子供の頃に不思議な体験をしたことがある。
そんな経験を持っている人はそれなりにいるのではないだろうか。例えば、さくらももこ先生の「ちびまる子ちゃん」でも、二度と辿りつくことのできなかった不思議な洋館の話がでてくる。大人に話しても誰も知らない洋館という存在、もう一度行こうとしても行けない洋館、なんとも不思議な話だ。けれどもこれは何も特別なエピソードでないように思う。
多くの人が、そういえば子供の頃に不思議な体験があった、と不思議体験を持っていて、持ちネタのように話してくれることがある。会えるはずのない人に会っただとか、変な色彩の虫を見ただとか、ツチノコみたいな生き物を見ただとか。僕の知っている女の子でも、子供の頃に裏庭で天狗を見たって真剣に語る人がいる。
思うに、子供時代のそういった不思議な体験は多くが思い込みや勘違いによるものだ。知識も思考力も未熟な子供は事象を認識する力が弱い。そうやって引き起こされた勘違いに記憶の劣化や思い込みが重なり、さも不思議な体験をしたかのように感じ記憶がすりかえられるのではないだろうか。
例えば、冒頭のちびまる子ちゃんの洋館の話だって、子供から見たら洋館に見えただけかもしれない。何か洋風な装飾が少し施されているだけで子供には洋館にしか見えないなんてよくある話だ。けれども、大人から見たらなんともない普通の民家だったとしたら、そもそも話がかみ合わないはずである。そうやって幻の洋館が出来上がってしまう。多くの体験が突き詰めればそういうことなのかもしれない。
かくいう僕も、子供時代にそういったなんとも不思議な体験をした。
あれはまだバッタとか捕って遊んでいるような少年時代だったと思う。家から少し離れたところに大きいのだけど古い神社があって、その裏手の通りから少しいったところに小さな商店があった。
その商店は裏通りに面していてお世辞じゃないが繁盛しているとはいえない状態だったが、駄菓子を買って店の前で食っていると優しい店主がジュースを出してくれることがあって、あまりの居心地の良さに次第に子供たちがそこに集まるようになった。
いつものように駄菓子を買って友達数人とだべっていると、店主がお盆の上にオレンジジュースの入ったコップを持ってきてくれた。ただいつものそれとは様子が違っていて、店主の横には小さな女の子が立っていた。
「ちょっと預かった子なんだけど、一緒に遊んでやってくれない?」
まだ、女と遊ぶなんて恥ずかしい、女と遊ぶなんて女たらしかオカマだって良く分からない価値観を持っている年代だったので少し躊躇したが、そこそこかわいかったし、ジュースを貰っているという手前断りにくいので遊ぶことにした。
「どこの学校に行ってるの?」
「何年生?」
色々と質問するが、彼女の返答は要領を得ない。ただなんとなく田舎の子供にはない上品さみたいなものがあったので、すごく遠くから来ている子なんじゃないかって感じていた。
ジュースを飲み、お菓子を食べると、いつも行っている空き地でバッタを捕ることにした。あまりに僕らが乱獲しすぎてほとんどバッタがいなくなってしまった空き地だけど、そこしか捕る場所がないので向かっていると女の子が不思議なことを言い出した。
「わたし、当たりがわかるよ」
なんでも、駄菓子に入っている当たりが分かる不思議な力があるなどと言い出した。こいつすげーな、ほとんど初対面なのに最初から全速力でふかしてんじゃねえか、頭に変なものでも沸いてるんじゃねえか、そう思った。
そんなに言うならやってみろってことになって、ただ、いつも行ってる商店で当たりを出しまくると店主の損になって悪いからと本気で思っていて、別の死にそうなババアがやっている駄菓子屋で試すことになった。
当時の駄菓子は当たり付きのものが多く、パッケージを開けて当たりの紙が入っているともう一個もらえるというものが主流だった。本当に狙って当たりを出せるなら永久機関の実現が可能である。駄菓子や代にも困って弟の貯金に手を出していた僕としては色めき立った。
「じゃあこれの当たりを教えてよ」
10円のガムだった。Felixの顔がプリントされたガムで、そのリーズナブルさからなかなか人気があった。このガムの包みを開けたときに半透明の紙が入っていれば当たりということでもう一個もらえる。本当に当たりを狙えるなら最初の一個を買うだけであとは永久に買う必要がない。すると彼女はさらに変なことを言い出した。
「これの当たりはわからない。けれどもこっちなら分かる」
人気のあるガムなどの当たりは分からないが、こっちの、なんだっかな、すげえ人気のないあずきっぽい死にかけのババアが甘いもん欲しいわって時にしか買わないようなお菓子の当たりしか分からないと言い出した。
