幸せの青い鳥

物事が想定内であるか想定外であるか、考えるとほとんどが想定内ではないだろうか。なぜならば、想定の中か外かで論じられるような物事は、そもそも想定されていることが多い。想定はされているが対処はされていない、そういった物事を想定外と呼んで責任転嫁していることがほとんどだ。

僕の職場に、すごく偏屈なご老人がいる。彼はものすごい怒鳴る人で、何らかのミスをした若手を怒鳴って泣かせることを生きがいとしているような人だ。その人の怒鳴りレパートリーの中に「こんなミス想定外だ。おまえはすげえやつだよ」というものがある。

もちろん、すげえやつだと称賛しているわけではない。完全に皮肉だ。お前はベテランのこの俺すら想定していない途方もないミスをした。これは大変なことやよ、とそのミスが恐ろしく重大であるかのように言うのだ。それを聞いた若手は自分がとんでもないことをしでかしたと泣いてしまう。

けれども、そのミスは完全に予想できるミスで、ご老人も普通に落ち着いて対処している。想定外だと仰々しく言うが、完全に想定の中の出来事だ。多くの事象が実はそうで、想定外であったか想定内であったか論じられるものは大抵想定内である。ただ、対処や予防策をとるのが面倒で、想定外だった、みたいに言うことが多いのだ。信じられないようなレベルのミスが起こったとしてもそれは想定内であり、ただ対応外であっただけなのだ。

そもそも想定外の出来事とは、完全に思想の枠を外れているわけだから、それが生じたとき、そもそも想定外だったか想定内だったかの議論すら起こらない。起こりえないことだけど起こってしまったのだから仕方ない、そう諦めるか誰も信じてくれないか、そういった事象が想定外なのだ。

思えば、僕の色々な経験の中でも、これは想定外だった、と言いたくなるようなことはたくさん起こった。けれども、今思い返してみると、別に別の宇宙というレベルでベクトルが異なった事象ではなかったように思う。言い換えれば、想定外ではなく、想定はできたけど想定しなかっただけなのだ。ただ唯一、これは想定外だろう、という事象が巻き起こったことがある。そう、あれは高校生の頃だった。

ちょうど今のような梅雨の鬱陶しい季節だったように思う。少しだけ雨がぱらついていた。週の真ん中の水曜日の午後、お昼ご飯を食べた後の最も眠い時間に社会の授業を受けていた。

この社会の先生が、抑揚のない調子で淡々と呪文のように教科書を読むだけの先生で、僕らの間ではラリホーの使い手として恐れられていた。聞いているととにかく眠たくなるのだ。しかも昼食後という最も眠い時間、さらには先生も教科書を凝視しているだけなので、寝ても怒られない。そんな事情もあって、クラスの全員が寝るレベルのとんでもない授業だった。

クラスで一番の優等生で真面目だった井上さんまで机に顔を突っ伏して寝るくらいだったから、まあ、クラスの全員が寝ていた。僕は一番後ろの窓際に座っていたのだけど、なぜかその日は起きていた。前日に夕方6時くらいに寝てしまい、完全に睡眠が満ち足りている状態だったためなぜか起きて呪文を聞いていた。

この席からはクラス全体が見渡せるのだけど、本当にクラス全員が寝ていて、教卓で先生が呪文を詠唱しているという、なんかシュールな光景が広がっていた。ボーっとその光景を眺めていたのだけど、異変に気付いた。窓際にパンツが干してある。ハンガーを使って窓際に赤いトランクスがぶら下げてあった。

ちょっとギョッとしたけど、これはお昼ご飯を外に買いに言った中島が、雨の中を自転車で駆けて行ってずぶ濡れになったから干していたものだった。ちょっとギョッとしたけど、想定外というほどのことではない。想定できる範囲の事象だ。お調子者キャラの中島が、これでノーパンだよ~とか言いながら干している光景が目に浮かぶ。たぶん女子は見て見ぬふりしていたんだろう。

呪文を詠唱する教師に、その呪文が完全に効いて眠っている40人、そのシュールな光景に窓際の赤いパンツというさらなるシュールが追加されたのだけど、ここから想定外の光景が広がることとなった。

