誕生日を緑色の水槽に詰め込んで

誕生日はめでたいものなのか、という点は十分に議論の余地がある。

例えば幼い子供が年齢を重ねるということはそれはそれで嬉しいものである。無事に一年を過ごすことができたという点で誕生日を祝うことになんら疑問はない。幼子の誕生日を祝う行為は、親自身も無難に一年育て上げたと喜び、確認する意味合いが強いのではないか。

ただ、ある程度成長した段階、それこそ十代後半くらいになると様子が一変する。別にそれくらいになればほっといても1年生きる。無事もくそもない。確認もくそもない。もうこれくらいになると誕生日にかこつけて自分に注目してほしい意味合いが強くなる。

さらに中年になるとどうだろうか。年齢を重ねると体のいたるところにガタがくる。それは年を重ねるごとに深刻になるだろう。そういった不具合の発生確率が上がっていく誕生日を祝う行為は皮肉でしかない。工場で、不良品の発生確率が上がったら皆でお祝いをするようなものだ。

これが80歳とか90歳、場合に100歳だったらどうだろうか。刻一刻と死が近づいてきている。まるで死神が階段を上るように誕生日ごとに死というものが現実的になってくる。祝っている場合ではない。ただし、この辺になると今年も無事に生きられた、という確認の意味合いも強くなってくる。

結局、誕生日なんてものは幼子のそれと、死にかけの老人、それらが1年間を無難に乗り越えられたと確認する以外はほとんど無意味だ。ただ単に誕生日にかこつけて自分に注目してほしいだけじゃないか。

何歳であろうと年齢を重ねることは喜ばしいことじゃん、それを祝って何が悪い、という意見もあると思うがそれも理論が崩壊している。法律的には年齢を重ねるのは誕生日の前日だ。ならば誕生日前夜を盛大に祝う必要があるのだ。やはり、誕生日を祝うという風潮は、もうあまり意味をなしていないように思うのである。特に、僕のようなオッサンは。

あれは何年前だっただろうか、僕の誕生日に事件は起こった。その日は労働時間の調整で遅く出社することになっていた。時間が違うだけでこんなにも風景が違うのかと新鮮な気持ちで職場に向かうと、なにやら様子がおかしい。ひっそりとしている。まるで全員が死んでしまったかのようにオフィスから生気が感じられない状態だった。

今日は休みだったかな?そう思いながらドアを開けると、なにやら歌が聞こえてきた。

「ハッピバースディトゥーユー」

囁くように歌が聞こえる。その声量は徐々に増えていき、合唱へと変貌していった。サプライズパーティーだ。そういえば、僕の誕生日だ。おいおい、そういうのよしてくれな、って思いつつ、僕はある一つの事件を思い出していた。

「今日は魚たちの誕生日だよ!」

その絶望の言葉がずっと頭の中でこだましていた。

そう、あれは小学校の時だった。誰かが家でいらなくなった魚を教室に持ってきたんだ。みんなで飼おうって言いだして水槽に周辺機器まで全部セットで持ってきて、担任の先生までテンション上がって、即、飼うことになった。

それに困ったのは僕で、この教室には生き物がいない、という打算の元、電撃的に生き物係に就任したのに、その任期途中で本当に生き物が来てしまったのだ。ただ、あまりに存在感がなかったのでみんな僕が生き物係だということを忘れていて、世話を押し付けられることはなかった。本当にありがとうって伝えたい。

最初はクラスのアイドル的存在だったその魚も、次第に興味が薄れてきて放置されるようになってきた。ちょっと水槽の中も汚れてきて、中には何がいるのかもよくわからない状態になっていた。

長期休暇に入る時だった。休みの間は学校に入れないので誰かが水槽ごと持って帰って世話をしなければならないという話が持ち上がった。当然ながら、あんな得体のしれないコケの塊みたいなもの持って帰りたくない。

そこで誰かが僕が生き物係だったことを思い出した。あれよあれよという間に拒否する間もなく、その水槽を押し付けられうことになった。あまりに重いので親に電話して車で迎えに来てもらったのをよく覚えている。

魚の世話をした。生き物係の職務を全うすべく、必死で世話をした。魚が死んだ。すげえやべえなって思った。みんなの興味の対象ではなくなった存在とはいえ、殺したとなると完全にやり玉に挙げられる。どうするべきか、正直に殺してしまったと申し出て学級裁判にかけられるべきか。

迷った僕は、知らないふりをすることにした。どうせ誰も見向きもしない水槽なのだ。黙っていたって覗き込むものはいない。もう空っぽで持っていこう。庭に墓をつくって丁重に魚を埋葬した後、中の水も捨てて空っぽの状態にした。

水槽の壁にはコケがびっしりと覆い茂っていたので傍目には空っぽとはわかりづらい。どうせ誰も蓋を開けて覗き込まない。これでいける。そう思った。ただバレたときに空っぽなのはあまりにバツが悪い。それだったら庭にあったカマキリの卵を何個か入れておこうって思った。これなら、何らかの間違いで魚がいないってバレても、すげえでもカマキリの卵じゃんって男子を中心に盛り上がると思った。

それから月日は流れて、僕の想定以上に水槽を覗かれることはなかった。このまま完全犯罪成立かと思われたある時、僕すらもその存在を忘れていたとき、魚を持て来た女子が言い出した。

「今日は魚たちの誕生日だよ!私が持ってきた魚の誕生日なんです。みんな祝いましょう」

余計な事を言いやがる。普段見向きもしないくせに、なぜか誕生日だっていって注目しやがる。みんなで駆け寄ったコケだらけの水槽はまさにパンドラの箱だった。

むっちゃ小さいカマキリいっぱい出てきた。阿鼻叫喚の生き地獄。クラス中がパニックになった。女子とかむっちゃ泣いてた。担任は、人ってここまで半狂乱になれるんだ、と膝を打つほどの状態になっていた。

「ハッピバースディトゥーユー」

普段見向きもしないくせに誕生日だからって注目するとろくなことにはならない。オフィスに響き渡るハッピーバースデーの歌に、そんな記憶が蘇った。

僕はあの時忘れ去られた魚だ。普段は見向きされなく、存在すら忘れ去れれて苔生しているいるのに、誕生日だからって注目される。それはきっとろくなことにならない。

「ハッピバースディ」

でも悪い気はしない。きっと誕生日とは自己の確認なのだ。この年になると、別に無事に育ったことを確認されるわけでもなく、まだ生きていることを確認されるわけでもない。別にめでたいわけでもない。ただ、誕生日にかこつけて自分はここにいるよって確認するに過ぎないのだ。いうなれば祝ってくれる人たちは確認の手伝いをしてくれているのだ。そんなに悪い気はしない。誕生日を祝うことは必要なのだ。

「ハッピバースディディア、アカリさん」

「ハッピバースディトゥーユー」

サプライズパーティーは、僕と同じ誕生日のアカリさんのものだった。アカリさんは俺と誕生日が同じだったのか。おめでとう。

同じ誕生日なのに祝われないどころか、なぜかサプライズパーティーの計画からも外されるというとんでもない状態に。やはり誕生日なんて何もめでたくない。絶対のそのうち、このオフィスにカマキリの卵持ち込んでやる。