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花言葉はイノセンス

吉田さんは無邪気に笑ってグラスを傾けた。趣味の良いジャズに混じってカランという氷の音が響き渡った。

「どうやったら家が売れるかなんてわからねえよ」

吉田さんは自嘲気味に言った。詳しくは知らなかったが、どうやら彼は家を売る立場の人らしい。マイホームの営業マンか住宅展示場で働く人か、もしくはそういった企画を立てるハウスメーカーの人か、詳細は分からないが、家が売れないと結構困るようだった。

「家なんて一世一代の買い物ですもんね。快楽天を買うのとはわけが違う」

僕が同意すると、吉田さんはまさしくその通りという顔をした。

「ねえ、考えてくださいよ。どうやったら家が売れるか。どうやったら買う気になるか」

最初は冗談めいていた吉田さんだったが、なんだか少し本気の熱量みたいなものを感じられるようになってきた。きっと、本当に悩んでいるのだと思う。

「いやあ、でも、ほら、やっぱ快楽天を売るのとはわけが違うし。快楽天は税込み400円っすよ、家とか何千万円もするんでしょ?ちょっとやそっとじゃ買う気にはならないですよ」

僕の言葉に吉田さんは深く頷いた。

「そうだよなあ。俺も快楽天売ればよかった」

あまりにその悩みが深いのか、発言がおかしな方向にいっている。苦しそうな吉田さんの表情を見て僕は心の奥底がギュッと痛くなるのを感じた。それは罪悪感めいたものだったのかもしれない。

実は、この時点で僕には家を売るための秘策みたいなものが思い浮かんでいた。けれども、それをあえて吉田さんにアドバイスしなかったからだ。答えを知っているのにクイズに悩む人を見てニタニタ笑うような趣味の悪さが自分に同居したような気がして嫌な気がした。

僕の持論として、「人は宇宙の大きさに悩まない」というものがある。人は自然と自分の身の丈にあった悩みを抱えるようにできている。これは長さの単位で考えると分かりやすいが虫たちの世界はミリメートルのオーダーの世界だ。そこで別のアリとの抗争や壊れた巣の修復など、彼らの大事件は全てミリオーダーの世界で展開される。メートルの単位くらいならまだなんとかなるが、キロメートルの単位となるとアリには想像を絶する世界だ。アリは隣の市のアリのことでは悩まない。関係ないからだ。

それと同じで人間はせいぜいこの地球の大きさくらいのオーダーの事象で頭を悩ませるだけで、宇宙の彼方がどうなってるかなんて気にはしない。本気で宇宙の大きさに頭を悩ませるのは航空宇宙局の人や宇宙物理学者の人くらいのものだ。

つまり、悩みを持つということはそのステージにいる、ということなのだ。なにも僕は全ての悩みは頑張れば解決できる!神様は超えられるハードルを準備してくださるのだ!なんて純粋なことを言うつもりはないが、悩むということは相応のステージにいる、ということなのである。

彼は家が売れなくて悩んでいる。僕は今月号の快楽天が抜けなくて悩んでいる。値段にして5桁は違う。これはもう、そもそもステージが違う。アドバイスや議論が噛み合うわけがない。この世の中にはびこる「悩み相談」の大半が不毛であることは突き詰めればこのステージの違いが原因だったりするのだ。

だから僕がどんなアドバイスをしようとも、ステージが違う以上はそれは無邪気な意見でしかない。小さな子供が無邪気に、お仕事辛いなら辞めちゃえばいいのに、って無邪気に言うことに近い。それが真理であることは多々あるが、やはりそれは当の本人からしたら無邪気な意見でしかない。

ただ、この日の僕は少しだけ事情が違った。その理由は分からないが、あえて言うならば店内に流れるジャズがあまりに趣味が良かったから、だろうか。なんだか飛び越えてみたかったのだ。

「一つだけ名案があります」

小さなアリは風に乗って新天地へと飛び立った。この小さなアリは。いつかはきっと、ロケットに載せられて実験生物として宇宙へだって飛び立つかもしれない。快楽天を買う中年は、マイホームについてアドバイスをすることにしたのだ。それは宇宙に出るより大きなことだった。

「お、聞きたいね」

吉田さんは身を乗り出した。

花言葉ってあるじゃないですか」

「うん、あるね」

カランっとグラスの氷が重力に引っ張られた音がした。まるでそれが合いの手のようだった。

「あれってロマンチックですよね。花にメッセージを持たせる。人に贈ったりする時に秘められたメッセージみたいで」

赤いアネモネ花言葉は「君を愛す」白いカーネーション花言葉は「君を愛す」だ。そういった花に込めたメッセージで思いを伝えることは、直接伝えるよりスマートで良い。そう、ちょうどいまかかっているこのジャズのようにね。

「家を買う人って、だいたい家族がいるわけですよね。自分の住む場所と言う側面も確かにあるけど、家族のために買うって人多いんじゃないですかね」

吉田さんはまだ僕の真意が分からないようで、いぶかしげな表情を見せている。

「だから、家に家族への秘めたるメッセージを持たせたらいんですよ」

「メッセージ?」

「そう、家言葉です」

「家言葉!?」

吉田さんが食いついてきた。

木造二階建て4LDKの家言葉は「家族への愛」、鉄筋三階建て二世帯住宅の家言葉は「感謝と永遠」、木造平屋建ての家言葉は「安穏」、こういった家言葉をガンガン設定していく。で、家を買いそうなお父さんにだけこっそりと「実は木造二階建て4LDKn家言葉は「家族への愛」です。奥さまやお子様がいつか家に込められたメッセージに気が付いたら、そんな未来の家族へのメッセージとして多くのお客様が購入されています」これもう買うだろ。35年ローンいくだろ。

「なるほどなあ、家言葉か」

吉田さんは無邪気に笑った。小さなアリは隣の市くらいまで飛んで行ったような気持ちになった。

それからしばらくして、また吉田さんに会う機会があったので家言葉についてどうなったのか聞いてみた。もしかしたら大手ハウスメーカーのCMなんかに家言葉が登場したら権利関係を主張しなくてはならないと思ったからだ。僕の問いに吉田さんは沈痛な面持ちで答えた。

「上司に怒られた」

家言葉で購入を決意する人が本気でいると思うのか、そんな主旨の言葉を言われたらしい。

「家言葉で上司と売り言葉に買い言葉、喧嘩をして逃げる場所、ここだ」

「あ、韻を踏んでる」

このままここにいたら吉田さんとラップバトルが始まりそうだったので、趣味の良いジャズを背中に受けながら店を後にした。心地よいジャズにラップは似合わない。

この世の多くのアドバイスはきっと無邪気なものなのだろう。なぜならアドバイスをするものは本質的にはそのステージにいないからだ。ステージを飛び越えたアドバイスは無邪気でしかないのだ。

重厚なドアを閉めると趣味の良いジャズは聞こえなくなった。そして、店先のプランターで黄色いフリージアの花が揺れていた。