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源さんとロックフェス




源さんは突然言い出した。

彼の名前はたぶん源さんではない。いつも丸の中に源と書かれた意味不明なシャツを着ていたから常連たちの間で勝手にそう呼ばれていただけだった。そんな彼が、まるで選手宣誓のようにして居並ぶ常連たちに高らかに宣言した。

「俺はロックフェスに行く」

その宣言に誰もが震えた。

ここはパーラーヴィクトリー、その片隅の世を憚るような小さな入り口に開店を待つ行列が形成されていた。当時はHANABIというスロットが非常に熱く、僕は大学をさぼって毎朝このパーラーヴィクトリーに並びに来ていた。行列の面々は完全に常連で、依存症のババア、どう好意的に解釈しても絶対に盗んだとしか思えない自転車で乗り付けるジジイ、来る途中でアラブ出身の天狗と戦ったと平然と言ってのける虚言癖の若造、大学をさぼりすぎて仕送りを止められた大学生(僕)というメンツで、店の名前はパーラーヴィクトリーなのに、そこにヴィクトリーを手にしたやつは誰もいない、というなんとも皮肉な状況が生まれていた。

その中でも源さんは最もヴィクトリーから遠く、もういい歳した爺さんで孫とかに囲まれていてもおかしくないというのに、パチンコにのめりこむあまり妻や息子が逃げ出したのはもちろんのこと、かわいそうだと拾ってきた野良猫すら4日で逃げ出したという逸話を持つ剛の者だ。

「兄ちゃん、今何時だ?」

源さんはいつもそう言って列に並ぶ僕に話しかけてきた。

「あと5分で開店ですよ」

僕は腕時計を見てそう答える。

「そっか、やっぱこの時間が一番ワクワクするな」

こういった会話が交わされるのだけど、別に源さんは時間を気にしているわけではない。僕に時間を訊ねるふりをしつつ、しっかりと行列に横入りするのだ。

しばらく談笑していて、いよいよ店の奥から店員が出てきて開店は近いという雰囲気が流れてきたとき、源さんが列を離れて声高らかに宣言した。

「みなさん、お聞きください!」

僕を含めた常連たちは「またか」と思った。どうせ源さんの引退宣言である。「私は今日限りでパチンコを引退します。思えばパチンコで家族を失いました。家も失いました。でもまだ取り戻せると思うのです。だから今日限りで引退します」僕らはこの宣言を少なくとも8回は聞いている。その宣言の次の日にはしっかりとちょっとさわやかな顔をして「いま何時だ?」って行列にやって来るのだから、もう誰も信じなくなっていた。

どうせまた偽りの引退宣言だろう、そう思って聞き流していると、源さんは言った。

「俺はロックフェスに行く」

そうか、ロックフェスに行くのか、僕はそう思ったが、悪いことにその瞬間に開店したため、皆は狙い台に一目散。誰も源さんの話を聞いていなかった。

狙っていたHANABIも不発に終わり、そろそろ家に帰ろうかと待合ロビーに視線をやると、源さんが直立不動で立っていた。まるで悪いことをして立たされている子供のように、ただ立っていた。源さんは自分を戒めるためか、パチンコに負けるとこうやって自らを罰するように立っていることが多くあった。

「今日はどれだけ負けたの?」

源さんにそう話しかけると、源さんは言った。

「俺はロックフェスに行く。パチンコはもうやめだ」

もはや会話が成立していなかった。

次の日も、行列に源さんの姿があった。声高らかに「ロックフェスに行く」と宣言する源さんに、常連たちは震えた。ついに来るべき日、Xデーが来たと震えた。これまでに訳の分からないことを言いだすことは多々あったが、それはある程度間隔が空いていた。ただ、ここにきて二日連続での狼藉。ついに源さんがボケたと確信した。

「あーよかったね、是非とも行ってください」

依存症のババアは子供に言い聞かせるように源さんをあしらった。

「ロック?ロックの神様はジミヘンだろ。さっきサイゼリアの所にいたよ」

虚言癖の若者は、嘘すぎて逆に清々するレベルの大胆な嘘をついた。

源さんへの対応が非常に面倒だという空気が蔓延し始め、なぜか僕が源さんの話を聞くことになった。HANABIが不発に終わり待合ロビーに行くとやっぱり源さんは直立不動で立っていた。

「なんでロックフェスなの?」

そう問いかける僕に対し、源さんは直立不動のまま熱弁しだした。どうやら深夜に何気なくテレビをつけたら、アメリカのロックフェスの特集をやっていたらしく、いたく心を奪われてしまったようだ。そして、自分の人生はここにある、そう思ったらしい。

「俺の人生、ゴミくずみたいなもんよ、嫁にも子供にも逃げられた。孫ができたって連絡すりゃありゃしねえ、死んだことにされてんだ。拾ってきた猫にも逃げられるしな」

源さんは寂しそうな眼をしていた。

「人は後悔を抱いてい生きている。後悔ってのは迷いだ。ああすればよかった、こうすればよかった、そう思うのは簡単だが、現実と理想の境目には大きくて固いブロック塀があるんだ。人はそのブロック塀に悩まされる。それをぶっ壊すのはロックだと思う。いいやロックしかない。ロックこそが、俺の後悔を打ち消してくれるんだ!」

源さんの話を聞きながら、声をかけたことを激しく後悔した。すげえ面倒くさい。なるほど、これが人生におけるブロック塀ってやつか。これを壊すにはロックしかないのか。

「ロックフェスってやつにいきてえんだよ、テレビで見た、あれこそが俺の後悔を打ち壊してくれるんだ!」

懇願する源さんの、ノーとは言えなかった。結局、僕が調べて近場でありそうなロックフェスを探し出し、チケットを入手する、ということで話がまとまった。

ロックフェスを調べる、今でこそスマホなんかでちょちょいのちょい、簡単にチケットなんかもとれる時代だが、当時はそこまで全ての情報がネット上にあるという時代ではなかった。むしろネット上なんてアングラそのもので、ヒ素カレーのコラージュ画像で盛り上がってるような時代だった。

また、今では全国各地でロックフェスが多数開催され、明かりに集まる小さい虫のように皆で盛り上がったりするのだろうけど、 僕の記憶の限りでは当時、日本国内ではそこまで盛んにロックフェスが開催されていなかったように思う。

調べるのが死ぬほど面倒で、おまけに結果も全然出てこない。はっきり言って投げ出したかったけど、源さんが「人生を取り戻せる」とまで言ったロックフェスだ。なんとかしてあげたかった。

片田舎に唯一存在するプレイガイド的な場所に行って探してみるも、やはりロックフェスのチケットはなかった。時期も悪かったかもしれないが、やはりそんなに盛んじゃなかったのだと思う。もう本当に面倒で面倒で、とにかく腹が立ってきて、源さんはロックフェスで人生取り戻せる、猫も帰って来る、そう言ったけど、そんなわけあるかと怒りがこみ上げてきた。そんな時、あるチケットが目にとまった。

「世界の名品が大集合!即売会あり!珍品名品大集合!一流の腕時計が揃い踏み、クロックフェスタ」

都市部のデパートの催事場で催されるらしいこの腕時計の祭典、これはよく見ればロックフェスである。クロックフェスタだ。300円の券が安くなって220円になっていたのですぐに買った。もうこれでいいやって思った。源さんに渡した。源さんはすごく喜んでいて、これで猫も帰って来る、そう言った。

「明日は俺、ロックフェスに行くからパチンコ休むからな」

そう言った源さんの笑顔が僕の心を締め付けた。源さんにとってパチンコが仕事的な位置づけで、休むという表現を使われたこともショックだったし、それはロックの祭典ではなく、腕時計の祭典なんだ、と言えなかったことも心苦しかった。僕は心の中でロックの神様、ジミヘンに謝罪した。

二日後、源さんの腕には新しい腕時計が光っていた。

「テレビで見たのとは違ってたけど、最高のロックだったぜ」

そう言って腕時計を見せびらかす源さんに「それはクロック」とは言えなかった。

人は後悔の中に生きている。ああすればよかった、こうすればよかった、そんな思いが後悔となる。ただ、腕時計の針を巻き戻すように時間が戻るわけではない。妥協点を探し出し、それを未来に繋げるべきで、それがロックなのだ。そう言った意味で前に進んだ源さんの腕時計は本当にロックだったのだ。

「今何時だ」

朝の行列で源さんがそう訊ねてくることはなくなった。逆に「あと3分で開店だぞ」とご自慢の腕時計で教えてくれるようになった。前向きな源さんの姿がそこにあった。そして、源さんの家に本当に猫が帰ってきたらしい。

