僕らの7時間戦争

当時の成田空港は、絶望と孤独、それよりももっと上等な圧倒的なマイナスの感情が渦巻いていた。

格安航空会社、いわゆるLCCが増えだした当初、数年前だろうか、多くの格安航空路線は空港使用料の安さから成田空港発着という路線を選択した。しかしながらそのダイヤ設定は非常にファンキーで成田空港発6時15分などという、正気の沙汰とは思えないスケジュールが組まれていた。

通常なら20,000円くらいする路線が5,000円程度で乗れるのだから朝早いのくらい我慢するが、それにも限界がある。なぜならば、例えば6時15分発ならば遅くとも30分前には搭乗手続きを済ませておかねばならず、空港にいなくてはならない。けれども、それに間に合うような交通機関が存在しないのだ。

今は改善されているかもしれないが、当時はLCCが増え始めた時期ということもあり、全く対応できていなかった。朝早く飛行機出るけど電車ないから、という将軍様のトンチかな?ということが平然とまかり通っていた。

ならば成田空港周辺のホテルに泊まればいいじゃん、と思うかもしれないが、それは本末転倒だ。ホテル代をけちるというニュアンスではない。ホテル代を払ってしまっては意味がないのだ。それだったら、普通に料金払って羽田空港から良い時間の飛行機に乗る。LCCを選択した以上、それ以外にびた一文金を払っては負けなのだ。

結果、前の日の終電で成田空港に行き、成田空港で夜を明かすという、こちらも正気の沙汰か、という行動に出ることになる。今は新ターミナルもできて少し改善されたらしいが、当時は主にLCCが使うターミナルはおまけみたいな扱いで、待合をする場所もなかった。

結果、昼間は人が行き交う到着ロビーや出発ロビーの地べたに座り早朝の飛行機を待つ事になる。空港内には同じ結論に至った仲間が結構いて、ベンチを占拠されているので地べたに座るしかない。

出発まであと7時間。俺何やってるんだろう、などと自問自答しながら、ただただ待つ。照明も落ちて真っ暗になった空港で待つ。ひんやりとタイルの冷たさがジーンズ越しに伝わってくる。これはもう戦争なのだ。ここまできたなら金は使わない。ジュースすら飲まない。即身仏になるときの僧侶みたいな気持ちでただただ待った。

「あっらー!真っ暗よ!」

「いやだわー!」

真夜中に到着する高速バスでババアの軍団が電撃的に参戦してくる。多くの客が即身仏になりつつある静寂をババア軍団が破った。

「ちょっと、どういうこと、仮眠室とかあるんじゃないの」

「んまー、もしかして朝までここで待つの?」

「どういうことよ松田さん!」

あまりにうるさい。こちらが聞きたいくらいだ。どういうことよ、松田さん。

どうやらババアたち、安さに惹かれてLCCのチケットを取ったが、やはり将軍様のトンチにひっかかったらしい。それで深夜に到着するバスで成田空港に到着したが、ババアたちの間で「さすがに仮眠室、そこまでいかなくとも休憩室みたいな施設はあるだろう、飛行機を待つたえの配慮があるに違いない」と漠然と考えていたらしく、意気揚々と到着したらルンペンのように地べたに座る僕の登場だ。ちょっとしたカルチャーショックを受けたらしい。

「わたしこんな屈辱初めてだわ」

「ありえないわ。ラウンジとかないの」

「わたしベッドじゃないと眠れないんだけど」

ババアたちはババアグループ内で一番立場の弱そうな松田さんを責める。どうしても地べたに座りたくなくて立っているのだけど、完全に井戸端会議でとにかくうるさい。

それでもこれから行く旅行は楽しみみたいで、口々に

「私は砂蒸し温泉が楽しみ」

「私の狙いは黒豚よー」

「私は桜島が楽しみ」

「私の狙いはイ・ケ・メ・ン」

「きゃー!」

きゃーじゃねえよ。良かったな、俺が荒ぶる神々じゃなくて。俺が神話の時代の荒ぶる神々だったら間違いなく裁きのイカヅチを落としてる。幾度となく落としてる。良かったな俺が荒ぶる神々じゃなくて。神話に登場する神々じゃなくて。

ババアたちは僕の場所からは見えないフロアに移動したのだけど、それでも声だけはずっと聞こえていて

「イケメンの店員とかいるかもよー。連絡先とか交換したらどうしよう」

「いいのー?旦那は?」

「旦那なんか殺しちゃう。毒盛っちゃう」

「きゃー!過激!」

とか、テンションはあがるばかり。なんか恋はスリルショックサスペンスみたいなことまで言ってた。荒ぶる神々はそれでも動かなかった。ただ心を殺し即身仏になるように祈っていた。

いよいよ早朝。空が明るくなてきて、空港で働く人たちが行き交うようになってきた。僕も北海道に飛び立つために搭乗手続きに向かう。そういうあのおばさんたち途中から急に静かになったけど寝たんだろうか。あれだけありえないって言ってた地べたに座って寝ちゃったんだろうか。そう考えながらフロアを上がると、衝撃的な光景が広がっていた。

その少し広くなっているフロアでババアたちは眠っていた。けれどもどうしても地べたに這いつくばりたくなかったらしく、立って寝ていた。なぜか等間隔で複数のババアが立って眠っていた。

「ババアたちのパルテノン神殿だ」

荒ぶる神々は思った。これはパルテノン神殿の柱だと。神は怒りを鎮めた。

一つの柱は口を開けていた。一つの柱は幸せそうだった。一つの柱は、まつげが半分取れてボリショイサーカスみたいになっていた。彼らは神の怒りを鎮めるためにこうして立っているのだ。

僕が乗る北海道便より早い時間設定だった鹿児島便が飛び立っていく。パルテノン神殿は昨日の会話から察するにこれに乗る予定だったのでは、と思いつつ、荒ぶる神々はパルテノン神殿を後にした。

当時の成田空港、LCCを待つ成田空港には絶望や孤独なんてものじゃない、もっとマイナスな何かが渦巻いていた。そして神々と神殿の物語が繰り広げられていたのである。これはもう戦争なのだ。