開されていた。

「黒ブタ死なねえかな」

それは常連に対する悪口だった。異様に日焼けした男は、ちょっと小太りだったので「黒ブタ」と呼ばれていた。おそろしいのか面白いのかわからないが、基本的にニックネームで悪口が書かれている常連は、その名前からすぐに「あいつのことだ」と連想できるようになっていた。

死にそうな婆さんは「ご臨終」って名前で呼ばれていたし、ちんぽこみたいな頭した若者は「カントン包茎」って呼ばれていたし、孫のジャージを着ていた爺さんは「もう中学生」と呼ばれていた。それらの悪口が激しく展開されていて、

「今日も黒ブタ出してたな。あいつぜったい店のサクラだわ、死ねばいいのに」

「ご臨終はもう死んでたけどな」

「カントン包茎がおしぼりで顔拭いてて卑猥すぎて笑った」

「もう中学生のジャージ、ついに膝のところが破れる!」

こんな感じで展開されていたのだけど、その中でも「カラカッサ」と呼ばれる男が特に嫌われているようだった。

「カラカッサ死なねえかな」

「カラカッサって本気で臭いから店に来ないでほしい」

「タイムマシンがあるなら過去に戻ってカラカッサになるはずの精子をアルコール消毒したい」

と、ものすごい嫌われようで、なんだか不憫になってくるほどだったんです。でもね、他の常連はすぐに思い浮かぶのに、そのカラカッサなる人物だけは全然思い浮かばないんです。言いたくないですけど、ニックネームつけられて悪口書かれる常連って、まあ個性的で、そういう扱いされるのもなんとなく理解できるんですけど、カラカッサだけは本当に心当たりがない。本当にそんな嫌われるような奴いたっけと、注意しながら打っていたんです。

その日は、店に一台しか置いてない「梅松ダイナマイトウェーブ」って台を打ってたんですけど、周りを注意していてもそこまで嫌われそうな奴はいない。おまけにカラカッサっぽいやつもいない。本当にそんなやつ実在するのか、もしかしたら掲示板なんかでよくありがちな、実在しないんだけど、みんなノリで実在する風に書いてるネタなんじゃないか、そう思ったんです。

その日の夜、掲示板にアクセスします。

「今日、カラカッサ来てた?」

またカラカッサの話題。もうわかってる、これネタでそんな嫌われるようなやつ存在しないんだろ。

「きてたきてた、相変わらずキモかったわ、カラカッサ」

はいはい、そんなやつ存在しない。存在しない。

「今日は梅松ダイナマイトウェーブ打ってたわ。あいつ死ねばいいのに」

カラカッサは僕だった。

これは衝撃ですよ。店に一台しかない梅松ダイナマイトウェーブを僕が打ってたら、カラカッサが打ってたって書かれるんですから。完全に「僕=カラカッサ=クソ嫌われている」ですからね。

結構衝撃だったんですけど、まあ僕、嫌われるのそんなに珍しいことじゃないんでそれでも普通に店に通っていたんですけど、そうするとどんどん掲示板がエスカレートしていくんです。

「もう我慢の限界だ。誰かカラカッサを○せよ」

みたいな過激な感じになっていって、

「この間、帰りにカラカッサ見かけたから尾行したらコンビニでエロ本買ってて笑った。めっちゃウキウキでアパートに入っていった。俺、家知ってるで」

と僕のプライベートまで暴露されていったんです。ただ実害は特にないんで普通に店に通い、エロ本は尾行がついていないか確認してから買うようにしたんですけど、そうすると、今度は新たな脅威が店を襲ったのです。

突如来るようになったハート様みたいな体格の巨漢のアウトローが、傍若無人に振る舞うようになったのです。もうやりたい放題の暴れっぷりで、すぐに掲示板はそのハート様への悪口や苦情で溢れかえりました。

「ハート死ね」

「ハート逮捕されろ」

みたいな過激な言葉がいつものように飛び交っていたんですけど、いつもと違ったのは、そこにハート様が乱入してきたんです。

「なにここ、うけるんだけど?おまえらネットでしか悪口言えないの?文句あるなら店でかかって来いよ!」

完全に黒船来航ですよ。自分たちのテリトリーで悪口を言っていただけなのに、ご本人登場でみんな焦ったのです。さすがに物まねしていてご本人登場とは訳が違いますから、けっこうバツが悪い感じがしてみんな意気消沈していたんです。