「腕時計様様だよ」

そう言う源さんの顔は、この店で唯一ヴィクトリーを手にした男の顔だった。

後悔と共に生きてはいけない。時計の針は戻らないのだから。

濡れたコースターとパステルピンクの彼女

人通りのまばらなアーケード通りは、まだ昼間の熱気が少しだけ残っていて、その場の空気を引き締めてくれるスパイスのように感じた。

遠くから聞こえる喧騒に混じった、信号機が青を伝える機械音は規則的で、まるで1秒ずつカウントダウンしてるんじゃないかって思わせてくれた。僕はそのカウントが進むたび、なんだか蜃気楼の中心に立っているような。そんな気がしていたんだ。

アーケード通りの少し奥まった場所に友人と立っていて、とりとめのない話をしながら待っている。けれどもやっぱり心は高鳴っていて、この繁華街という砂漠の中で蜃気楼を見て喜んでいるような、オアシスの幻影を見て心踊ろしているような、そん気持ちがしていたんだ。

「お、きたきた」

友人の一人が、遠くに向かって手を振った。横一列にパステルカラーの何かが並んでいた。女の子たちだった。

「紹介するよ、こちら、俺がバイト先で知り合った女子大のみなさん。みんな幼稚園の先生とかの勉強してるんだっけ?」

「よろしくおねがいしまーす」

また遠くから信号機の機械音が聞こえた。今度は1秒間隔よりずいぶんと早い、8ビートのリズムのように聞こえた。

少し洒落た居酒屋に8つのコースターが並ぶ。右側に四人、汚い男たちが座って、左側に四人、パステルカラーの女性たちが座った。

「よろしくおねがいします。大学では何の勉強されているんですか?」

僕の目の前に座った、パステルピンク担当の女性は、にっこりとほほ笑んでそう言った。僕は気が動転してしまって「常微分方程式を勉強しています」とあまりよく分からない供述をしていた。まさか大学さぼってサンダーVを毎日打ってますとは言えなかった。

パステルピンクの彼女は、少しだけお酒を飲んでニコリとこちらに微笑んだ。

僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。

不思議と、幸福な気持ちや舞い上がる気持ち、なんてものはなかった。むしろ逆に怒りがこみ上げてきたんだ。世の中の多くの男女が、恋だなんだと、こんなことをやっていたのか。こんなに浮かれてしまい、まるで無敵になったような、こんな気持ちをいだいていたのかって。サンダーVの3連Vで喜んでいた自分が妙に幼稚で恥ずかしいものに思えたんだ。

全体的にぎこちなかったこの会合も、時間の経過と共に少しづつほぐれてきて、活発に会話が交わされるようになってきた。

「誰かに似てると思うんですよ。いわれません? 誰々に似てるとか」

パステルピンクの彼女はそう言った。僕はすぐさま

「よく言われるのは、親父かな。親父に似てるって言われます」

彼女は親子だから当たり前じゃん、といった表情で笑った。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。そして怒りを覚えた。みんなこんな楽しいことをやってたんだって。

それからしばらくして、友人が声を上げた。

「そろそろ席替えします!」

席をシャッフルしようという提案だった。僕は少なからず動揺した。パステルピンクの彼女が僕の目の前の席からいなくなってしまう。焦燥感のようなものが芽生えていた。誰にもとられたくない。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。そして怒りを覚えた。みんなこんな苦しくも楽しい感情に身を任せていたんだって。

「一応、希望は考慮するんで隣になりたい人とかいたら教えてください!」

そう言った友人の言葉に、僕がまごまごと迷っていると、すぐさま反応して彼女が手を挙げた。

「わたし、彼の隣がいい」

そう言って僕を指さし、僕と目が合うと少しだけいたずらに笑った。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。

彼女が隣にやっていきて、いい匂いがした。他のみんなもすごく盛り上がってきて、おまけに隣のテーブルにパワハラサラリーマンの集団みたいなのがやってきて、一気に店内が騒がしくなった。

常微分方程式が……」

「え!? なに!?」

僕の声が聞こえないのか、彼女がすっと顔を近づけてくる。長い髪が僕の肩に触れた。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。もっと彼女のことを知りたい。ただ純粋にそう思った。

「お名前、なんていうんですか?」

僕がそう質問すると、彼女はさらに顔を近づけてきた。

「XXっていいます」

でも、隣のテーブルが盛り上がりすぎていて、彼女の名前が聞き取れなかった。

「え!?」

「XXっていいます」

 もし聞き取れたとしても、聞き取れないふりをしたほうがいいかもしれない。そう思うほどに彼女は顔を近づけてきた。また、柔らかな匂いがした。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。

「XXです」

あまりに聞き取れなさ過ぎて焦ってきた。わざとやってるんじゃないかって思われたらどうしよう、頼むから静かにしてくれ、そんな思いとは裏腹に、隣のグループはさらに盛り上がっていた。

彼女は何かを思い出したように小さなバックに手を入れ、ペンを取り出した。そしてキョロキョロと見回すと、半分ほどビールが注がれていたおしゃれなコップを手に取った。

そのままその下にあった少し濡れたコースターを手に取り、裏面に何かを書き始めた。きっと彼女は聞き取れないことを察して、文字で書いてくれたのだろう。もしかしたら連絡先くらい書いてくれるかもしれない。心が躍った。僕はその時思ったんだ。恋の始まりってこういうものなんだって。

「はい」

彼女は笑顔でコースターを差し出してくれた。コースターはグラスの水滴を吸って少しだけ濡れていた。裏面を見る。

「カエ」

かわいらしい字でそう書かれていた。ちょっと珍しいけどかわいい名前。

残念ながら連絡先は書かれていなかったが、かわいらしい字だった。ただちょっと字が汚かった。なんだか胸が高鳴った。このコースターに書かれた彼女の名前が、この騒がしく品のない空間で特別に交わす僕と彼女のピュアな暗号みたいで、すごくドキドキしたんだ。恋の始まりってこういうものなんだ、恋を大にしてみんなに教えてあげたい気持ちだった。

ただ、僕はその時すごく動揺していたんだ。どうしていいのか分からなくて、心臓の鼓動も、背中の方の体温も、今まで経験したことがないような状態になっていた。あと、ちょっとお腹が痛かった。

彼女の字が汚かったのもあっただろうけど、動揺して、おまけにかっこいいと勘違いしてメガネをしていかなかったのも原因だったかもしれない。すごいことが起こったんだ。

「カエ」と書かれた彼女の名前を「力士」って読んだんだ。

「リキシって変わった名前だね」

僕がそう言った瞬間だけ、隣のサラリーマンも、他のメンツも、店員も、もしかしたら通りの信号機すら、まるで霊が通った時みたいにシーンとなったんだ。

彼女はリキシじゃないってジョークっぽく笑っていたけど、そのあと、目すら合わせてくれなくなったんだ。僕はその時思ったんだ。恋の終わりってこういうものなんだって。

皆は二次会のカラオケにいくらしい。僕は一人、下宿のアパートにバスを乗り継いで帰る。

「力士はないよな」

そう呟いた僕の横で、少しだけゆっくりめに信号が青を告げていたんだ。きっと、あれは蜃気楼みたいなもんだったんだって思うようにしたんだ。もうすっかり昼間の熱気はなくなっていたんだ。

 

茶番劇は眠らない

とんだ茶番劇なのだけど、職場の会議であらかじめ台本が決まっていることがある。ちょっと天の上の人なんじゃないのってレベルの偉い人が来る会議で多いのだけど、意見を戦わせてブラッシュアップする、という会議が持つ本来の意味をはきちがえた完全なる予定調和がそこにあったりするのだ。

それは安心なのかもしれない。現代に生きる人たちは安心を求めがちだ。僕だってテレビを見ていてムカつく人物が登場してきたら、すぐにツイッターなりなんなりを確認する。多くの人が「今の人、なんかむかつかない?」みたいなことをリアルタイムでネットに書いているのを見て、ムカついていたのは僕だけじゃないんだと安心する。僕らは不快感を共有することで安心を得ている。これがネット時代の安穏な生き方なのだ。

皆で共有することは安心を生む。つまり、この会議も、別に意見を戦わせる必要なんてなくて、ただ決められた流れに沿ってさも意見を戦わせているように見せ、それを皆で共有して安心するのだ。言うなれば儀式に近い。

偉い人がやってきた。台本が配られる。どうやら今日の僕の役回りは、少し攻めた意見を言いつつも、最後は納得して矛を収めるものらしい。これはなかなか演技力が求められるぞ。納得する部分の、自分の中の考えを変えて賛成に転ずる葛藤をいかに表現するか。

