リスペクトがないなら書くべきではない

文章を書く上で一番大切な気持ちはリスペクトだと即答できる。

多くの文章は何かの対象に向かって書く。そこで、誰かを笑わせたい、楽しませたいという動機で書くのならば、やはりリスペクトは必要だ。これは「面白い、楽しい」と「リスペクト」の親和性が高いことに起因する。

つまり、SNSの運用の項目において「誰が書いてるのか」が重要な時代になっていると述べたが、リスペクトのない傍若無人な人間が書いた文章を楽しめるのか、という問題になるのだ。そういった技法もあるにはあるが、かなり高度だし、諸刃の剣であることは理解しておいた方がいい。

 

 

例えば、これは醤油100本をレビューするという、ちょっと正気とは思えない記事だが、なぜ「タコの刺身にあう」という観点で述べているのかわかるだろうか。多分わからないと思う。

この記事は、延々と醤油を味わいながら別の軸を持った物語が展開していく。ある意味、純粋な醤油レビューではなく、お遊びの要素が徐々に記事を侵食していく。そこで、醤油を完全に脇に追いやってしまうことを僕は良しとしない。

醤油1本を考えると、多くの人が一生懸命に汗を流して作り上げているはずだ。そういった物作りの気持ちをないがしろにしてはいけない。なので、この記事ではどんなにお遊び要素が侵食してこようとも、ほとんどの人が読み飛ばしそうと予想できても、しっかりと手を抜くことなく最後まで醤油をレビューしている。

さらに僕は絶対に「まずい」と書きたくなかった。勘違いしてはいけないのは、別に「まずい」と書いてもいいのだ。ただ、それは真剣に向き合って感じた時に書くべきだ。少しでもお遊び要素がある記事で書くべきではない。お遊びのついでに「まずい」と言われた醤油、それに携わる人の気持ちはどうなるだろうか。

醤油を作る人、それに携わる人をリスペクトすればするほど、僕の姿勢で「まずい」とは書けない。少なくともこれが分からない人間は文章を書くべきではない。

では、「まずい」と書かないためにどうするか。何でもかんでも美味いとかく記事にそこまで価値はないのだ。そこで登場するのが「タコの刺身にあう」という観点である。これなら「タコの刺身には合わない」という判定がもたらされる。醤油自体は美味いけどタコの刺身には合わない、となる。

僕の知る面白い文章を書く人はみんな対象にリスペクトがある。だからこそ愛のある面白いものが作れるのだろうと思う。