少し雨が上がってきたのかな、と外の光景を見てギョッとした。すげえでかい鳥が飛んでいた。種類は分からないのだけど、サギ?みたいな感じの1メートルはありそうなデカい鳥が小雨の中、颯爽と窓の外を飛んでいた。驚きはするけど、別に想定外というわけではない。僕の学校は田舎にあって、近くに野生の鳥を集めるために整備した公園、みたいなものがあったので、そこに集まってきた鳥だろうと思った。それにしてもでかいなーとか思ってたら、その鳥が進路を変えてこっちに飛んできた。

そう思ったらそのままバッサバッサと滑空して、開いていた窓から教室に飛び込んできた。完全に想定外だ。前の窓から入ってきた鳥は、そのまま黒板横の物置机みたいな場所にとまり、なんかちょっとかっこいい、そういう置物みたいな感じで一本足で立っていた。

気づいているのは僕だけだった。というより、起きているのは僕だけだった。もう一人起きていた先生も、ただ教科書を凝視して呪文を詠唱しているだけなので鳥の存在に気づいていない。

詠唱する先生、寝る40人のクラスメイト、赤いパンツ、これに異常にでかい鳥、が追加された。想定を上回るシュールさだ。だれもこんなことが起こるとは考えない。しかもその鳥が目をギョロギョロさせて首を傾げたりしてるからなんか怖い。そのうち誰かを襲いだすんじゃないかとヒヤヒヤした。

鳥がテクテクと歩き出す。もう目が離せない。何をする気なんだ。いったい何が目的なんだ、気が気じゃない状態だが、鳥は帰るつもりなのか窓まで歩いて行った。そしてそこで衝撃の事件が起こる。

バシュ!

その鋭いくちばしで咥えたのは、窓際に干されていた中島の赤いパンツだった。

やめろ、シュールすぎる。ただでさえシュールすぎる状態なのに、その中のシュール二大巨頭が交わってはならん。ぜったいにならん。それは想定外過ぎる。僕の願いむなしく、鳥はパンツをハンガーから外し、右へ左へと揺さぶっていた。まさにちぎっては投げちぎっては投げといった状態だ。

もう僕は笑いをこらえられない状態で、一人で机に突っ伏して声を押し殺して笑っていた。ここで声をあげて誰かが鳥に気付いて悲鳴とか上げたら、驚いた鳥が暴れてパニックになるかもしれない。想定外の事態だったが、声をあげないほうがいいことはなんとなくわかった。

そのまま笑いをこらえて見ていると、やはり鳥は赤いパンツを完全に弄んでいて、けっこうキレのいい手旗信号みたいにバッサバッサと揺さぶっている。もうやめろーやめてくれーと思いつつ、そのまま鳥は窓から飛び去っていった。中島のパンツを咥えて。とんでもない、まるで静かな嵐のように、僕の心に動揺だけを残して彼は飛び立っていったのだ。

授業終了後、大騒ぎになった。中島のパンツがないと騒ぎになった。中島ちょっと半泣きだ。おふざけで干していたら本当にノーパンで家に帰ることになったのだ。

「俺のパンツどこいったんだよ、誰が盗んだんだよ」

しょんぼりする中島に僕はちゃんと真実を伝えていて

「授業中にすげえでかい鳥がはいってきて咥えてもっていった」

そう説明するのだけど、完全に全員の想定外だったらしく、そんなわけあるかと一蹴っされた。それでなぜか、僕が中島のパンツを盗んだ、ということになってしまった。こんなの想定外だ。

どんよりと曇った空を背景に飛び去って行くでかい鳥。あれこそが真の想定外というものだろうと思った。

「てめー、こんなミスしやがって。こんなの始めた。想定外だ!」

また老人が想定内のミスなのに怒鳴り散らす。

「本当に想定外ってのは、でかい鳥が入ってきてパンツ持ち去るくらいのことですよ。こんなの想定内だ。むしろ想定してないほうが悪い」

僕がそう反論すると、老人はさらに怒って

「お前みたいな意味不明なこと言うやつは想定外だ」

この想定外は本当に想定外だったんだろう。老人はそういう顔をしていた。