いよいよ会議が、いや儀式が始まった。僕もはりきって

「そこにはどんなビジョンがあるのでしょうか?」

とか発言している。別にビジョンなんて気にならない。でもそう書いてる。

ここで挙手し「そこにはどんなビジョンがあるのでしょうか」と発言

 って書いてある。それを読んでいるだけだ。

滞りなく儀式が進行していく。雲の上の偉い人も満足そうだ。いよいよ佳境になってきて僕がずっと反対っぽい感じの意見から賛成に転じる部分がやってきた。クライマックスだ。

「なるほど」と納得

 と書いてある。完全なる茶番劇なのだけど、心を込めて演じていると、本当にこの意見に反対だったのにみんなの熱意にあてられて賛成した感じになってくるから不思議だ。ひよっこだと思ってたお前らが俺を説得しきるとはな、今日は俺の負けだよ、みたいな気持ちになってくる。

そしてついに物語は最高潮に達する。ついに僕が意見を変え、皆の気持ちが一つになる。そこに進行役が、僕に向かって「では協力していただけますね」と問いかけるシーンだ。ここで僕が元気に返事をし、明日への希望みたいなものが演出されていい気分で儀式が終わる。ちょうど夕陽がきれいで、ブラインドの隙間からオレンジ色の光が漏れ出してきている。絶好のシチュエーションだ。台本にはこう書いてある。

ここで司会者の問いに対し「てはい」と返事をする

 一瞬、何のことか分からなかった。

台本通りならこういう流れになる。

 

司会者「では協力していただけますね」

僕「てはい」

 

完全に狂ってる。絶対にちょっと安い葉っぱとかしてる。

どうやら台本作成時に間違ったようで「」の位置がずれている。正しくはこう書きたかったのだろう。

ここで司会者の問いに対して「はい」と返事をする

 これならさすがに僕も狂っていない。ここは台本を無視し、「はい」と答えるべきだ。しかし待ってほしい。ちょっと待ってほしい。

儀式のような会議とはいえ、台本があるということは必ず脚本家がいるということだ。たぶん係長なのだろうけど、そういった脚本家の仕事を無視して勝手にセリフを変える、これはまりに敬意が足りないのではないだろうか。そもそも、「てはい」が間違いであるという事実は僕の勝手な思い込みだ。もしかしたら脚本家の意図は別なところにあるのではないだろうか。

 

司会者「では協力していただけますね」

僕「手配」

 

こう答えるとすでに協力体制にあり、もう会議中だというのにタブレットであらゆる業者に手配を済ませたみたいな感じなる。完全に仕事のできる人間だ。反対はしていたけど、ひとたび納得すればフルパワーで協力する。すげえかっこいい。なんか忍者っぽい。そういう役を僕にやらせようという意図か?なるほどねえ。そういう演出。くぅ~やるねえ。危うく勝手に変えるところだったよ。俺たち演者が脚本家を信じられなくなったらおしまいだよ、おしまい。

ついに儀式は問題の部分に差し掛かった。

司会者「では協力していただけますね」

僕「てはい」

頭のおかしい男がそこにいた。

その儀式の後、同僚のスマホがピコンピコン言っていたのでちょっと見たら、「今日のあいつなにあれ?狂ったの?」みたいなことをたぶん職場ライングループで書かれていた。みんな不快感を共有している。それを見て僕もちょっと安心した。

 

 

愛してると言ってくれ

随分前に、フランスのロワイヤル氏に関するニュースが報じられれた時かなんかに、ネットニュースの見出しが「仏ロワイヤル氏が」となっていて、これは仏ロワイヤルだ!と仏たちが生き残りを賭けて離島で殺しあうストーリーをMixiで書いていたときでした。確か、愛染明王が物語のカギを握っていたのですけど、いいペースで執筆を進めていると、ある文章が回覧板のごとく回ってきたのです。

ある男子と女子がバイクで出かけてると…
彼女が「スピードが速いよ。スピード落として!!」
彼氏が「なに、怖いの??」
彼女が「すごく怖いスピード落として」
彼氏が「OK、でも愛してるって言ったらね!!」
彼女が「愛してる、愛してるだから今すぐスピード 落として!!」
彼氏が「もちろん、でも強く抱きしめて、一度も したことのない強さで抱きしめて…」
びっくりしてる彼女は言われたとうりにして言った。 彼女が「お願い今すぐスピード落として!!」
彼氏が「わかった、でも俺のヘルメットを取って お前がかぶったらな」
彼女は彼氏のヘルメットをかぶった
彼女はまた言った
彼女が「スピード落として!!!」
次の朝のニュースで
昨日の夜に若い男女がバイクで事故に合いました 。
二人うち一人が亡くなったこと
その前に彼のこと話そう
彼氏が「ただ彼女が助かって欲しかった…」
彼は気付いてた
彼女にスピード落として、と言われる前から
バイクのブレーキがきかないことを…
それで彼は彼女に頼んだ 愛してるって言って
そして抱きしめて欲しいことを
彼はこれが最後になることを知ってたから
そして彼女にヘルメットかぶらせて助けたかった
自分の命を犠牲にして
同じことをしますか?
大切な人がいなくなるまで待たないで
そして自分にとってとても大切な人だと伝えなく なるまえに
今日誰かを幸せにしてください

 これが泣ける感動話として回ってきたわけです。ちょっと普通に読んだだけでも3000か所くらい突っ込みどころがありそうで、例えば、「ヘルメット、お前がかぶったらな」の部分なんて、バイクに乗るのに彼女をノーヘル、自分はがっちりヘルメットって酷い話ですし、そもそもバイクってのは前輪と後輪でブレーキがわかれています。両方が突然効かなくなるってことはそうそうありません。4万歩譲って効かなくなったとしても、ギアを下げて行ったりすれば容易にエンジンブレーキがかかります。つまり、いくら読んでも感動できず、なんでこんな事態になってしまったのか、という部分ばかりが気になるのです。

でもね、そういうのを突っ込むのってけっこう野暮だと思うんですよ。デスノート読んで、どういう理論で名前を書かれた人が死ぬなんてことが可能なんだ、材質は?KOKUYO

とかそういうのばかり気にしてる訳ですから、まあ野暮といえば野暮です。

「この話はバイクに乗ったことない人が安易に感動話を作った」

そう断じてしまうことは簡単ですが、それでは世界が広がりません。もしかしたら、この文章には僕たちが気付かないだけでかなり深い意味が隠されているのかもしれません。ということで、今日は、あらゆる側面からこの文章を解体してみたいと思います。

 

①彼氏狂言

このストーリーは、最後の締めの部分を読んでもわかる通り、自分を犠牲にして大切な人を守る、という主題があります。つまり、普通に読み解けば、なぜかバイクのブレーキが利かず、おまけに彼女のヘルメットはどこか次元の狭間に消失しており、アクセルは全開から微動だにせず、ギアも変えられない、そういった状態に気付いた彼氏が、なんとか彼女だけを助けようと画策したところに感動ポイントがあります。

はたして、それは正しいのでしょうか?

これを読み解くのに重要な一文があります。

彼氏が「ただ彼女が助かって欲しかった…」

事故後に彼氏のコメントが出ているところに注目です。

二人うち一人が亡くなったこと

とニュースで報じられたとありますから、二人のうち一人は確実に死んでいます。どんな事故だったのか分かりませんが、ヘルメットが亜空間に消滅し、バイクがどんどん加速していく状況では、亡くなったほうは即死であると考えるのが普通でしょう。つまり、助かったのはコメントを残している彼氏、亡くなったのは彼女、となります。多くの人は彼氏が自己犠牲で彼女を救ったと受け止めますが、それでは多くの矛盾点を説明できない。ちなみに二人乗りのバイクが事故した場合、後ろの座席のほうが死亡率が高いようです。

死人に口なし、という言葉があります。つまり、彼女のためにヘルメットを渡した、愛してると言ってもらった、抱きしめてもらった、この辺は彼氏の狂言である可能性が非常に高い。さらには、ブレーキが効かなくなった、スピードが落ちなかった、などのバイクの不具合も彼氏の虚言である可能性が高い。そうなると、バイクはブレーキがわかれているから~みたいな突っ込みも無意味なものとなる。なにせ彼氏の狂言なのだから。

つまり彼氏は彼女を殺したい理由があった。それはやはり男女の仲なので色々とあるだろう。彼女がもう心変わりをしてしまっていて、別れようと切り出されたかもしれない。他人に取られるくらいなら壊してしまおう、そう考えたかもしれない。

