雪降桜の季節に

雪降桜という言葉がある。皆さんにはあまりなじみがないかもしれないが、「せっこうおう」という呼び方で実に風流な情景を描写した言葉だ。冬が終わり春が近づいてくると、暖かい日と肌寒い日を繰り返すことで一歩づつ春に近づいていることを実感する時期がある。

万葉集俳人、柿本彦江路はそのどっちつかずな日々の中でも極端に寒くなる日を好んだ。多くの人が春の到来を待ち受ける中、それらを裏切るかのように極端に寒い日が訪れることを風流とした。おそらく、万葉集の時代にも春先に極度に寒くなって雪が降る日があったのだろうと思う。

「風にのり 雪うつりけりな いたづらに 桜のやうで ながめせしまに」

                万葉集 柿本彦江路  春・114

 季節外れの雪が桜の木の枝に積もっていて、風に乗って雪が舞っている。それはまるで桜のようで、別にこれでも随分と綺麗だから存分に趣があると感じた

柿本はこれを「雪降桜」と名付けた。「ゆきふりのさくら」とも呼ぶ。春先になって季節外れの雪が少しだけ降り、木の枝にだけ積雪が起こる。その雪が風に乗って舞っていて、これがもう桜でいいんじゃないのか。みんな桜の花が開くのを待っているが、別にこれでいいだろう、綺麗なのだから、ということである。

実に風流な考え方だと思うけれども、この歌の本質はもっと先の方にある。我々は舞い散る桜の花びらと雪の粒が実質的にどれだけ違うのか考えたことがあるだろうか。もちろん、花びらと雪という決定的な違いがあるのだが、今はそういうところを論じているわけではない。もっと大雑把に分けると、なんだか自然界に存在するもので白っぽく舞い散ってくる季節のもの、と考えると、これらに大きな違いはない。

心理学用語に、「ピリッツオン効果」というものがある。簡単に言ってしまうと、この世の万物は分類によって分けられているという話で、その分類の広さによって、同じものとそうでないものに分けられているという話だ。

2つのリンゴがあるとしよう。これらの「リンゴ」はリンゴという分類においては同じくくりである。しかし、「甘いリンゴ」という分類で見たら、この二つは同じでない可能性がある。「直径が12.6センチのリンゴ」という分類にすると、片方がそれを満たしていたら、もう片方はおそらくその分類から漏れ、違うものになる。さらに、構成する分子の数が〇〇個のリンゴ、となすれば、これはもう同じ分類に入るものを探す方が難しくなる。

逆に、リンゴとオレンジがあったとしても、これはもう別物であるが、それはあくまでも「リンゴ」という分類で見るからであって、「果物」と分類を広げればそれは同じ分類になりうる。もっと広げて「食べ物」という分類にすれば、かなりの数のものが同じ分類に入る。結局、万物の同一性は分類の広さの多寡によって決まるだけで、そこに本質的な意味合いはない。都合良く分類を変えて同一性を担保して思考を進める、もしくは、同じものを異種のものであると仮定して思考を進めるやり方をピリッツオン効果といいい、主に思考実験の場で用いられる。

つまり、先ほどの、舞い散る雪と桜の花びらもピリッツオン効果で分類を広げれば同一なものとみなすことができるのだ。柿本は万葉集の時代から既にそれが分かっていて、歌に詠んでいるくらいなのだから、どれだけ先見の明があったのか、という話なのである。

そして、この雪降桜的なピリッツオン効果の考え方は、この閉塞的な現代社会を幸せに生き抜くためのヒントが隠されている。

 僕らは多くの場面で不幸せだと感じている。全てにおいて幸せであると感じて何の悩みもなく能天気に暮らしている人は単なるバカだ。みんな何かしら不幸だと感じているし、悩みを持っている。ただそこに考えが至らずに自分だけが不幸だと考えることを行動心理学的に「不幸性バイアス」という。これは考え方としてあまりよくない。

例えば、我が職場では毎年大花見大会があるのだが、これは全職員一致というわけではなく、ある程度のグループに分かれて開催される。当然ながら、話題が豊富で軽妙なトークをする僕は複数のグループから誘われてしまい、少し困ってしまうことになる。どこのグループで花見に参加するか、と迷ってしまうのだ。できることなら全てのグループに参加したいが、そういうわけにはいかない。あちらを立てると、こちらが立たず、僕としてはなるべく若い女性がいるグループに行きたいが、あからさまにそれをするのもエロい。悩んでしまってどうしようもない状態に陥ることがある。僕を巡ってちょっとしたグループ間の派閥争いみたいなものに発展し、板挟みになる僕はなんて不幸なのだろうと思うのが毎年のことだ。

けれども、そうやって悩むことは実は本質ではない。確かに、各グループ、それどころかグループ内の各個人というくくりでみると、どのグループに人気者の僕が行くのかは問題である。しかしながら、各グループではなく、分類を上げて、職場の花見、日本人の花見、人類の花見とくくりを大きくしていけば、これはもう、地球上のあらゆる人と花見をするのと同じ効果になる。つまりは、どこに参加してもきっと納得してもらえるはずなのだ。世の中には職場の花見に読んでもらえない人もいるという話を漏れ聞いたこともあるが、その人たちも、大きなくくりで考えれば、自分個人は誘われていないが、人類の誰かが誘われたのならば、これはもう花見に誘われたと同じことなのだ。幸せに生きるヒントはきっとそこにある。

東京地方の桜は、もうほぼ満開だ。満開の桜を見て、逆にこれが雪だったらどうだろうか、と考える。雪降桜には雪が桜のようだったという意味と、もう一つ、桜の花びらが落ちてくる様がしんしんと降り積もる雪のようだという、裏側の意味もある。きっと、これが雪でも綺麗なことに変わりないし、楽しく花見をできるのである。

どんなことでも、考えるくくりを広くすれば、解決してしまうのである。満開の桜の下に舞い散る桜の中で、僕はこれが雪の粒であると思うことにした。それが幸せへの近道なのである。今日の文章は何から何まで全てが嘘で構成されてます。