ただ一人の男がそのハート様につっかかりました。

「テメーの行動でみんな迷惑してるんだろうが。お前が好きかってやるから俺たち常連が迷惑してんだよ。二度と来るなよ、デブ」

おお、勇気ある。そう思いましたね。それにはすぐにハート様も応戦します。

「はあ?なんでお前らみたいなネットで悪口言うしかないオタクに気を使わないといけないの?文句あるなら店で言えよ、いつでも相手したやるからよ!」

こういった議論は完全に平行線です。ネットで言い争っているところで、現実に出てきて言えよって論調で反論する人は多いですが、そもそもそういった考え方は決して交わることがありません。不毛な議論になることがほとんどですが、この場合は違いました。ハート様に果敢に挑みかかった男はさらに反論します。

「上等だよ!ってかテメーだってネットで反論してるだけってわかってるか?チキンじゃねえなら店で俺に反論してみろよ、俺を見つけだして反論してみろよ?できないか?この脂肪の塊が。脳まで脂肪でできてるんじゃねえか?」

もうハート様を煽る煽る。おまけに現実世界で勝負しようぜとハート様の誘いに乗っている。すげえ勇気あるなって思ったのですが、でもやはり匿名でやり取りしている掲示板です。ハート様がこの果敢な男を見つけ出す手段はない。

「ご立派だけどさー、俺はお前を見つけられないわけよ。見つからないと思って言ってるだけだろ、このチキンなオタクが。悔しかったらお前の特徴書いてみろよ」

ハート様の意見はごもっとも。でもね、こういう喧嘩みたいなやり取りって最高のエンターテイメントで、完全なる蚊帳の外からこれを眺めていると、もうハラハラドキドキしてすごい面白い。いいぞ、とか思いながら観戦していると、勇気ある常連が書き込みます。

「俺を見つけたいのか、だったら簡単だよ。その辺の常連に聞けばいい。カラカッサってどいつのことですかって?それが俺だ。簡単に見つかるよ」

ほう、この勇気ある男はカラカッサってやつなのか。勇気あるなーあのハート様と一戦交える気なのかーって思いつつ気づいたんです。カラカッサって僕じゃねえかと。もちろん、僕、そんな書き込みしていない。

これはね、ものすごい高度な嫌がらせですよ。ハート様をカラカッサのキャラで煽る。すると発奮したハート様がカラカッサに殴りかかる。あわよくば二大嫌われキャラを一掃できる大作戦です。とんでもないことですよ、これは。

次の日、パチンコ屋に行き朝の行列に並ぶと、予想通りハート様が発狂していました。

「コラー!この中にカラカッサってやついるだろ!殺してやる!」

この叫びに、何人かの常連は知らぬ顔をしていたのですが、カントン包茎の野郎が即座に僕を指さしました。そしてそのまま胸倉つかまれて、凄まれたというわけです。

「テメー次に掲示板に書きやがったら殺すからな」

とか脅されて、俺書いてないのにと思いつつもその日は殴られることはなく、梅松ダイナマイトウェーブを打って帰ったんですけど、僕とハート様のやり取りを列に並んでいた常連全員が聞いていたんでしょうね、掲示板にアクセスしたら全ての書き込みが投稿者カラカッサになってました。

「ハートに胸倉掴まれたけどすげえ口臭かった」

「脂肪の匂いしかしなかった」

「ハート様、鼻毛出てた」

「俺がカラカッサだって教えたカントン包茎しねよ。陰茎みたいな顔しやがって」

みたいな書き込みが、すべて身に覚えないのにカラカッサっていう名前で書かれているんです。まあ、最後のは僕が書きましたけど。

結局、次に店に行ったら確実にハート様に殺されるので、その店に行くことはなくなったのですが、まさか普通に店に通ているだけでカラカッサって名前つけられ、ヘイトを貯めて、よく知らない人に喧嘩まで売られる、なんて危機が訪れるとは思いもしません。

悲劇や不幸にあった多くの人が、その危機を予知していたでしょうか。おそらくほとんど予知していなかったと思います。それは裏を返せば、普通に生活している僕らにだって、予想だにしない不幸や危機が訪れるということです。たまたま掲示板を見て、その危機をある程度予想できた僕は幸運でした。できることなら、アンテナを張り巡らせてその危機を察知する。それが大切なのかもしれない、カラカッサはそう思うのです。

ちなみに、掲示板で知ったのですが、孫のジャージを着ていると思われていた爺さん「もう中学生」ですが、あれは孫のジャージではなく、盗んできたジャージだったみたいで、逮捕されたようです。書き込みによると、逮捕時は潔かったようで、彼は自分に訪れる危機をあらかじめ察知していたのでは、と書かれていました。

 

 

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