最後に一度、付き合い始めの時のようにバイクに乗ろう。

そう言って誘ったかもしれません。そして、どんどんと加速していく。彼氏は言った。愛してるといてくれ、強く抱きしめてくれ、そうすることで思い止まれると思った。怖がる彼女は言われるままに従った。けれども、その言葉にも温もりにも、もう心がないことを知ってしまった。決意は変わらなかった。それが最後になると知りながら、さらに加速させていく。彼はどんな気持ちだったのでしょうか。それは僕にもわかりません。何にせよ、殺人者の気持ちなんて分かりたくもありません。ただ一つ、とても空虚な何かであろうことは想像できます。

そして、ついに、バイクはブロック塀へと衝突した。自分だけ、その寸前で飛び降りる彼氏。遠くから救急車のサイレンが聞こえた。心変わりをした、もうそこに心のない彼女が横たわっているのが見えた。

こういった計画的殺人が美談として語り継がれる恐怖。世の中にはそういうことが往々にしてあるよね、という戒めなのかもしれません。

 

 ②彼女、テロリスト説

バイクのブレーキが効かないのではなく、減速できない理由があったとしたらどうだろうか。つまり、バイクには爆弾が仕掛けられていた。おまけに、その爆弾は時速50マイル以下になると爆発する。彼氏はそれを知ってしまった。加速するバイク、彼女だけはどうしても守りたい。けれども、爆弾を仕掛けた黒幕は他でもない彼女だった。

しきりに「スピード落として」というセリフを彼女が言うのは、同型の爆弾が仕掛けられたバスの話を描いた映画スピードへのオマージュだろう。そして、爆発させようと、なんとかスピードを落とせて指示をする。けれども彼氏はテロリストには屈しない。

途切れた高速道路など困難が立ちふさがる。そして、ついにバイクは空港の滑走路へと侵入する。そこで彼氏がとった解決策とは!?怒涛の展開が連続するノンストップフルスロットルアクション!

 

③魔王説

彼女と彼氏の掛け合いをみていると、ある有名な曲に似ていると気が付く。セリフだけ抜き出すと、次のようになる。

「スピードが速いよ。スピード落として!!」
「なに、怖いの??」
「すごく怖いスピード落として」
「OK、でも愛してるって言ったらね!!」
「愛してる、愛してるだから今すぐスピード 落として!!」
「もちろん、でも強く抱きしめて、一度も したことのない強さで抱きしめて…」
「お願い今すぐスピード落として!!」
「わかった、でも俺のヘルメットを取って お前がかぶったらな」
「スピード落として!!!」

彼女が懇願しているというのに彼氏は一向に取り合う気配がない。このやり取りは、シューベルトの魔王に似ている。

馬で駆ける父と子、子は魔王の姿を見て怯えている。父子の会話だけを抜粋すると

「息子よ、何を恐れて顔を隠す?」
お父さんには魔王が見えないの?王冠とシッポをもった魔王が」
「息子よ、あれはただの霧だよ」

魔王「可愛い坊や、私と一緒においで楽しく遊ぼうキレイな花も咲いて黄金の衣装もたくさんある」

「お父さん、お父さん!魔王のささやきが聞こえないの?」
「落ち着くんだ坊や枯葉が風で揺れているだけだよ」

「素敵な少年よ、私と一緒においで私の娘が君の面倒を見よう歌や踊りも披露させよう」

「お父さん、お父さん!あれが見えないの?暗がりにいる魔王の娘たちが!」
「息子よ、確かに見えるよあれは灰色の古い柳だ」

魔王「お前が大好きだ。可愛いその姿が。いやがるのなら、力ずくで連れて行くぞ」
「お父さん、お父さん!魔王が僕をつかんでくるよ!魔王が僕を苦しめる!」

 駆ける馬はバイクと読むことができる。つまり、この話は現代の魔王であると言い換えることができる。つまりこういうことだ。

風の夜にバイクを駆り
駆けりゆく者あり
彼氏と彼女が
しっかとばかり抱きけり

貴子、なぜ顔隠すか
「高志スピードが速いよ。スピード落として!!魔王がいる!怖いよ」
貴子、怖いの??
「すごく怖いスピード落として!!魔王がいる!」
「OK、でも愛してるって言ったらね!!」
「魔王がいる!魔王!」
「強く抱きしめて、一度も したことのない強さで抱きしめて…」
「魔王!」

からくも宿に着きしが
貴子は既に息絶えぬ

 ④暗号説

実は最初の文章には明らかに異質な文章がある。それが最初の1行目だ。

ある男子と女子がバイクで出かけてると…

 この冒頭の一文は明らかに異質と言える。「…」と3点リーダーを使っている点だ。基本的に一連の文章はあまり文章力が高くない。それなのに、ここで3点リーダーを使って余韻を演出してくることに違和感を覚える。

多くの暗号は、その最初の一文に暗号を解くヒントを忍ばせている。つまり、この3点リーダーは暗号のヒントである可能性がある。暗号、そして3点リーダー、それから思い浮かぶのはモールス信号である。

www.benricho.org

モールス信号において3つの点は「ラ」を示す。つまり3点リーダーは「ラ」と読める。

ある男子と女子がバイクで出かけてると…

冒頭のこの一文をひらがなを「・」にし、漢字を「ー」としてモールス信号に当てはめていくと。

「・・--・--・・・・・-・・・・・・・・」

「ノ」「ツ」「へ」「ク」「ヌ」「へ」「ラ」

並びかえると

「ヘラノツクヘヌ」

同様にしてすべての文章をモールス信号に当てはめていくと、紙面の都合上、詳細な解説は控えるが、最終的に一つの唄にたどり着く。

今のごと心を常に思へらばまづ咲く花の地に落ちめやも

万葉集 第八巻 1653)

これは、「今のように、変わらない心でいたならば、春に真っ先に咲く花のように地に落ちてしまうようなことはないでしょう。変わらずあなたのことを思っています」という強烈な愛のメッセージであったことがわかる。

つまり、少しおかしな状況、少しおかしな文章で回ってきたこの「バイク事故の男女」に秘められた暗号は、ずっと変わらずあなたを思っています、という一途な気持ちを暗号にしたものである。それならば多くの人が感動するのも納得だ。

 

状況や文章がおかしい、そう揶揄することは野暮なことなのかもしれない。そこに愛があるのならば、人々は感動し、共感する。やはり何事も愛なのだ。愛がカギを握る。恋愛成就、良縁の仏として知られる愛の仏、愛染明王がカギを握るのである。

 

 

 

 

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日曜日よりの使者

仕事に行きたくない仕事に行きたくない仕事に行きたくない。

とにかく本当に仕事に行きたくない。年末年始の休暇が終わるこの日は、とにかく仕事に行きたくない。普段の仕事行きたくなさを1とするならば今日は4億はくだらない。それくらい仕事に行きたくない。

なぜこんなににも年末年始休暇明けは仕事に行きたくないのか考えると、これはひとえに年末年始が持つ「非日常」という魔力のせいなのではないかと思う。ゴールデンウィークやシルバーウィーク、お盆休暇など他の長期休暇に比べて年末年始はとにかく非日常だ。クリスマスの残り香が仄かに香り、誰もが新しい年の到来に熱狂する。街は騒がしく、テレビも普段とは違うスペシャルな内容を放送する。会う人会う人、なんだか妙にかしこまって挨拶してきやがる、そんな非日常があるのだ。

非日常から日常に戻る時、誰しもが心に引っかかる何かを抱くはずだ。ディズニーランドで夢のような時間を過ごした後、日常へと帰依していくことは辛いはずだ。それと同じレベルのわだかまりが仕事始めにはあるのだ。

「はあ、仕事いきたくねえな」

職場への道を歩きながらそう呟く。

「そんなに行きたくないなら行かなくていいよ」

耳元で声が聞こえた。

「誰だ!?」

辺りを見回すが、誰の姿もない。ただ退屈ないつも通りの通勤経路の景色があるだけだった。

「幻聴まで聞こえるようになったか、これはいよいよやばい」

どうして僕らはここまで追い詰められてしまっているのだろうか。ただ、僕らは普通に生きていたいだけである。なのに茫漠と横たわる歴然たる悪意、別の名を仕事と呼ぶそれは徹底的に僕らを追い詰める。

また一歩、また一歩と職場へと近づいていく。それはまるで自分の頭を挟み込んでいる万力のハンドルを自分自身の手で少しづつ締め上げているかのようだった。

「このままずっと信号が赤だったらいいのに」

赤になった歩行者信号の前に立つ。赤いランプを背景に直立不動のシルエットが描かれている。

「あいつは仕事とかないんだろうか」

そう思った刹那、そのシルエットがこちらに向かって手招きしてきた。

「え……!?」

次の瞬間、生ぬるい薄皮のような何か、何かと何かの境界みたいなものが自分の体を包んだような気がした。そしてそのまま真っ暗な暗闇へと意識が落ち込むのを感じた。

 