そんなもん当たっても意味ねえよ、そもそも当たりがついていることを始めて知った、と思いつつも、指定されたそのあずきのお菓子を買うと、本当に当たりが入っていた。もう一個貰っても仕方がないと思いつつ、そのもう一個も指定されたものを選ぶと、また当たりが入っていた。僕らは驚きのあまり言葉が出なかった。彼女はただニコニコと笑っていた。
「もうこの箱には当たりはないよ」
そういって笑う彼女を見て、本物だと確信した。ただ、アズキのお菓子しという比較的どうでもよいものしか当てられないことがイマイチだった。
彼女の預言めいた不思議な発言はそれだけに留まらず、例えば、今買えば当たる気がするとジュース自販機を指差したりして、マジかよと思いつつ見てみると、売り切れ続出でおしることかコーヒーとかイマイチなものしか残っていない自販機だったり、当たったとしてもそもそもいらない、けれどもなんとか無理をして意味不明なジュースを買ってみると、やっぱり当たるのだ。けれどもあまり嬉しくない。
良い預言ばかりではなく悪い預言もあって、例えば
「こっちの道からいくと悪いことが起こる」
と預言されたときは、こっそり隠れながら指定された通りを見てみると、本当に6年生の不良がたむろしていたりして、危機回避ができたりするのだけど、やっぱり預言はイマイチで、そこを避けて別の通りを行くと5年生の不良に絡まれたりした。なんでこちいのことは預言できないんだ。
なんだか、本当に不思議なのだけど彼女の預言めいた発言は当たる。けれども、さらに不思議なことにそれらの預言は絶妙に僕らの欲望を満たせないようになっていた。とにかくイマイチなのである。
夏の間、そのイマイチな預言者も仲間に入れて色々遊んだのだけど、実はあらゆるシーンでその子の顔の記憶はあまりない。ただイマイチな預言をしていたことは覚えているのだけど、あまりにもイマイチなのでもう預言はいいやってことになって、普通に一緒に遊んでいたと思う。けれども、思い出の風景に彼女は出てこない。本当に彼女は存在したのだろうかと今になって考えることもある。
ただ、夏の終わりに彼女は最後の預言をした。いつものように神社裏通りの商店でジュースを飲んでいると、店主が言った。
「今日で最後だけど仲良くしてあげてね」
どうやら彼女はどこか遠くに帰ってしまうようだった。子供心にたぶん、もう会えないんだろうということは分かっていた。それでもいつものように普通にバッタを捕って遊び、水浴びもしたと思う。どっぷり日が落ちるまで遊んで、最後に彼女は神社の前でバイバイと手を振った後に言った。
「この神社は潰れるから、危ないからもうここで遊ばないように」
僕らは驚愕した。
この神社が潰れる?そんなことがありえるのだろうか。確かに古い神社だけど、そんな潰れるって事があるだろうか。でも、彼女が言うのなら当たるのである。彼女は預言者だ。イマイチとはいえ預言者であることは確かなのだ。この預言は確実に当たる。
僕らは親や大人に言った。記憶が確かじゃないが神社の人にも言おうとしたかもしれない。ただ、誰も信じてはくれなかった。彼女の預言は絶対に当たるのに、誰も聞き入れてくれず、仕方がないので僕らがその神社を避けて近づかないことにしよう、ということで決着した。
果たして、彼女の最後の予言はどうなったのか。これまでの形で行くとイマイチな形で当たるはずである。けれども、この預言だけは外れた。神社は潰れなかったのだ。待てど暮らせど、その神社は雄大に佇んでいた。
あの時遊んでいた面々はそれから大きくなり、そんな預言があったことも忘れてみんな生まれ育った町を離れた。そして、10年以上経ったある日、その生まれ育った地元の町に比較的大きな地震が来て、その神社は崩れた。見事に潰れた。幸いにも人がいなかったので、怪我人は皆無だった。
彼女の預言は当たったのだ。けれども、それは10年以上も経過し、預言を聞いた僕らも住んでおらず、内容すらも忘れていた状態で当たったのである。崩れ去った神社の映像をみて、やはり彼女の預言はいつまでたってもイマイチ、そう思った。
あの時、本当にあんなに預言が当たる女の子が存在したのだろうか。今となっては記憶が混同されている可能性があり、そんな子はいなかったんじゃないか、そんな預言はなかったんじゃないかって思うのだけど、なんとなく、彼女が10年以上も先の危険を預言してくれたのは、僕らがいつまでもあそこで遊んでいると思ったからじゃないかなって感じた。10年も経てば僕らだって大人になり、街を出て行くだろうし、神社で遊ぶなんてありえない。けれども、それを分かっていなかったのがなんとも彼女らしく、少しだけ故郷が懐かしい感じがした。
今度帰省したら、新しく復旧したその神社にお参りにいこうかと思う。たぶんきっと、イマイチな預言者はあの夏、あそこに存在していたのだから。