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目が覚めると周りは深い霧に包まれていた。ほんの数センチ先も見えないような深い霧で、狭い部屋で何台も加湿器をフルパワーで稼働させたような状態になっていた。

「急激に天候変わりすぎだろ。とにかくこれだけ霧が深いと危ない」

ここは交通量の多い道路だったはずだ。これだけ視界が悪いと車が突っ込んでくることだってありうる。とにかく危険だ。

足元を見ると、よく知っているアスファルトではなかった。ただ踏み固めた赤い土がそこにあるだけだった。

「なんだここは」

気を失っている間に公園にでも移動してきてしまったか。これはまずい、仕事始めの日から遅刻なんて大変なことになってしまう。ポケットからスマホを取り出し、地図アプリで現在地を確認しようと試みる。けれども、スマホは真っ暗な画面のまま動こうともしなかった。

「どうなってるんだ、これは」

急に不安になってきた。霧の中を手探り、摺り足で移動するが、ただただ土の地面が続くだけだった。

「ウオオオーン!」

突如として大きな唸り声が聞こえる。それはまるで空気を振動させるかのような音で、遥か遠くから大音量で聞こえてくるようだった。得体のしれない恐怖が体を包む。同時に、まるでその正体不明の唸り声が合図であったかのように、みるみると霧が消え、視界が開けてきた。

「湖だ」

目の前には雄大な湖が広がっていた。

「なんでこんなことに」

どれだけ記憶を探ってみても、職場の近くにこれだけの湖があわけがない。つまり、どこか遠くまで来てしまったということだろう。いくら仕事に行きたくないからと言って無意識に逃避行的な行動をとってしまったしまったのだろうか。

「こんにちは!」

ハッキリと声が聞こえた。

「誰だ!?」

辺りを見回す。けれども、誰の姿もない。

「ここよ、ここ」

それでも声は耳元で聞こえる。

「あれ? あれ?」

キョロキョロとあたりを見回すと視界の端に緑色の何かが見えた。

「え!?」

そこには手のひらほどの大きさの小さな人間がいた。背中から生えた四つの羽を忙しそうにばたつかせ、僕の耳の周りを飛んでいる。

「妖精!?」

「そう、妖精。私の名前はメルル、よろしくね」

もう何がどうなっているのか分からない。仕事に行きたくない気持ちで信号待ちをしていたら急に謎の湖に連れてこられ、おまけに目の前には妖精がいる。悪い夢でも見ているのだろうか。

「その妖精が僕に何のようだい?もし君が僕をここに連れてきたのなら早く僕を元の世界に返してくれ。仕事に行かなくちゃならないんだ」

静かすぎる湖、存在するはずのない湖、そして妖精、ここがいつもの世界でないことは何となく感じていた。できることなら早く戻してほしい。

「あら、随分な物言いね。私があなたを連れてきたんじゃないわ、あなたは望んでここに来たの」

メルルはつんとそっぽを向きながらそう答えた。

「自分から望んで?そんなわけない。偉い人の仕事始めの挨拶を聞かなかったら大変なことになるんだぞ。仕事に行かせてくれ」

僕がそう言うとメルルはさらに羽をばたつかせ、少し距離をとってこちらに向き直って言った。

「ここは仕事に行きたくない人が導かれる湖なの。どうしても仕事に行きたくない、そんな気持ちが限界まで高まった時、人はここに導かれるわ」

なるほど、そういうことか。あまりにも仕事に行きたくない気持ちが高まりすぎてここに導かれてしまったのか。自分の抱えていた気持ちを思い出し、妙に納得してしまった。あれだけ行きたくないと連呼していたんだから、きっと限界に達していたんだろう。

「で、この湖に導かれてどうなるんだい? 仕事をせずにここで一生暮らすのかい?」

それならば望むところだ。仕事もせず、この湖のほとりでのんびりと面白おかしく暮らすのも悪くはない。

「さあ? そんなこと聞かれても私にはわからない」

メルルは突き放すようにそう言った。

「え? どういうこと? 君の立場的にはこの世界の案内人みたいなものじゃないの?」

メルルの立ち位置はこの世界のことを熟知した案内人的なものであるはず。それなのに、この世界が存在する意味や目的を答えられないとは何事か。

「私は案内人なんかじゃないわ。ただ一つ、役割をもってこの世界に召喚されているの。それはあなたに役割を教える、それだけが私のこの世界での役割」

「どういうこと?」

いまいち理解できない。僕の問いにメルルは鼻の頭を指で触りながら言った。

「わ、私にもよく分からないわ。この世界に来たばかりだし。ただ、この世界には沢山の仕事をしたくない人が導かれ、召喚されてくる。その全ての人がこの世界での役割を振り分けられているの」

「なんのため?」

「だから、わからないわよっ、そんなこと!」

メルルは顔を真っ赤にし、鼻の頭を触りながら左右にちょこまかと動いた。

「と、とにかく、私の役割はあなたに役割を伝えること、それで終わりだから」

「ふーん、そうなんだ。で、僕の役割はなんなの?」

僕も言葉を受けてメルルは湖の向こうの大きな山を指さした。まるで深い紅葉のように赤く彩られた大きな山が悠然と立っていた。

そして、急に説明口調の棒読みで説明を始めた。

「あれは山に見えるけど、仕事の鬼と呼ばれる鬼です」

「ふんふん、ずいぶんでかい鬼だな。鬼っていうくらいだから悪者だろうし狂暴なんだろう、近づきたくないねー」

「この世界は仕事に疲れた人々がやってきて、この世界の役割をもらいます。けれども、その役割を果たせないときは、ああやって仕事の鬼に取り込まれ、現世の何倍も過酷な仕事に従事させられるのです。永遠に抜けられない仕事の輪廻に取り込まれるのです」

「それは大変だねえ」

「あの鬼はこの世界の歪み、肥大しすぎるとこの世界を維持することができなくなります。仕事に疲れた人々の憩いの地であるこの世界が崩壊すれば、多くの人が仕事に疲れ、悲しい選択をしてしまうでしょう」

 「なるほど、この世界の崩壊は現実世界の崩壊を意味するわけだね。ならばその仕事の鬼をなんとかしないとダメなんだね、で、どうするの」

僕の問いかけに、まだ妙な説明口調のメルルの話が続く。

「あの鬼を倒さなければなりません」

「そりゃそうだ」

「それがあなたの役割です」

「は?」

妙な声をあげてしまった。その声に驚いたのか茂みから数羽の鳥が飛び立ち、水面に波紋を立たせた。

「いやいや、無理だって。山よりでかいやん。無理無理、ひとひねりにされる」

この緑色の小さいのは何を言ってるんだろうか。できることとできないことってやつを考えてほしい。全力で拒否してみせるのだけど、

「できるかできないかは関係ありません。それがあなたの役割、そして、それを伝えるのが私の役割」

メルルは冷たく言い放った。

「あの仕事の鬼を倒す。できなかったら……」

「役割が果たせなかったら、あの仕事の鬼に取り込まれ、未来永劫、仕事の苦難を味わうだけです」

メルルは鼻の頭を触りながらそう言った。

「それはいやだなあ」

僕が渋っていると、メルルは少し苛立ちながら切り出した。

「とりあえず、やるやらないはともかく近づいてみたら。鬼がいるのは湖の向こう岸みたいだし」

「うーん」

「ほら、ついて行ってあげるから早く早く」

こうして僕とメルルは、とりあえず倒すかどうかはともかく、仕事の鬼に近づいてみることにした。

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「メルル、あれは?」

「だから分かんないって、私は案内人じゃないんだから」

見ると湖畔に二人の人間が座っている。

「こんにちは」

「あ、どうも」

話しかけると、二人のうちの少し顔色が悪い男が愚痴るように切り出した。

「いえね、さきほど妖精から説明があったんですけど、どうやら仕事に疲れてこっちの世界にくることになったんですけど、こっちの世界でも役割ってやつがあるみたいで、ねえ、でも妖精のやつ説明終わったら役割終わったってすぐ消えちゃって、ちょっとどうしていいのか分からなくて困ってるんです、ねえ」

顔色の悪い男は横に座る真っ赤に日焼けした男に向かって助けを求めるような視線を落とした。

「まったく、不親切な妖精だよ」

二人とも怒りが収まらないといった様子だ。

「ふーん、役割終えたらすぐに消えちゃう妖精もいるんだ。私みたいに責任感の強い妖精でよかったわね、感謝しなさい」

メルルが何か言っていたが無視して、二人に話しかける。

「そもそもお二人の役割って何なんですか?」

顔色の悪い男は青い顔をしてため息交じりに答えた。

「彼は誰かを止める役割だって言うんです。そして私は誰かを導く役割だっていうんです」

顔の赤い男は小首をかしげて言った。

「意味不明だろう」

「それは意味不明ですね」

僕がそう答えると、続けざまに顔の青い男が言った。

「そちらの役割は?」

あまり言いたくないが仕方がない。

「彼女は役割を僕に伝えるのが役割です。そしてその僕の役割が、あれです」

向こうに見える大きな山を指さした。改めてみるとやはりでかい。頭の部分には少し雲がかかってる。

「ああ、あれか」

「ええ、あれです。あれを倒すらしいです」

「それは難儀だな」

「ええ」

倒せるわけがない、それは二人にも共通認識としてあるようだった。まるで憐れな人を見るような二人の視線がいたたまれなくなり、二人に別れを告げてそそくさとその場を離れることにした。

「とにかく頑張ってくださいね」

「ええ、お互いに」

会話を切り上げ、メルルと共に歩き出す。

「絶対に無理だとかそんな話してるよね」

「まあそうだろうな」

湖に沿って伸びる長い長い一本道をただただ突き進んでいった。

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 湖の周りを彩っていた瑞々しい植物たちがなりを潜め、代わりに枯れ果てた木々たちが立ち並ぶようになってきた。

「彩も何もあったもんじゃないな」

「気を付けて、ここはもう仕事の鬼のテリトリーだから」

地面を踏みしめると水分を失った乾いた土がボロッと崩れ去り、包み込むように革靴を取り込んだ。前方に黒いもやのようなものが見える。

「あれは?」

近づこうと一歩踏み出したその時だった。

「止まれ!」

大きな怒鳴り声が聞こえた。ビクッとなって歩みが止まる。けれども、横を飛んでいたメルルはそのまま先に進んでしまった。

「きゃああああ!」

青光りする稲妻が幾度となくメルルを襲った。

「メルル!」

乾いた地面に横たわるメルルをそっと両手で掬い上げる。メルルはその小さな体を震わせ、荒々しく呼吸していた。羽は傷つき、至る所を火傷している。

「メルル、メルル」

問いかけるが返事はない。

「ここは仕事の鬼の結界、だから行ってはならなかったんじゃ。けれどもお嬢ちゃんが身をもって結界を破ってくれた」

いつの間にか顔の赤い男が後ろに立っていた。

「ついてきてたのか?」

「ああ、俺たちの役割を果たすには、あの鬼を倒すあんたについていくべきだろうって思ったからな。正解だったようだな」

横には顔の青い男も立っている。心配そうにメルルを覗き込んでいる。

「あ、動いた」

メルルはゆっくりと目を開けた。

「バカ、感謝しなさいよ。妖精は普通、役割を終えたら帰っちゃうんだから、ここまでついてきてあげたばかりか、あなたのために結界まで破ってあげたんだから」

メルルは意識を失いそうになりながら、苦しみながら羽を動かしている。

「メルル!もういい、しゃべるな!」

メルルはそれでも懸命に体を起こし、何かを伝えようとする。

「ごめんね、私、嘘ついていた。私の本当の役割は、あなたのために結界を破ること。それが私に与えられた役割だったの。果たせてよかった」

「メルル……」

「私思い出した。あなたも私も、毎年ここに来ているの。そして同じことを繰り返しているの、元の世界に戻ったら記憶は失われてしまうけど、仕事が嫌になるたび、この世界に来ている。みんなそうなの。私たちは前世とその前世からずっと、ずっと」

「メルルー!」

その小さな小さな勇気の塊は、もう動かなくなっていた。

「思い出したよ、俺。俺はずっとメルルと一緒にここで戦ってたんだ。仕事始めで仕事が嫌になるたび、ずっと戦ってたんだ。メルルはさ、言いにくいことを言う時に指先で鼻を弄る癖があるんだ。俺、いつもそんなメルルに勇気づけられて」

顔の青い男が、肩に手を乗せそっと囁く。

「いきなさい」

「ああ」

メルルを男に渡し、立ち上がった。仕事の鬼に対峙する。

「誰かの役割のために自分の役割を全うする。それが仕事だというのなら俺は何度でも挫折してやる。嫌になるたび、失敗するたび、悲しくなるたび、心が疲れる果てるたび、それでも仕事をしてやる。それが俺の役割だから。誰かのため、それが自分自身のためだから」

光の柱が体を包んだ。

「きれい。ほら、メルルちゃん、これが君の仕事の成果だよ。みんな解放されていく」

顔の青い男の手の上でそっとメルルの体が光に溶けていった。

顔の赤い男も青い男も、その体を溶かして光に溶け込んでいく。光の柱はそのまま仕事の鬼をも包み込んだ。同時に無数の光が生まれ、そして柱へと同化していった。

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気が付くと、いつもの通勤経路、信号待ちの交差点に立っていた。

「あれ、ん? なんでこんな突っ立ってるんだ。信号青じゃないか。っと、仕事始めから遅刻ギリギリだよ」

ドタドタと走りよる足音が聞こえる。毎朝、この信号で同じになる女の人だ。たぶんこの近くのオフィスで働いているんだろう。スーツ姿があまり似合わない女性だ。もちろん話したことなんてない。ただ、なんか今日は自分でも不思議になるくらい自然に話しかけることができた。

「あけましておめでとうございます」

彼女は目を丸くして驚いていたが、すぐに普通の表情に戻り

「あけましておめでとうございます。いつもここで会いますよね」

「そうですね」

彼女は満面の笑みを見せてくれた。まだ息が弾んでいる。

「今日から仕事始めで仕事行きたくないなって思ってたら遅刻しかけちゃいました」

「僕もですよ、あ、さっさと渡っちゃいましょう」

信号を渡りきると彼女が辺りを見回し、そっと耳元でこう呟いた。

「あのー、すごく言いにくいんですけど、ズボンのチャック、開いてますよ」

そう言いながら彼女は鼻の頭を指で触っていた。

「新年からこりゃ失敬」

チャックを閉めて職場へと歩き出す。歩行者用信号の青信号と赤信号のシルエットの紳士がこちらに向かって手を振っていたが、僕は気が付かなかった。

さあ、嫌な嫌な仕事を始めよう。

クリスマスイブの過ごし方

クリスマスイブの六畳のアパートには寂しさだとか悲しさだとか、そういった悲しきものが充満していたような気がする。正確なことは覚えていないのだだけど、確かにそんな感情を抱いていたような記憶があるんだ。

大学の友達は、皆でスキーに行った。恋人がいない者同士、寂しくクリスマスイブって行事を過ごし、嵐が過ぎ去るのを待つ予定だったが、どうやら僕に内緒で開催された合コンという神事からグループ交際に発展したらしく、スキーに行くことになったらしい。どうやらそこで「決める」つもりのようだ。俺も行くよと申し出たが、やんわりと断られた。そりゃそうだ、何らかの理由があるから僕を合コンに誘わなかったのだろうから。

それはまさしく不意打ちだった。

何もクリスマスイブを恋人と過ごしたり、そうでなくとも仲間と過ごしたり、ジョイフルな何かで過ごさなければならないという強迫観念があるわけではない。別にとりとめのない、普段と何ら変わることのない日常の一日として過ごすことだって可能だ。けれども、それはある程度の心の準備があって可能なことだ。さらに、今回のように信じていた友の裏切りが重なると、メンタルだて通常のままではいられない。

動揺もしていたのだろう。混乱もしていたのだろう。窓の外に降り始めた柔らかそうな雪も心の乱れを手助けした。僕はいつの間にか電話を手にしていた。

プルルルルルルルル

誰でもいい。とにかく会話がしたかった。何かを話したかった。確認したかった。自分は一人じゃない、そう確信できる一握りの何かが欲しかった。

手元にエロ本があった。その広告ページに「ツーショットダイヤル」というものがあった。電話をすれば女性に繋がる、そこでエロい話ができるというアダルトなサービスだ。1分100円だとか、決して安価ではない料金を取られるが、初回登録時に2000円分の無料ポイントをくれると大々的に書いてあった。つまり20分は無料で使えるらしい。今の僕には、例え20分でも他人と、それも異性と話ができるのは大きい。何かに縋るような思いだった。

結構めんどくさい登録処理を終え、いよいよ女性との会話に入る。女性が待機するコーナーは3つあるらしかった。どの部屋に入るかを選ばなければならない。

「お友達部屋 女性と楽しく会話」

「恋人募集部屋 いい人がきっと見つかる」

「アダルト部屋 ちょっとエッチな会話」

この3つだ。やはり初心者なので「お友達部屋」から行くべき、そう思った。アダルト部屋なんてどんな魑魅魍魎が蠢いているかわかったもんじゃない。歴戦の猛者みたいなやつらが巣食っていることだって考えられる。それに貴重な20分を使ってはいけない。ここはライトに友達部屋で行くべきだ。クリスマスイブの寂しさに狂った初心者の女性、この辺を狙うべきである。

1番をプッシュすれば友達部屋に繋がる。押そうとしたその瞬間、神か、いいやサンタか、とにかく人間を超えた神々しい何かの声が聞こえた。

「ほんとにそれでいいのか?」

お友達募集?そんなもののために貴重な20分を使うのか?そう問いかけられているような気がした。

窓の外の雪を眺めた。今日は積もりそうだ。

「アダルト部屋にするか」

3番を押した。

「お相手と繋がるまでしばらくお待ちください」

無機質な音声が流れる。それとは対照的に、ポップなアップビートの音楽がうっすらと流れていた。電話の音質で届けられるその音楽はより一層チープなものに聞こえた。

「お相手と繋がりました。やさしくもしもしと話しかけてくださいね」

きた!

一気に緊張が増した。優しくもしもし、優しくもしもし、心の中で唱える。

プッ!

そんな機械音声から間髪入れず、相手の優しいもしもしが僕に届いた。

「もしもし」

お婆ちゃん?

そう思うしかない、老婆としか思えない優しいもしもしが聞こえた。完全に老婆だこれ。

「もしもし、こんばんわ」

僕も負けじと優しく語り掛ける。

「イッヒッヒ、クリスマスイブにこんなところに電話かけてー。悪い子ねー(棒読み)」

電話の向こうの老婆はそう言っていた。ちょっと僕を坊や扱いしたような感じで言われた。少し年上のお姉さんに、ちょっとアンニュイな感じでこう言われたらそれだけで大興奮なのだけど、なにせ、祖母レベルだ。こういうのはちょっと心にクる。

こういったツーショットダイヤルの相手の女性は多くの場合がサクラの女性だ。つまり体が疼いて仕方がない雌から電話が殺到、とこの広告に書いてあるようなことはほとんどなく、この業者からいくらかの金をもらって対応している。女性から見たらたぶん歩合制みたいなもので、男との会話を長引かせれば長引かせるほど金が入る仕組みになっている。

お婆ちゃんもきっとお金が欲しかったんだと思う。それで、クリスマスイブに、こんなところに……クッ……

世の中が悪い。政治が悪い。そう思った。どうして老人がこんなことをしなくちゃならないんだ。怒りすらこみ上げてきた。

「あー、今日はエッチな気分だわ。体が火照る(棒読み)」

電話の向こうの老婆は張り切っていた。こういったツーショットダイヤルにはチェンジ機能というものがある。気に入らない相手と繋がった場合は「#」を押すことで相手をチェンジできる。おそらく、その声で瞬時に老婆と判定される彼女はここまで数多くのチェンジに遭ったに違いない。それでは稼げない。でもこいつはチェンジしない、イケる!老婆は本当にはりきっていた。

「今風呂上がりだからー、裸に近いカモ(棒読み)」

僕は自分のおばあちゃんことを思い出していた。優しかったおばあちゃん。決して自分の生活だって楽じゃなかったはずなのによくお小遣いをくれていつも僕の頭を撫でてくれた。電話の向こうで棒読みを披露している女性とおばあちゃんが重なった。窓の外の雪は一層激しさを増していた。

「もう我慢できないから自分でしちゃおうかなー(棒読み)」

「あんあんあんあん、いいわー(棒読み)」

たぶんこういう会話をしろとかそういったマニュアルがあるのだと思う。老婆はそれに忠実にエロいお姉さんを演じている。もう止まらないといった感じで喘ぎ始めた。涙があふれた。誰が悪いわけでもない。あえていうならば世の中と政治が悪い。

「今日はクリスマスイブです」

老婆の喘ぎを遮って僕の話を始めた。

「どうしてクリスマスイブは誰かと過ごさなければいけないんでしょうかね。こうやって一人でいると寂しいんでしょうね。でも考えてみたら、別に誰かといなくたっていいんですよね。孤独であること、孤立すること、それって結構大切なことだと思います。けれども、やはりこうやって雪が降っちゃってテレビも浮かれていると寂しい」

僕の言葉に、老婆の棒読みの喘ぎが止まった。さらに続ける。

「電話をかけたら誰かに繋がる。それって結構大切なことだと思います。とくにこんな日はね。だから、こうやって誰かの相手をしてくれる、そんなあなたは尊くて立派だ」

もし、クリスマスイブに恋人や仲間と過ごさなければならない、なんて常識があるならば、そんなものはクソ喰らえだ。でも、やはり誰かと繋がるのは暖かく、温かく、心落ち着く。

「今日あたなに繋がって、僕は救われたような気がします」

無言の時が流れた。

それからしばらくして、老婆が話し出した。それはマニュアル通りの棒読みではない。彼女の言葉、だったように思う。

「私の話を聞いてくれる?」

彼女の問いかけに即座に答える。

「聞くために電話してるんです」

すぐに彼女は何かを決意したように語り出した。

「あのね、わたしね、ずっと誰かに言いたかったことがあるんだけど、こういう日だから言いたいのかな、ずっと思ってたことがあるんだ」

お婆ちゃんの家の窓からも雪が見えるだろうか。そんなことを考えていた。お婆ちゃんは何か言いたいことを誤解なく伝えようと必死に言葉を選んでいる。そんな気がした。

「えっとね、あのね、そのー」

そしてついにおばあちゃんがハッキリとこう言った。

「ナッパ!」

その瞬間、ぶつっと会話が切断された。

え!?ナッパ!?

「あーん、ポイントがなくなっちゃいました。この続きはポイントを購入してから楽しんでね」

無料ポイントがなくなってしまったらしい。「ナッパ!」その続きにある言葉はなんだったのか。気になって気になって仕方がない。何をどう考えても「ナッパ!」から続く言葉もストーリーも思い浮かばない。

クリスマスイブに恋人や仲間と過ごさなければならない、何かをしなければならない、なんてそんな常識があるならば、そんなものはクソ喰らえだ。何も変わることのない寒い年末の一日、そう過ごせることが大切なのだ。

お婆ちゃん、ナッパってなんなんだよ。音もなく降りてくる大粒の雪にそう問いかけ呟いた。

「メリークリスマス」

白い雪は何も答えなかった。

 

 

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けれども、それでもだれかと繋がるのは嬉しい。ということで、今年のクリスマスイブにはイベントを開催します。

 

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ヌメリナイト2016ー渋谷のヌメリークリスマスー

12月24日 土曜日 OPEN 17:00 START 18:00 END 21:00 (予定)
出演:pato、松嶋、きいちゃん
東京カルチャーカルチャー(渋谷)
 
いつもは夏に開催されるヌメリナイトがクリスマスイブの渋谷に降臨!太ったおっさんが出てきて延々と訳の分からない話をする「地獄」を具現化したみたいなトークライブが開催されます。
毎回恒例の大ビンゴ大会も賞品をクリスマスプレゼントバージョンにして開催されます!
 
クリスマス何も予定がない方、恋人といるけど行くところがない人、寂しすぎてツーショットダイヤルで老婆と会話する人などなど、是非ともお越しください!
 

靴下は片方だけなくなる

なぜ靴下は片方だけなくなるのか教えてやろうか?

場末の酒場でウィスキーのグラスを傾けながら老人はそう言った。知らない人だ。

さあ、わかりませんね

その問いかけに興味があって答えたわけではない。早めに会話を切り上げたかったのだ。酒と肴が美味い店、この店に求めるのはそれだけで、それ以上何も求めていない。酒の力を借りて社交的になることなって求めていなかった。このぶっきらぼうな答えにはこれ以上会話を続けるつもりがないという意思表示が含まれている。

それはな、両方なくなった靴下はなくなったことにすら気づかないからだよ

おかまいなし老人は続ける。彼はニヤリと笑った。確かにそうだ。そもそも両足揃った靴下は記憶にすら残らない。当たり前だから。両方なくなった靴下は認識すらされない。余程お気に入りだとか、目立つ色だったとかしない限り靴下はあった痕跡を残さない。

つまり、靴下は特別に片方だけなくなったりしない、とということですか?ただ片方がなくなった事象だけを認識するから片方なくなることばかりに思うってだけで

そう答えると彼は残りが2割ほどになったグラスを見せびらかすように顔の前に掲げ、小さく頷いた。会話が終わる。沈黙する二人の間を酒場の喧騒が通り過ぎていった。

あの、いつもこの店に?

なぜか自分から彼に話しかけていた。少しだけまいっていたのかもしれない。

ああ、いつも来てるよ、常連だ。いつもこの席でウィスキーを飲みながら他の客を観察してるのさ

自分もある程度はこの店に通っていて、店員にも顔を覚えられている。常連、といえる立場にあるはずだ。それでも彼の存在には気が付かなかった。

すいません、気付かずに

そう言うと彼は笑った。

靴下も人間も同じさ、片方だけなくなる、話しかけられる、そんなことがないと気が付かないものさ。玄関に置かれた風景写真の額縁だって、曲がったりしてない限り気にも留めないだろ

彼はグラスに残っていた茶色の液体をぐいっと飲み干した。そして大きく呼吸すると少しだけ近づいてきて囁くようにいった。

アンタはいつもこの世の終わりみたいな顔してるよ

なんだかドキッとした。確かに今日は仕事のミスで落ち込んでいる。落ち込んだときはこの店に来て酒を飲むことにしている。まるで見透かされているような気がした。

そ、そうですかね

明らかに動揺を隠せていないが、なんとか取り繕って返事をする。彼は持ったままだったグラスをカウンターに置くと、少し間を置いて切り出した。

そうだ、ゲームをしよう。君が元気になるようなゲームだ

なんだろうか。少しだけ気になった。自分の心の内を見透かした彼の言葉に耳を傾ける気持ちが出てきた。

なあに、だれにでもできる簡単なゲームさ。それに若い君の方が有利だ。この老人には体力がないからね。そうだ、何かを賭けないとつまらないな。ここの飲み代を賭けよう、君が勝ったらここは奢る。私が勝ったら、そうだな、私が望むものをくれ

望むもの?

ああ、大したものじゃないさ。どうせ君が勝つんだ、気にする必要はない。ただ君に飲み代を奢ってやって元気を出してほしい、それだけさ。ゲームなんて形式にすぎんよ

不思議なことを言う老人だ、そう思った。けれども、どんなゲームかは知らないが、どうもこの老人は本当に自分を元気づけようとしているようだ。つまり奢ってくれるのだろう。懐が少し寂しい身としてはとても助かる。それになんだか面白そうで元気が出てきた。

やりましょうか。どんなゲームですか?

それを聞いた老人は馴染の店員に指示し、座敷席の座布団を片付けさせた。

君は足押しってしってるかね?

足押しですか?知りません

いやね、古くは土佐物語などに出てくる遊びなんだがね、これがまあ、面白いんだよ。もちろん、若くて体力がある君が有利だ。ただ、体力だけじゃない戦略性もある。ちょっとこっちに来なさい

そう言うと老人は靴と靴下を脱ぎ、座敷席へ上がった。不思議に思いながらもこちらも靴と靴下を脱いで座敷に上がる。即座に店員が飛んできて、靴と靴下を靴箱に収納した。

こういう体勢になってごらん

老人は畳の上に座り込みを、足だけを浮かべて足裏をこちらに見せるような体勢をとった。向かい合うようにして同じように座る。

こうして足の裏を合わせるんだ。そして手を離す。

体全体でV字を作る体勢で老人と足を合わせる。やけに体温の低い感触が足の裏に伝わってきた。なかなか体力を使う体勢だ、もうこの時点で腹筋が悲鳴をあげている。

そして、この足の裏を押し合う。先に体勢を崩して手をついた方が負け。簡単だろ?それに君が有利だ

確かにそうだ。ただゲームにかこつけて奢りたいという話は嘘でなかったらしい。腰の位置を直し、安定しやすい位置に変え、ゲームに備えた。

それじゃあ始めよう

老人の足に少し力がこもったのを感じた。少しだけ強い力で押してみる。老人のバランスを崩させるのは簡単だが、怪我をさせてしまっては良くない、危なくない程度に力を込めた。

うっ

老人の足に伝わるはずだった力はすっとどこかに消えてしまった。どうやら老人は伝わってきた力を右側にいなしたようだ。二人の足が大きく右に揺れる。危ない、これではこちらまでバランスを崩してしまう。怪我を心配して弱めに力を入れたのがよかった。これが全力だったらそのままバランスを崩して倒れて負けていた。

単に力がある方が有利というわけではないぞ、タイミングが重要だ。それには駆け引きが大切だ。そもそも、あまり力を入れていない相手に全力で力を入れても意味がない、そのままいなされるか、膝に吸収されてしまう。足を曲げればいいのだから、相手が力を込めてきたタイミングでこちらも力を込めなくてはいけない。思った以上に奥が深い。

お互いに動けず、静止した状態が続く。駆け引きだ。相手の呼吸を読まなければいけない。酒場の喧騒の中から必死に呼吸を読もうとする。

靴下が片方だけなくなるってはなしだけどな

老人が切り出した。突き上げた両の足に邪魔されてその表情は伺えないが、少しだけ苦しそうなトーンだ。しびれをきらして動揺させようと話しかけてきたに違いない。

はい、片方だけなくなることが特別に起こるんじゃない、片方だけなくなった時しか認識できない、ですよね

受け答えしつつ、相手の呼吸を探る。こちらもこの体勢がきつくなってきた。

ただな、おかしいとおもわねえか、なんで、片方だけなくなるんだってことよ

えっ?

一瞬動揺した。そうだ、たしかにおかしい。靴下なんてのは大抵はセットで使うものだ。片方だけ使うことがあるならまだしも、大抵はセットで使う、つまり家の外に片方だけ持ち出すことはほとんどない。洗濯などの際になくなるとしても、そんな大それたところにいってしまうはずがない。

そもそもな、片方なくなるって事態が特殊なんだよ、認識云々の話じゃない。

老人は動揺させよと突飛な説を持ち出しているのだろ。

じゃあ、なぜ片方だけなくなるんですか

問いただす。老人はすぐに答えた。

この世にはわけのわからねえフェチってやつがいる。例えば、男の靴下、それも好みの男の右足の靴下にしか興奮しねえ老人がいたとしたら。そしてその老人が部屋に忍び込んで盗んでいたとしたら。どうだい?なぜか右足にしか興奮しねえんだ、片方だけなくなるのも納得いくだろう

心臓の鼓動が早くなる。完全に動揺している。

そんな人いるんですか?

なるべく感情が入らないように答えるが、少しだけ声が上ずってしまった。

俺が買った時の望む物の話をしてなかったな、アンタの右の靴下をくれや、もう部屋に忍び込むのは骨が折れるんでな

ドクンと心臓が波打つのが分かった。それと同時に物凄い力が足に伝わってきた。波状攻撃と言わんばかりに変則的なリズムでぐいぐいと力が伝わってくる、老人が攻めてきている。闇雲に力をいなしたり加えたり、いつの間にか、老人は手をついていた。

ははは、やっぱりかなわねえわ。冗談で動揺させて一気に攻めたんだがな。あんた強いな。はははは

なるほど、さっきのは冗談だったのだ。とにかく、老人の攻撃をかわして勝てたのは大きい。いつの間にか落ち込んだ気持ちもなくなっていた。

その笑顔だよ。あんたはいつも落ち込むとこの店にくるんだろう。だからこの店でしかあんたを見ない俺には、いつも落ち込んでるようにしかみえない。落ち込んでるパターンしか認識できないからな、片方の靴下と一緒さ。でもな、その事象だけ見てたってだめなんだ、嫌なこともあれば嬉しいこともある。片方の靴下がなくなる何倍もの頻度で両方の靴下が揃ってるんだ

なんだか言いたいことも分かるような気がした。

ありがとうございます

そう言った。それは奢ってもらえるからじゃない。落ち込んでいた気分を浄化してもらえたような、そんな気持ちがしたからだ。

じゃあ俺は先に帰るわ、代金は払っとくからな。今度この店で会う時は、今みたいな顔でな

老人は早々に靴を履き、会計をして帰っていった。

なんだかいいことがあった、落ち込むこともある。嫌なことだってある。けれども、それがことさら印象に残るだけで、実際にはそれと同じくらいか、それ以上に楽しいこと、嬉しいこと、楽しみなことがあるのだ。本質は、それに気づけるかどうかなのだ。良いも悪いも気づきしだい、それは片方の靴下と変わらないのだ。

店を出ようと、靴箱から靴を出す。片方の靴下がなくなっていた。

そして家の玄関の風景がを収めた額縁は、少しだけ曲がっていた。